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S side 誕生日会 ep10
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初めて律が俺に笑顔を向けた。
頰に涙を伝わせながら、その端整さは失われないまま麗しく綻んだその表情に、俺はもう死んでも良いとさえ思えた。
十数年越しの労苦がほんの少し報われた気分になる。
俺と同様に律の感情表現に衝撃を受けていた隣の瀬戸は、しばらく黙った後、
「ほんとに桐山は、いっつもいいとこ取りだよね」
と文句を垂れた。
飯塚の家から帰って数日間は、昼夜問わず錯乱状態だった律の面倒をずっと見ていたのは瀬戸だから、まぁ言わんとすることは分からんでもない。
律の微笑みは数秒で消えてしまったが、その表情にいつもの切迫感や緊張や、もしくは絶望を眺めるような無表情さは見られない。
ほんの少し気の緩んだような寛いだ様子で、取り分けられたケーキをじっと眺め、それに添えられた名前入りのプレートを穴の開くほど凝視し、最後に美月が律のケーキの上に乗せた少年の形をした砂糖菓子をずっと見ている。
ただ皿を少しずつ回しながら色んな角度からそれを見るだけで、一向に口に運ぼうとしない様子にこちらが少々不安になってきたところで律が顔を上げて俺を見る。
何かを言いたげに、言葉を探しているようだった。
ああ、そうか。
「食えよ」
こんな時も誰かの許可が無いと動けないのには少々胸が詰まったが、俺の言葉に律はまた少し嬉しそうな顔をして、ケーキを少しずつ口に運ぶ。そして、俯いたまま、幸せそうに笑った。その姿に俺の心はどうしようもなく満たされる。
何の威厳も無い瀬戸が雇い主なだけあって、ここの使用人はこの家の家族との垣根が著しく低く、給仕は早々に中断されて皆楽しげに歓談に加わっている。
そのうちの一人が黙々とケーキを食べることに集中していた律に細長いグラスを握らせ、栓を抜いたばかりのシャンパンを注いだ。
薄黄色い液体が表面を泡立たせながらグラスを満たして行く様子に、律は興味深げに見入っていた。
カーテンが開けられた後ろの窓からの陽の光でグラスの中身よりも少し薄い光の筋がテーブルクロスに映る。律は、こういう光が透過するものを見るのがとても好きなようだった。
グラスに光が透き通る液体が満たされたことで律本人は満足している様子だったが、周囲からそれを飲むよう囃されて困ったように俺を見る。
病み上がりとは言え、二十歳の誕生日の祝いの席でにグラス一杯のシャンパンを咎める気にもなれず俺は軽く頷いた。
舐めるように少しずつ律はそれを飲んでいたが、途中から少しずつペースが上がり、実はいける口なのかと勝手に想像していたところで、俺はそれがただ単に律が自分の許容量を理解していなかっただけなのだと思い知らされる。
グラスを空けてしまうと律は気怠そうに椅子に体を預けてぼんやり遠くを見始めた。その目も辛うじて開けているといった様子で、美月が話しかけても何か答えてはいるが上の空のようだった。
その所作は明らかに酔っ払いのそれなのだが、律がこんなにリラックスしている姿を見るのは初めてだった俺は、その様子さえ愛おしく思える。
「桐山が飲ませるからだよ」
また隣で瀬戸の説教が始まりそうになって俺は席を立つ。
「律、立てるか?」
隣まで行って屈んで声を掛けてみるが、反応が著しく遅い。数秒の時差の後、こちらを向いた律の頰はほんのりと桜色に染まっている。普段見せるただ整っているだけではない、艶を帯びたその姿は目眩を感じるほどの色香を滲ませている。
見上げた先の人物が誰なのかの判別にまた数秒要する。
「桐…」
