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七章 ブロン家編
フィーネ、フローラの革命
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「グレーテ姉さんの顔、傑作だったな!」
「フィーネ、あんまり姉さんをからかってはいけないわ」
二人の、共有された下半身は迷うことなくリビングを縦断した。フィーネがキョロキョロ、薄暗い室内を見渡す。
「エルマーがいない」
「おおかた、玄関の絵でも見てるのよ」
二人は、埃っぽいソファに腰を下ろした。壁側の本棚には、ところせましと大小様々な本が並べられている。そのうちの何冊かは、“飛ぶ教室”のような発禁図書だ。
「よく飽きないな。ピカソ? だっけ?」
「“恋は盲目”……なんてね」
フローラはクスクス笑いながら本棚に手を伸ばした。エルマーの芸術好きはブロン家の中でも秀でていて、特に絵画を見る目は確実だった。バイオリンの演奏にも長けていて、ブロン家の家宝の一つ、ストラヴィヴァウスでの演奏は評判だ。
「ねぇ、ちょっとピアノ弾かない?」
フィーネが部屋のランプのスイッチを回した。オレンジ色の夕日は、遮光カーテンでほとんど差し込まない。フローラは膝の上に、本棚から取り出した小説を乗せた。ブロン家の本棚には、もっと古く貴重な書籍もあり、この本は比較的新しいものだった。フローラが毎日読み込んだせいで、表紙の端が擦り切れている。
「本を読みたいの」
「それ、もう何回も読んだろ」
「好きなの」
フィーネはいつも通り、フローラの身体に腕を回す。膝に置かれた本のページに描かれた、禍々しい挿絵を一瞥した。
「もう覚えちゃったよ、リチャード・プランタジネット――連合王国の貴族でしょ?」
「……そうね」
「変なの」、フィーネは唇を尖らせながらも強く拒否することはなかった。フローラの肩に頭を預ける。二人は喧嘩をしたことがなく、いつも仲睦まじい。フィーネが主導権を握っているようで、その実反対だった。
フローラはたっぷり三十分、リチャード・プランタジネットの物語を堪能した。彼の息子のリチャード三世が、甥のエドワードとリチャードをロンドン塔に幽閉するシーンが、フローラの一番のお気に入りだった。
「ね、またこれ聞こうよ」
フローラが本を閉じると、フィーネがすかさず明るい声を上げた。大きな本棚の一番右に置かれた最新式のラジオ。少し前に来た、行商人が置いていったものだった。
母、エリザベートは頭痛を催す不快な雑音を毛嫌いし、子供たちに周波数を合わせることを禁じていた。グレーテは素直に母の言いつけを守ったし、ベッティーナなエルマーはその四角い箱に関心さえ示さなかった。
しかし、フィーネとフローラは違った。二人はラジオの持つ、素晴らしい魅力に気がついていた――外の世界を知ることができる麻薬。母親の目を盗んでこっそりラジオを聞くことは、二人の密かな楽しみだった。
「ピアノはいいの?」
「そのあと!」
エリザベートの頭痛など、この双子にとっては些細な問題だった。フローラが右手を伸ばして、ダイヤルを回して周波数を合わせる。
たいていは音質の悪い粗悪なオーケストラの演奏や、耳障りな政治家の演説なんかが流れてきた。そうでなければ汚職や不倫のニュース。二人は、いっそう目を輝かせてそれらに聞き入った。隣国、ゲルマニア帝国の戦争のニュースすらも。
***
「あーあ、なんか飽きちゃった。ピアノ弾こ、ピアノ」
「はいはい」
フィーネの言葉に、フローラはラジオの電源を落とした。エリザベートに見つかったら大変なことになる。不思議なことに、頭痛持ちで音に敏感な彼女たちの母親は、フィーネとフローラのピアノ演奏は好んだ。『ブロン家の奇跡』、と絶賛するほどだ。
