ドレスデンのドリルきゅん

つなかん

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八章 ギムナジウム編

昼休み

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 リドルにとって、初めての学校はあまり良いものと言うことはできなかった。午前の授業は散々なものとなった。
 読み書きすらできないリドルにとって、英語の授業は宇宙人と交流を図るようなものだったし、どんなに優れた教師でも、四則演算すらできない彼に二次関数を教えることはできない。

 リーゼロッテやエルマーは上の学年だったし、そうでなくともリドルは彼らと仲良くするつもりなんてサラサラなかった。
 クラスメイトたちは皆リドルを遠巻きに見て、時折怯えた様子でヒソヒソ話を始めた。学校では、軍隊のようにハッキリした上下関係がない。リドルは舌打ちをして、いつもの癖で机に足を乗せる度に教師に注意されるハメになった。

 退屈な授業が終わると、生徒たちは一斉にカフェテリアに集合した。窓が多く開放的で、全校生徒を余裕で収容できる広さも兼ね備えていた。雨が降っているせいで、残念ながら今日はテラス席や中庭で昼食をとることはできない。
 雨足は激しさを増し、一瞬でも外に出ようと考えられない。窓は締め切られ、空はどんより曇っていた。ランチに行列を成す生徒たちを尻目に、リドルは隣の売店に真っ先に向かった。

「マルボロ、赤」
「……」

 ポケットから、父親に貰った西ドイツマルク硬貨を取り出した。計算ができないのでいくら払ったらいいのかわからず、数枚の白銅をレジに放り投げる。
 レジ係の年配の女性は椅子に座ったまま動こうとせず、持っている新聞からゆっくりとリドルのほうへ視線を移した。小馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、またすぐに視線を新聞に戻す。
 実家の農村や軍隊でチヤホヤされて暮らしてきたリドルにとって、耐えがたい現実だった。殺しはなし――そうエルマーに言われてさえいなければすぐにでも強奪していたところだ。再びポケットに手を突っ込む。

「なかったら緑でもいいよ」
「……」

 今度は紙幣を取り出した。一番大きいであろう数字の、グリム兄弟の書かれたものをレジに数枚並べる。

「ねぇ聞こえないわけ?」

 リドルはイライラしてレジをトントン指で叩いた。昨晩タバコが切れてからというものずっと機嫌が悪い。さらに慣れない勉強というものをさせられ、ストレスが果てしない。

「まさか、オバサンまで『子供はタバコを吸っちゃいけません』、なーんて言うつもりじゃないよね?」

 無遠慮にレジに身を乗り出した。東では珍しくない、しかし平和ボケした西では稀な、殺意に満ち溢れた目。
 「オバサン」と呼ばれてもレジの年配女性は動じることはなかった。リドルの好戦的な雰囲気にも一切物怖じせず、ゆっくり丁寧に新聞を畳む。面倒臭そうに立ち上がり、カウンターからひょっこり顔を出す。

「アンタ、ここの生徒?」
「今日からね」

 リドルはポケットから色とりどりの札束を並べた。金の価値も数字もわからない彼にとって、札束はただの紙切れでしかない。
 権力に執着した父親が必死で集めた税金は、湯水のように一箱のタバコのために使われようとしている。

「これでも足りないわけ?」

 リドルは不満げに唇を尖らせた。たった一箱のタバコを入手するのにこんなに苦労したことはない。
 軍ではリドルに媚びを売り、チヤホヤしてくる部下たちがいくらでも高級葉巻を横流ししてきたし、そうでなくとも侵略先の貯蔵庫からタダでくすねてくるものだった。
 こんなに金を積んでいるのに「どうぞ」と渡してこないなんて、今までの常識が覆る。

「アンタに売るもんはないよ」
「はぁ……わかったよ」

 リドルはさらに札束を積んだ。レジのトレイにはその辺のサラリーマンの月収くらいの金額が並べられている。売店の女性はそれらをトレイごとリドルにつき返した。

「金の問題じゃない!」

 リドルはキョトンと目を丸くした。首を傾げながら、白銅のコインや色とりどりの札束をポケットにしまう。
 未成年は酒もタバコも禁止、西での常識がにわかには信じられなかった。今までは、戦果さえあげればなにをしても許された。酒もタバコも、民間人の虐殺も、行き過ぎたパワハラも、部下の過労死も全部揉み消した。政治批判だって――いや、政治批判だけは許されなかったか。