唇だけは最後まで俺の名前を紡いだが、声にはならなかった。
不意に律の両手が伸びて来て、座ったまま俺の腰に回される。腹に額を擦り付けられるような動作が酔っ払いの行動だと分かっていても、このストレートな好意の表現に思考が停止してどうすればいいのか分からない。
そばに瀬戸や美月が居ることで更に訳の分からない羞恥が湧き上がり、自分が赤面して行くのが分かる。
俺は最早自分の意思では動けない律を抱き上げて部屋へと運ぶ事にした。
責任を感じたらしい律にシャンパンを勧めた使用人が、気まずそうに水を持って来て直ぐに退散して行った。
ベッドへ寝かせると、少し荒い息の音にシャツの首元の釦を幾つか外してやる。
濡れた口元や紅潮した頰、乱れた息遣い。普段の数倍の色艶を纏った律の姿。
思い切り欲情しているくせにセックスを無理強いしない事だけで、今まで律を所有してきた他の男達との違いを示そうとする情けなく浅はかな自分の考えも、ちゃんと自覚している。
ベッドの端に腰掛けてグラスに水を注いでいると、律がうっすらと目を開けた。
「水、飲めるか?」
何も聞こえていないかのようにその問い掛けには答えることなく、律は頭をぐらつかせながら体を少し起こし、迷いの無い動きで俺の首に両手を回す。
額が触れ合う程の至近距離。言葉での描写すら拒むほどの、完璧に整った顔。
この行為が、律の好意だと信じたかった。
それが大金叩いた事への自惚れなのか、十年以上の片思いの故なのか俺にはもう分からない。細い律の身体を抱いてベッドの上に重なり合う。
まだ飯塚の所で律が売春していた時と、律を飯塚から引き取った後、俺は何度か律と肉体関係は持ったが、禁忌のようにずっと出来なかった事があった。
恐らく律は気にも留めていない、俺の勝手な自分の中の線引きだった。律が俺に、心を許すまでは。
「桐山、さま」
俺を呼ぶ、掠れた甘い声。間近に感じる息遣い。
その日初めて、俺は律と口付けを交わした。
頰に涙を伝わせながら、その端整さは失われないまま麗しく綻んだその表情に、俺はもう死んでも良いとさえ思えた。
十数年越しの労苦がほんの少し報われた気分になる。
俺と同様に律の感情表現に衝撃を受けていた隣の瀬戸は、しばらく黙った後、
「ほんとに桐山は、いっつもいいとこ取りだよね」
と文句を垂れた。
飯塚の家から帰って数日間は、昼夜問わず錯乱状態だった律の面倒をずっと見ていたのは瀬戸だから、まぁ言わんとすることは分からんでもない。
律の微笑みは数秒で消えてしまったが、その表情にいつもの切迫感や緊張や、もしくは絶望を眺めるような無表情さは見られない。
ほんの少し気の緩んだような寛いだ様子で、取り分けられたケーキをじっと眺め、それに添えられた名前入りのプレートを穴の開くほど凝視し、最後に美月が律のケーキの上に乗せた少年の形をした砂糖菓子をずっと見ている。
ただ皿を少しずつ回しながら色んな角度からそれを見るだけで、一向に口に運ぼうとしない様子にこちらが少々不安になってきたところで律が顔を上げて俺を見る。
何かを言いたげに、言葉を探しているようだった。
ああ、そうか。
「食えよ」
こんな時も誰かの許可が無いと動けないのには少々胸が詰まったが、俺の言葉に律はまた少し嬉しそうな顔をして、ケーキを少しずつ口に運ぶ。そして、俯いたまま、幸せそうに笑った。その姿に俺の心はどうしようもなく満たされる。
何の威厳も無い瀬戸が雇い主なだけあって、ここの使用人はこの家の家族との垣根が著しく低く、給仕は早々に中断されて皆楽しげに歓談に加わっている。
そのうちの一人が黙々とケーキを食べることに集中していた律に細長いグラスを握らせ、栓を抜いたばかりのシャンパンを注いだ。
