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八章 ギムナジウム編
〝墓参り〟
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「そういえばグレーテ姉さんは?」
「どうせまたお掃除でしょ」
アインツ、ツヴァイ、ドライ、フィーア、フュンフ、ゼックス、ズィーベン、アハト、ノイン、ツェーン――。地下室を降りるときは必ず数を数える。子供の頃そうであったように。
実家の暗い地下室は恐ろしく、せめて明るく振る舞わなければ耐えられなかった。この学院の地下室も、じめじめして薄暗い。フィーネは努めて明るく振舞った。ランプを持つ手に力が入った。
「彼氏でも作ればいいのに」
「それを言ったら可哀想……姉さんは自分でもわかってるでしょ」
「なにが?」
フィーネは首を傾げた。フローラの黒い瞳孔がランプの明かりに反射して魅力的に輝いた。激しい雨音が頭上から響いてくる。
実家と違い、この学院の地下室の入口は複数存在した。焼失して改装中の教会、音楽室、理事長室、南棟の一番端の部屋等等。“門番”の役割は多岐に渡った。誰にも悟られることなくそれらを守る必要がある。そして、雨の降る日――ぺトリコールの夜には安全に帳簿を移動させる。フローラは黒い表紙のノートを胸に抱いたまま、フローラに向かってニッコリ微笑んだ。
「誰にもキスされることはない、って」
「なにそれ、ウケる」
フィーネは明るく笑った。無理矢理にではなく、心の底から面白いと感じて笑顔を作った。フィーネはユーモアのセンスが少しズレていたが、本人にはその自覚がなかった。フローラはそれを知っていたが、あえて指摘することはこれまでなかった。
「この前の人はもう別れたの?」
フローラの問いに、フィーネは小さく息を吐いた。フィーネの交際事情をフローラが知らないはずもなく、なかば嫌味を含んだ言葉だった。明るい性格で、一度見たら忘れられないほどの美少女。彼氏が途切れないわけがなかった。
「アイツ、フローラの悪口ばかり言うんだもん」
「私は気にしないわよ。それに、ちょっとかっこよかったじゃない」
階段を降りきると、古い大きな扉が現れた。共和国がまだ帝国だったとき、ブロン家がまだ栄華を極めていた時代に所有していた広大な土地のうちの一部。まさか、こんなしょうもない脱税行為に地下室を使われるとはご先祖さまも想像していなかっただろう。
「今日来た人もちょっとイケメンじゃなかった?」
扉の前でピタリと立ち止まってフィーネがランプを持ち上げた。フローラはぎゅっと強く帳簿を握った。不快そうに眉根に皺を寄せる。
「ハインリヒ・シュタイナー? 私あの人嫌い」
「珍しい~。でもでも、アイツ絶対フローラのこと好きだよ」
「そうかしら? リストも知らないなんて、おかしな人」
フィーネは横目でフローラの様子を伺って、やれやれと首を振った。フローラはフィーネに負けないくらいモテたが、交際相手を慎重に選ぶ傾向にあった。フィーネにはそれが少々不満であり、また嬉しくもあった。
「フローラのこと、ずっと見てたもん」
「見世物じゃないのに」
フローラは難しい表情を浮かべた。フィーネと違い目立つことを好まない性格の彼女は、閉じられた美しい虚構の世界を好んだ。
美しい容姿も、ピアノ演奏も、魅力的な瞳も、決して見せびらかすものではない。そう考えているようだぅた。
「そういう意味じゃないよ。だいたいフローラは理想が高すぎるよ。リチャード・プランタジネットなんてさ」
ランプを持った手と反対の右手でドアノブを握る。ギィ、と軋んだ重い音がする。古い木材のカビた、泥のような匂いが鼻をつく。
美しくない、夢とは表裏一体の現実の世界。税金に汚職、血。どんな人間にも付き纏う。フローラの大好きな、リチャード・プランタジネットでさえ。
***
地下室の扉を開けて真っ先に目に入るのは、大きな透明の瓶だった。三歳の、頭から血を流した人間の子供がホルマリン漬けにされて収められている。瓶にはラベルが巻かれており、「Oscar」とだけ書かれていた。ブロン家の長男、オスカー。
「遅い」
真っ先にグレーテの冷たい声が飛んできた。神経質そうにずり落ちたマフラーを持ち上げる。顔のほとんどが隠れていたが、特徴的な翡翠の瞳がギョロギョロと双子を睨みつけた。
痩せていて、姉や妹たちのようにとりわけ美人というわけではなかったが、目や鼻の造形は整っている。神経質で怒った雰囲気さえなければ、もっと交友関係は広まっただろう。