実際、彼女たちのピアノの才能は、容姿以上に価値のあるものだった。特に、リストの超絶技巧練習曲は得意中の得意で、マゼッパやラ・カンパネラを容易に弾きこなした。楽譜よりも遥かにたくさんの音の粒を降らせ、それはまだ三歳だったエルマーが、始めたばかりのピアノをやめてしまうほど圧倒的だった。
暗く、ランプの灯りだけがゆらゆら揺れるリビングにピアノの音が響く。屋敷中に、その素晴らしい演奏は響き渡った。
締め切られたドアがギィ、と古い音を立てて開き、二人は鍵盤から同時に手を離した。四つの眼が、扉のほうへ向く。
「……姉さん」
エルマーが小さく声をあげた。姉たちのピアノ演奏に聴き入っていたことは明白だった。フィーネがいたずらっぽく、歯をみせて笑った。普段そうしているように、フローラの身体に腕を回す。
「えっと……もうすぐ夕飯っすよ」
「あら、もうそんな時間」
ピアノの蓋を閉めて立ち上がる。流行遅れの瀟洒な家具や、最新式のラジオと違い、リビングに置かれているものの中で、このグランドピアノだけは一度も埃を被ったことがない。双子のピアノは愛されていた。
エルマーが俯きがちにメガネを直した。ピアノと、それから楽譜の棚に交互に視線を送る。楽譜のほうは古く埃を被っていて、特にモーツァルトなんかは酷く、虫が食っていた。
「僕も姉さんたちみたいに弾けたらなぁ」
エルマーは小さく息を吐いた。スタスタ部屋を出ていってしまった姉のあとを、急いで追いかける。廊下の窓から見える空は暗く、もうすっかり太陽は沈んでいることがわかる。マーブル模様に洗髪されたエルマーの髪が、壁に掛かった松明に煌々と照らされた。
「無理よ」
フローラはツンと澄ました表情のまま答えた。フィーネはフローラに腕を回したまま、ニコニコ笑みを浮かべている。エルマーがムッとして二人を見上げた。
「どうして?」
「だって腕が二本しかないもの」
エルマーを見下ろして、ニヤッと笑った。その悪意すら、美しい顔立ちのおかげで妖艶で魅力的に見える。廊下には、パチパチ松明が燃える音だけが響いた。
「フィーネ、あんまり姉さんをからかってはいけないわ」
二人の、共有された下半身は迷うことなくリビングを縦断した。フィーネがキョロキョロ、薄暗い室内を見渡す。
「エルマーがいない」
「おおかた、玄関の絵でも見てるのよ」
二人は、埃っぽいソファに腰を下ろした。壁側の本棚には、ところせましと大小様々な本が並べられている。そのうちの何冊かは、“飛ぶ教室”のような発禁図書だ。
「よく飽きないな。ピカソ? だっけ?」
「“恋は盲目”……なんてね」
フローラはクスクス笑いながら本棚に手を伸ばした。エルマーの芸術好きはブロン家の中でも秀でていて、特に絵画を見る目は確実だった。バイオリンの演奏にも長けていて、ブロン家の家宝の一つ、ストラヴィヴァウスでの演奏は評判だ。
「ねぇ、ちょっとピアノ弾かない?」
フィーネが部屋のランプのスイッチを回した。オレンジ色の夕日は、遮光カーテンでほとんど差し込まない。フローラは膝の上に、本棚から取り出した小説を乗せた。ブロン家の本棚には、もっと古く貴重な書籍もあり、この本は比較的新しいものだった。フローラが毎日読み込んだせいで、表紙の端が擦り切れている。
「本を読みたいの」
「それ、もう何回も読んだろ」
「好きなの」
フィーネはいつも通り、フローラの身体に腕を回す。膝に置かれた本のページに描かれた、禍々しい挿絵を一瞥した。
「もう覚えちゃったよ、リチャード・プランタジネット――連合王国の貴族でしょ?」
「……そうね」
「変なの」、フィーネは唇を尖らせながらも強く拒否することはなかった。フローラの肩に頭を預ける。二人は喧嘩をしたことがなく、いつも仲睦まじい。フィーネが主導権を握っているようで、その実反対だった。
フローラはたっぷり三十分、リチャード・プランタジネットの物語を堪能した。彼の息子のリチャード三世が、甥のエドワードとリチャードをロンドン塔に幽閉するシーンが、フローラの一番のお気に入りだった。
