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第一章 「目覚めたら七歳でした」

第1話 太陽のように温かな家にしたいです

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 「い……………クー、起きなさい」

 優しい声が耳に響く。恐る恐る瞼を開けると、ぼやっとした人影が三、四人見える。目を凝らしていればやがて輪郭が戻り鮮明に映っていく。

 ふわっとした灰色系統の髪に不安気に瞬く翠眼すいがんの美女の膝の上に天使のような容姿の小さな男の子。反対には黒髪に碧眼の美丈夫が己の顔を覗き込むようにしている。

「クー大丈夫? やっと起きたのね、こんなに汗を掻いて……起きるのが早い貴女がメイドが呼びに行ってもずっと起きないから皆心配して待って居たのよ。でも良かった高熱も下がって」
「だいじょうぶー?」

 交差する凛とした女性の甘やかな声と子どもの可愛らしい声。瞬きを繰り返して隣で汗で湿った髪を手櫛で分けてくれる女性をよく見れば幼い頃の、記憶の片隅で大事にしまってきた母の姿をしていた。

「貴方、クーは大丈夫そうですからお仕事に行って下さいな。部下の人達が待っているのでしょう?」
「………勿論だ」

 記憶に残っている何時もの涼しい顔で早々と出ていく父のような男性の姿。見送りは必要ないと己で風のように出ていく様はさながらあの頃と同じだ。横目で見ながらイクシャはどういう事と思い詰めた表情で考える。
 

「クー汗を掻いたのだから気持ち悪いでしょう? ならお着替えしようか」

 その表情は汗を気持ち悪いと思った顔と読み取った母のような人がクーの頭を撫でながら言う。
 手を差し伸べられて掴もうと映った手は何時もよりもふっくらしていて何よりも小さかった。
 瞬きを繰り返していれば「何ボーとしているの?」と言われてしまい、両脇に母のような人の手がかかる。混乱する中ゆっくりと持ち上げられたイクシャは鏡に映った己の姿を凝視してしまった。

 驚きは声が出ない程だった。言葉にもならない悲鳴を心の中で上げてから。

 (こ、どもの、すが、た………っ)

「まず汗を拭くからねぇ」
「ねえねえ、まま。しあんも、ねえたまのおせわしたいーっ!」

 汗を布で拭き始めようとした母の動きを止めたのは小さな天使。猫撫で声でおねだりする姿は何とも愛くるしい。

 「じゃあ、そうねぇお洋服を侍女と選んできてくれるかしら?」「うん!」と言う会話を済ませたこの人は。

 (なんどみても、お、かあさまだわ……! これはゆめ、ではない、の……?)

 イクシャが二つになった頃、突然姿を消し何時の間にか父、ベルナールと離婚していた繊細で奥ゆかしいと白薔薇のような、そして蓮の花のような人のようだと評判だったネニュファールに違いなかった。

 頬を抓ったら尋常じゃない痛さ。見える景色も鮮明で息も吸って吐ける。声も鼓膜に響くように聞こえる。夢だとは思えない汗を拭かれる感触など。


「クーはママに似て綺麗な翠色の瞳だから、将来、凄く美人になるわよ」

 無邪気に屈託もなく笑う笑顔が見ることもなくなってしまうのか、とその可能性が脳裏にちらつく。それだけで悔しくて悲しくて不安で、落ち着かなくて。中身は大罪人と扱われた大人のイクシャ、だけど外見は何も知らなかった、少し我儘な幼いイクシャ。表情も取り繕う事なんて儘ならず、感情に素直に生きて来たイクシャは、その心のままに顔を歪めた。

 今にも泣きだしそうにして、その翠の大きな瞳を潤わせて。彼女の顔が曇るなら、険しくなり涙するのなら、ネニュファールの世界は太陽は翳り暗闇に陥り、豪雨が降るだろう。胸が痛むだろう。

 ネニュファールは突然の娘の泣き出しそうな表情に慌て驚くも、まだ手の届く所に居てくれるイクシャの髪を櫛で大丈夫よ、と繰り返しながら梳かした。己の心まで覚られないようにして静かに口を開く。 