「金じゃないなら、名誉? 突撃章のバッジなら、荷物を探せばあるかも。かわいくないからどっかいっちゃったんだよねあれ」
「アンタね――」
「なにしてるの!?」

 口論を起こすことはリーゼロッテによって阻止された。リドルの腕を掴んで、売店からカフェテリアのほうへグイグイ引っ張っていく。
 リドルはレジ横の透明ケースに陳列されているマルボロ・レッドを恨めしそうに睨んでいたが、やがて諦めて視線を逸らした。

 リーゼロッテに導かれるまま、ガヤガヤしたカフェテリアの列に並び、流れ作業で昼食を受け取る。東のスーパーマーケットのような、永遠と伸びる配給の列とは全く違う。清潔で、早くて、何もかもが真反対だった。
 ずらっと並んだテーブルの、空いている席に腰を下ろした。トレイには牛乳と水、サラダにスープにパスタまで豪勢なメニューが並ぶ。目を丸くするリドルをよそに、リーゼロッテは当然のように紙ナプキンを膝に置いた。

「ちょっと、足を机に乗せないで!」
「……ッチ」

 本日何度目の注意かわからない。リドルは舌打ちをして、それからフォークを手に取った。リーゼロッテのような上品な持ち方ではなく、幼児のようにぐーで握った。リーゼロッテは眉をひそめたが、指摘することはなかった。目の前の食事に専念している。

「お前らいちいちうるせーんだよ」

 リドルは一層イライラした様子で貧乏揺すりを始めた。食事をするときは、ほとんど毎回手掴みで食べていたリドルにとって、このカフェテリアは異様な空間だった。全員がお行儀よく椅子に座り、似たような動きでフォークを動かしている。刑務所よりも余程不気味に思えた。リーゼロッテが大袈裟にため息をついてリドルをチラリと盗み見る。

「学校でタバコを買おうおするなんて信じられない!」
「パパからお小遣い貰ったんだからいーだろ」
「タバコを買うために渡したお金じゃないと思うけれど」

 リドルはムスッと不機嫌にパスタを頬張った。一気に口に含もうとするせいで、ミートソースが唇やその周りをベタベタに汚し、かわいらしいフリフリのゴスロリ服にも赤いシミが跳ねた。一切気にする様子をみせず、牛乳の瓶を開けて一気に飲み干した。

「軍にいたときは、わざわざ買わなくても向こうから『いかがですか~』ってみーんな差し出してきたぜ」

 パスタを飲み込むと、かわいらしく唇をペロリと舐めた。サラダは食べるつもりはないらしく、退屈そうに足を組む。背もたれに体重を預け、椅子の後ろの二本の脚でバランスを取ってゆらゆら揺れる。
 いつものように食後のニコチンを摂取することができず、不機嫌に窓の外に目をやった。雨はますます強くなり、強風に煽られ中庭に植えられた花が散ってゆく。

「ここで買えないなら、街で調達するしかないか」
「今日は“ぺトリコール”の日だから外に出ちゃダメよ」

 リーゼロッテは静かに、しかし強い口調でピシャリとそう言った。締め切られたカフェテリアの窓ガラスを風が叩き、とても外に出られる状況ではない。晴れている日は太陽の光が降り注ぐ大きな窓ガラスも、吹き抜けの天井も、今日のような天気では鬱屈した不安を煽るだけだった。

「はぁ? なんだよそれ」
「そういう決まりなの」

 ――ぺトリコールの夜。気になれない言葉にリドルは声を荒らげた。そんな訳の分からない理由でタバコが吸えないなんてたまったものじゃない。
 人殺しはナシ、エルマーにそう言われていなければ、今頃あの売店の女を血祭りにあげ、その遺体をブーツで踏みつけながらマルボロ・レッドを味わっていたことだろう。

「理事長? のオバサンは『自由な校風』って言ってたけど」
「校則はほとんどない。廊下を走ったって、夜いつまで起きてたっていい。でも、“ぺトリコールの夜”だけは別なの」