「ね、またこれ聞こうよ」
フローラが本を閉じると、フィーネがすかさず明るい声を上げた。大きな本棚の一番右に置かれた最新式のラジオ。少し前に来た、行商人が置いていったものだった。
母、エリザベートは頭痛を催す不快な雑音を毛嫌いし、子供たちに周波数を合わせることを禁じていた。グレーテは素直に母の言いつけを守ったし、ベッティーナなエルマーはその四角い箱に関心さえ示さなかった。
しかし、フィーネとフローラは違った。二人はラジオの持つ、素晴らしい魅力に気がついていた――外の世界を知ることができる麻薬。母親の目を盗んでこっそりラジオを聞くことは、二人の密かな楽しみだった。
「ピアノはいいの?」
「そのあと!」
エリザベートの頭痛など、この双子にとっては些細な問題だった。フローラが右手を伸ばして、ダイヤルを回して周波数を合わせる。
たいていは音質の悪い粗悪なオーケストラの演奏や、耳障りな政治家の演説なんかが流れてきた。そうでなければ汚職や不倫のニュース。二人は、いっそう目を輝かせてそれらに聞き入った。隣国、ゲルマニア帝国の戦争のニュースすらも。
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「あーあ、なんか飽きちゃった。ピアノ弾こ、ピアノ」
「はいはい」
フィーネの言葉に、フローラはラジオの電源を落とした。エリザベートに見つかったら大変なことになる。不思議なことに、頭痛持ちで音に敏感な彼女たちの母親は、フィーネとフローラのピアノ演奏は好んだ。『ブロン家の奇跡』、と絶賛するほどだ。
実際、彼女たちのピアノの才能は、容姿以上に価値のあるものだった。特に、リストの超絶技巧練習曲は得意中の得意で、マゼッパやラ・カンパネラを容易に弾きこなした。楽譜よりも遥かにたくさんの音の粒を降らせ、それはまだ三歳だったエルマーが、始めたばかりのピアノをやめてしまうほど圧倒的だった。
暗く、ランプの灯りだけがゆらゆら揺れるリビングにピアノの音が響く。屋敷中に、その素晴らしい演奏は響き渡った。
締め切られたドアがギィ、と古い音を立てて開き、二人は鍵盤から同時に手を離した。四つの眼が、扉のほうへ向く。
「……姉さん」
エルマーが小さく声をあげた。姉たちのピアノ演奏に聴き入っていたことは明白だった。フィーネがいたずらっぽく、歯をみせて笑った。普段そうしているように、フローラの身体に腕を回す。
「えっと……もうすぐ夕飯っすよ」
「あら、もうそんな時間」
ピアノの蓋を閉めて立ち上がる。流行遅れの瀟洒な家具や、最新式のラジオと違い、リビングに置かれているものの中で、このグランドピアノだけは一度も埃を被ったことがない。双子のピアノは愛されていた。
エルマーが俯きがちにメガネを直した。ピアノと、それから楽譜の棚に交互に視線を送る。楽譜のほうは古く埃を被っていて、特にモーツァルトなんかは酷く、虫が食っていた。
「僕も姉さんたちみたいに弾けたらなぁ」
エルマーは小さく息を吐いた。スタスタ部屋を出ていってしまった姉のあとを、急いで追いかける。廊下の窓から見える空は暗く、もうすっかり太陽は沈んでいることがわかる。マーブル模様に洗髪されたエルマーの髪が、壁に掛かった松明に煌々と照らされた。
「無理よ」
フローラはツンと澄ました表情のまま答えた。フィーネはフローラに腕を回したまま、ニコニコ笑みを浮かべている。エルマーがムッとして二人を見上げた。
「どうして?」
「だって腕が二本しかないもの」
エルマーを見下ろして、ニヤッと笑った。その悪意すら、美しい顔立ちのおかげで妖艶で魅力的に見える。廊下には、パチパチ松明が燃える音だけが響いた。
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