「……あのね、クー、この事をもし覚えていたらで良いから、何時かクーが辛くなったり責められたりしたときはママを頼って頂戴。ママは、クーの隣に居るから」

 精一杯護るからと抱き締められる。久し振りに感じる温もりに涙が出そうになる。華奢で今にも折れてしまいそうな腕をそっと握る。骨の細さが手から伝わってきてやっぱり夢ではないと確信するイクシャ。

 ネニュファールにとって、それは決意のようなものだった事をイクシャはまだ気付かない。その現実な事に驚きのあまりネニュファールの表情の変化や彼女にとっての言葉の重さに気を止めて居られなかったのだ。

 母と言う平凡な形となっていた家を保る柱だった人が居る鮮明な記憶はもう色褪せて薄れてしまっているけど、イクシャは唯一その温もりだけは憶えていた。

 (懐かしいなあ………この匂い、好きだなあ……あー……大好きだなあ)

 逢いたいと願っても逢わせてくれなかった、逢えなかった、人との再会。儚げでだけど母の意思が伝わる芯のある力強い抱擁。イクシャの枯れたと思っていた涙で視界の輪郭は奪われていた。
 ずっと、この母と言う人の腕に包まれて居たいと、このまま時間が止まってしまえばいいのにとさえイクシャはぼんやりと思い願った。母に大人と呼ばれるようになったイクシャでさえ子どもに変わってしまう。
 触れていても、触れた感触を忘れてしまったから。

「ぅ、うん……っ」

 二度目の人生。今度は『子どものイクシャ』として始められる。

 まだ間に合う。力を尽くしてこの温かさを守ろう。太陽のように温かな家にしよう。出来る事をしてこの幸せが続くように。同じように愛を欲して、だけど言い出せなかった弟に精一杯の愛と感謝を込めて罪を犯さず、誰の邪魔もせず、平凡に生き切って弟の望むもの全てを与える。
 
 安心してあの子が幸せになれるように、イクシャは青空に決心した。


  ▲▽▲


 リュシアンと侍女が選んできた洋服を身に纏い朝食を済ませたイクシャはまだ信じられないと窓の外を見つめ目に沁みる蒼空に唾を呑んだ。
 その時だった、ねえ、ねえと服の袖を小さく掴んで引く力が。蒼空から目線をその力の方向へと移せば、ネニュファールと侍女と、大はしゃぎで外に遊びに行った筈のリュシアンが。

「ねえたまー? もう“あついあつい”は、なおったの?」

 “あついあつい”とは高熱のことであろう。そんな風に言い換えるリュシアンの星の瞬きを全て閉じ込めたようなくりくりと大きな瞳がイクシャの顔を覗き込むように下から見上げる。

 その子供特有の言い換えに何だか愛らしくて笑いそうになっていたイクシャは心配気な表情に思わず心臓が止まるような感覚に陥る。ぎゅ、とリュシアンのその小さな手に掴まれたような痛みが胸に走り、リュシアンが己のことを心配して不安に思っているのだと解ったらすぐにまた、何かにぽっと点火されたようなほの温かさが。
 
「え、ぇ……もう、熱はないわ」
「じゃあっ! しあんとあそべるねー!!」

 一瞬にしてリュシアンは表情をころりと変え輝くような、その顔に太陽でもあるのかと疑うくらいの笑顔になって兎の足跡のような笑窪が露わになる。胸が轟くように躍っていたイクシャは抑えきれない愛しさに釣られて笑う。

 (か、かわいい………っ! 滅茶苦茶になるくらいにかわいいっ!!)

 心の臓が骨を突き破ってリュシアンに飛び掛かるってくらいに高鳴る胸にリュシアンをぎゅっと抱き締めて、イクシャはまた笑う。

「じゃ、じゃあ何から遊ぼうか?」
 
 そうだなあっと真面目な顔して考える姿が堪らなく愛おしくて、どうして今まで自分はリュシアンを見逃し壊れた両親と同じように放っておいたのだろうと後悔の念に駆られて。
 
 まだ子供のリュシアンの無邪気な姿を眩しそうに見つめる七歳のイクシャは思う。
 それは一つの夢かもしれなかった。夢なのだ、これは。立派なイクシャ・リセ・ローベルの。夢や希望がない暗闇の中に絶望の淵に立っていたイクシャのたった一つの夢。

 (私の夢は、天使が住む太陽のように温かい家と呼ばれることだ)
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