しかし、グレーテが自らそれを望むことはない。フローラの言う通り、彼女の大きなコンプレックス――兎口では、誰もキスしたいと思わない。
影を操る能力――グレーテはその名の通り、徹底的に裏方に徹していた。帳簿の作成、完璧な証拠隠滅。グレーテの働きなくして、アウグストゥス・エンクライヴェ学院の運営は成り立たない。
「グレーテ姉さんはやーい」
ランプを壁に掛けながら、フィーネはのらりくらりと答えた。両手が自由になり、すかさずフローラに思い切り抱きつく。
「ほら、言ったじゃん。どうせお掃除だって」
フローラはのんびりと辺りを見渡した。地下室にはランプや蝋燭の僅かな光源しかない。それでも、綺麗に掃除が行き届いていることは明らかだった。
実家にいた頃から、グレーテは地下室の掃除に熱心だった。墓を持たないオスカーのため。グレーテだけは父親に似て真面目で、だからこそこの生活が成り立っている。
近づいてきたグレーテに、フローラは持っていた帳簿を手渡した。グレーテは黙ってそれを受け取るとパラパラと目を通し、パタンと大袈裟な音を立ててページを閉じる。
「お兄様は私たちを守ってくれる、そうでしょ」
凛とした声が地下室に響いた。部屋の奥からベッティーナが現れる。黒髪に、アイスグレーの瞳。ハッと息を飲むほどの美しさを持っていた。全盛期の母、エリザベートを彷彿とさせる。
病的なまでに青白い肌をチラチラ蝋燭の光が照らした。コツコツブーツを鳴らして、地下室の中央に置かれたオスカーの瓶の元に歩いた。
以前は車椅子生活で地下室の階段などとても降りることができなかった彼女だが、大嫌いな太陽を克服して、ビタミンD欠乏症からのくる病を改善させることに成功した。都合が良いので、表では歩けないフリをしている。
グレーテから帳簿を受け取ると日付を記入し、鍵のついた戸棚に慎重にしまった。
ブロン家の四人の姉妹たちは、それぞれ色の違う瞳を見合わせた。人を殺してでも、この生活は決して失うわけにはいかない。見事に目的は一致していた。
そうでなければ自分たちが殺される。施設のような物理的なものでなく、社会的に。それこそ本当にサーカスで働く必要に迫られる。彼女たちには耐えがたい酷いものだ。
絶対に曲げてはいけない信念があった。ギロチン台に登ってもなお、品格を持っていた母親の性質を、姉妹全員が受け継いでいた。
「どうせまたお掃除でしょ」
アインツ、ツヴァイ、ドライ、フィーア、フュンフ、ゼックス、ズィーベン、アハト、ノイン、ツェーン――。地下室を降りるときは必ず数を数える。子供の頃そうであったように。
実家の暗い地下室は恐ろしく、せめて明るく振る舞わなければ耐えられなかった。この学院の地下室も、じめじめして薄暗い。フィーネは努めて明るく振舞った。ランプを持つ手に力が入った。
「彼氏でも作ればいいのに」
「それを言ったら可哀想……姉さんは自分でもわかってるでしょ」
「なにが?」
フィーネは首を傾げた。フローラの黒い瞳孔がランプの明かりに反射して魅力的に輝いた。激しい雨音が頭上から響いてくる。
実家と違い、この学院の地下室の入口は複数存在した。焼失して改装中の教会、音楽室、理事長室、南棟の一番端の部屋等等。“門番”の役割は多岐に渡った。誰にも悟られることなくそれらを守る必要がある。そして、雨の降る日――ぺトリコールの夜には安全に帳簿を移動させる。フローラは黒い表紙のノートを胸に抱いたまま、フローラに向かってニッコリ微笑んだ。
「誰にもキスされることはない、って」
「なにそれ、ウケる」
フィーネは明るく笑った。無理矢理にではなく、心の底から面白いと感じて笑顔を作った。フィーネはユーモアのセンスが少しズレていたが、本人にはその自覚がなかった。フローラはそれを知っていたが、あえて指摘することはこれまでなかった。
「この前の人はもう別れたの?」
フローラの問いに、フィーネは小さく息を吐いた。フィーネの交際事情をフローラが知らないはずもなく、なかば嫌味を含んだ言葉だった。明るい性格で、一度見たら忘れられないほどの美少女。彼氏が途切れないわけがなかった。
「アイツ、フローラの悪口ばかり言うんだもん」
「私は気にしないわよ。それに、ちょっとかっこよかったじゃない」
階段を降りきると、古い大きな扉が現れた。共和国がまだ帝国だったとき、ブロン家がまだ栄華を極めていた時代に所有していた広大な土地のうちの一部。まさか、こんなしょうもない脱税行為に地下室を使われるとはご先祖さまも想像していなかっただろう。