薄黄色い液体が表面を泡立たせながらグラスを満たして行く様子に、律は興味深げに見入っていた。
カーテンが開けられた後ろの窓からの陽の光でグラスの中身よりも少し薄い光の筋がテーブルクロスに映る。律は、こういう光が透過するものを見るのがとても好きなようだった。
グラスに光が透き通る液体が満たされたことで律本人は満足している様子だったが、周囲からそれを飲むよう囃されて困ったように俺を見る。
病み上がりとは言え、二十歳の誕生日の祝いの席でにグラス一杯のシャンパンを咎める気にもなれず俺は軽く頷いた。
舐めるように少しずつ律はそれを飲んでいたが、途中から少しずつペースが上がり、実はいける口なのかと勝手に想像していたところで、俺はそれがただ単に律が自分の許容量を理解していなかっただけなのだと思い知らされる。
グラスを空けてしまうと律は気怠そうに椅子に体を預けてぼんやり遠くを見始めた。その目も辛うじて開けているといった様子で、美月が話しかけても何か答えてはいるが上の空のようだった。
その所作は明らかに酔っ払いのそれなのだが、律がこんなにリラックスしている姿を見るのは初めてだった俺は、その様子さえ愛おしく思える。
「桐山が飲ませるからだよ」
また隣で瀬戸の説教が始まりそうになって俺は席を立つ。
「律、立てるか?」
隣まで行って屈んで声を掛けてみるが、反応が著しく遅い。数秒の時差の後、こちらを向いた律の頰はほんのりと桜色に染まっている。普段見せるただ整っているだけではない、艶を帯びたその姿は目眩を感じるほどの色香を滲ませている。
見上げた先の人物が誰なのかの判別にまた数秒要する。
「桐…」
唇だけは最後まで俺の名前を紡いだが、声にはならなかった。
不意に律の両手が伸びて来て、座ったまま俺の腰に回される。腹に額を擦り付けられるような動作が酔っ払いの行動だと分かっていても、このストレートな好意の表現に思考が停止してどうすればいいのか分からない。
そばに瀬戸や美月が居ることで更に訳の分からない羞恥が湧き上がり、自分が赤面して行くのが分かる。
俺は最早自分の意思では動けない律を抱き上げて部屋へと運ぶ事にした。
責任を感じたらしい律にシャンパンを勧めた使用人が、気まずそうに水を持って来て直ぐに退散して行った。
ベッドへ寝かせると、少し荒い息の音にシャツの首元の釦を幾つか外してやる。
濡れた口元や紅潮した頰、乱れた息遣い。普段の数倍の色艶を纏った律の姿。
思い切り欲情しているくせにセックスを無理強いしない事だけで、今まで律を所有してきた他の男達との違いを示そうとする情けなく浅はかな自分の考えも、ちゃんと自覚している。
ベッドの端に腰掛けてグラスに水を注いでいると、律がうっすらと目を開けた。
「水、飲めるか?」
何も聞こえていないかのようにその問い掛けには答えることなく、律は頭をぐらつかせながら体を少し起こし、迷いの無い動きで俺の首に両手を回す。
額が触れ合う程の至近距離。言葉での描写すら拒むほどの、完璧に整った顔。
この行為が、律の好意だと信じたかった。
それが大金叩いた事への自惚れなのか、十年以上の片思いの故なのか俺にはもう分からない。細い律の身体を抱いてベッドの上に重なり合う。
まだ飯塚の所で律が売春していた時と、律を飯塚から引き取った後、俺は何度か律と肉体関係は持ったが、禁忌のようにずっと出来なかった事があった。
恐らく律は気にも留めていない、俺の勝手な自分の中の線引きだった。律が俺に、心を許すまでは。
「桐山、さま」
俺を呼ぶ、掠れた甘い声。間近に感じる息遣い。
その日初めて、俺は律と口付けを交わした。
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