 リーゼロッテは早口でそう答え食事を再開させた。器用にパスタをフォークに巻き付け口に運ぶ。“ぺトリコールの夜”がどんな特別なものなのか、リドルには全く理解できなかったが、とにかく学校の外に出ることが叶わないらしい。

「んじゃ俺はどこでタバコを買えばいいんだよ」
「知らないわそんなの!」

 リーゼロッテのにべも無い言い方に、リドルは目を細めた。ぶらぶら揺らしていた椅子を元に戻し、リーゼロッテのほうに身を乗り出す。

「お前がそこまで言うなんて珍しーじゃん」
「え?」
「影の操作より、時間操作のほうが使えると思うけど」

 リドルがニヤッと笑いかけるが、リーゼロッテの表情は固まった。視線が左右に揺れる。わざわざ心を読まなくとも、動揺しているのが丸わかりだった。

「ねぇ、本当にダメなの。前にこの校則を破った子がいて……行方不明になってるし」
「はぁ? そんなん俺には関係ねーし」

 リドルは不満げに足をジタバタ動かしたが、機嫌を取ってくれる部下たちはここにはいなかった。リーゼロッテは最後のスープを飲み終え、ナプキンで丁寧に口を拭う。貴族流の、上品な食べ方。

「その話、詳しく聞かせて貰っても?」

 リドルの隣の席に、少々乱暴な動きで食事の乗ったトレイがバンと置かれた。リドルと同じ金髪に碧眼、しかし髪はリドルと違って短く切りそろえられていた。
 リドルの兄、ハインリヒ・シュタイナーだ。なぜか普段と違う七三分けで、銀縁のメガネをかけている。

「なんでお前ここにいんだよ」
「別にいいだろ」

 面倒臭そうに椅子に座る。気乗りしない気だるげな表情。リーゼロッテが小さく息を飲む。以前、ハインリヒの顔を気に入っている、という趣旨の発言をしていたことを思い出し、リドルは小さく鼻を鳴らした。

「で、行方不明って?」

 ハインリヒの言葉に、リーゼロッテは薄い唇を噛み締めた。彼の顔を見ないように目を逸らしている。いそいそと椅子から立ち上がり、トレイを持ち上げた。

「いくら貴方でもそれは教えられないわ。私まだ死にたくないの」

 早足で立ち去ってしまう。リドルは彼女の後ろ姿をじっと見つめたのち、明るく口を開いた。時間が経ち、ニコチンへの欲求が落ち着いてきたのかもしれない。

アイツリーゼロッテがあそこまで言うなんで相当だな」
「たしかに……時間操作でなんとでもなりそうなもんだが」

 ハインリヒは首を傾げながらスープを口に含んだ。アツアツのスープとの温度差で結露が起きて、メガネが白く曇る。ハインリヒは不快そうに顔をしかめ、メガネを外してテーブルの隅に置いた。フォークを手に取り、パスタに突き刺す。
 彼も、リドルほどではないが食事のマナーがなっていない。リドルと違い、指摘されるたびに改善する努力をしてきたからマシなだけであって、所詮付け焼き刃の動きでしかなかった。この学院の生徒たちの中では浮いてしまう。兄弟揃って、育ちが悪いことはすぐにバレるだろう。

「てかお前何、先生? 教師なんてガラかよ」
「やっぱ無理あるよな……?」
「自覚あったんだ?」

 いつもなら威勢よく言い返してくるところを、自信なさげに小さく頷く。こんな風に同意を求められることはほとんどなかったので、リドルは柄にもなく返事に臆してしまった。

「俺は、人殺ししか能がない」

 ハインリヒはミートソースのパスタを噛み締めながらそう呟いた。肉にトマトに小麦、どれも東では高級品だ。そう簡単に食べられる代物ではない。

 ――人殺ししか能がない。

 ハインリヒが、しばらくギロチン係をしていたこともリドルは知っていた。嬉しそうに微笑んで、ぴょんと勢いをつけて立ち上がる。

 ハインリヒがなぜこの学校にいるのか、教師をしているのか、そんなことはどうでもよかった。ニヤッと、性格の悪そうな笑みを兄に向ける。

「俺とオソロイじゃん。よかったな、お兄ちゃん」
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