「今日来た人もちょっとイケメンじゃなかった?」
扉の前でピタリと立ち止まってフィーネがランプを持ち上げた。フローラはぎゅっと強く帳簿を握った。不快そうに眉根に皺を寄せる。
「ハインリヒ・シュタイナー? 私あの人嫌い」
「珍しい~。でもでも、アイツ絶対フローラのこと好きだよ」
「そうかしら? リストも知らないなんて、おかしな人」
フィーネは横目でフローラの様子を伺って、やれやれと首を振った。フローラはフィーネに負けないくらいモテたが、交際相手を慎重に選ぶ傾向にあった。フィーネにはそれが少々不満であり、また嬉しくもあった。
「フローラのこと、ずっと見てたもん」
「見世物じゃないのに」
フローラは難しい表情を浮かべた。フィーネと違い目立つことを好まない性格の彼女は、閉じられた美しい虚構の世界を好んだ。
美しい容姿も、ピアノ演奏も、魅力的な瞳も、決して見せびらかすものではない。そう考えているようだぅた。
「そういう意味じゃないよ。だいたいフローラは理想が高すぎるよ。リチャード・プランタジネットなんてさ」
ランプを持った手と反対の右手でドアノブを握る。ギィ、と軋んだ重い音がする。古い木材のカビた、泥のような匂いが鼻をつく。
美しくない、夢とは表裏一体の現実の世界。税金に汚職、血。どんな人間にも付き纏う。フローラの大好きな、リチャード・プランタジネットでさえ。
***
地下室の扉を開けて真っ先に目に入るのは、大きな透明の瓶だった。三歳の、頭から血を流した人間の子供がホルマリン漬けにされて収められている。瓶にはラベルが巻かれており、「Oscar」とだけ書かれていた。ブロン家の長男、オスカー。
「遅い」
真っ先にグレーテの冷たい声が飛んできた。神経質そうにずり落ちたマフラーを持ち上げる。顔のほとんどが隠れていたが、特徴的な翡翠の瞳がギョロギョロと双子を睨みつけた。
痩せていて、姉や妹たちのようにとりわけ美人というわけではなかったが、目や鼻の造形は整っている。神経質で怒った雰囲気さえなければ、もっと交友関係は広まっただろう。
しかし、グレーテが自らそれを望むことはない。フローラの言う通り、彼女の大きなコンプレックス――兎口では、誰もキスしたいと思わない。
影を操る能力――グレーテはその名の通り、徹底的に裏方に徹していた。帳簿の作成、完璧な証拠隠滅。グレーテの働きなくして、アウグストゥス・エンクライヴェ学院の運営は成り立たない。
「グレーテ姉さんはやーい」
ランプを壁に掛けながら、フィーネはのらりくらりと答えた。両手が自由になり、すかさずフローラに思い切り抱きつく。
「ほら、言ったじゃん。どうせお掃除だって」
フローラはのんびりと辺りを見渡した。地下室にはランプや蝋燭の僅かな光源しかない。それでも、綺麗に掃除が行き届いていることは明らかだった。
実家にいた頃から、グレーテは地下室の掃除に熱心だった。墓を持たないオスカーのため。グレーテだけは父親に似て真面目で、だからこそこの生活が成り立っている。
近づいてきたグレーテに、フローラは持っていた帳簿を手渡した。グレーテは黙ってそれを受け取るとパラパラと目を通し、パタンと大袈裟な音を立ててページを閉じる。
「お兄様は私たちを守ってくれる、そうでしょ」
凛とした声が地下室に響いた。部屋の奥からベッティーナが現れる。黒髪に、アイスグレーの瞳。ハッと息を飲むほどの美しさを持っていた。全盛期の母、エリザベートを彷彿とさせる。
病的なまでに青白い肌をチラチラ蝋燭の光が照らした。コツコツブーツを鳴らして、地下室の中央に置かれたオスカーの瓶の元に歩いた。
以前は車椅子生活で地下室の階段などとても降りることができなかった彼女だが、大嫌いな太陽を克服して、ビタミンD欠乏症からのくる病を改善させることに成功した。都合が良いので、表では歩けないフリをしている。
グレーテから帳簿を受け取ると日付を記入し、鍵のついた戸棚に慎重にしまった。
ブロン家の四人の姉妹たちは、それぞれ色の違う瞳を見合わせた。人を殺してでも、この生活は決して失うわけにはいかない。見事に目的は一致していた。
そうでなければ自分たちが殺される。施設のような物理的なものでなく、社会的に。それこそ本当にサーカスで働く必要に迫られる。彼女たちには耐えがたい酷いものだ。
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