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R side 見舞い ep1
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僕の誕生日を祝ってくれたあの日から数週間、桐山様は仕事でこの屋敷を訪れることはなかったけれど、僕の心は平穏そのものだった。
瀬戸先生と美月さんの結婚式が近く、その準備で以前に増して美月さんはここに宿泊することが多くなった。美月さんはその度に新しい本や雑誌や、僕が興味を持ちそうな物を持って来てくれた。
美月さんがそんなことを望んでいないのは分かっているけれど、美月さんは女の人だから、僕が今まで使われてきたような方法で御奉仕することができない。
お礼やお返しが出来ないことがずっと心苦しかったから、結婚式の招待状の装飾の手伝いを頼まれた時はとても嬉しかった。
既に日程や場所が記載されたカードに綺麗なリボンの飾りを貼って封筒に入れる。
僕はこういう事はした事がないけれど、慎重にすればどうにか出来そうだった。
週末の夜、夕食の片付けが終わったダイニングの大きなテーブルで、美月さんと二人で招待状にリボンを飾り付け、専用の封筒に入れて行く。
最近は無意識に錯乱してしまうこともなくなったみたいで、記憶が飛んで気付けば数週間、日が過ぎているということもない。
心の落ち着きが戻りつつあるようだった。
「律くんは本当に手先が器用だから助かるわ」
美月さんの倍以上の時間が掛かってしまっている僕のカードを見て、美月さんは数少ない僕の長所を褒めてくれる。
当たり前のように紡がれる優しい言葉に、僕は何と返せば良いのか分からなくて俯いてしまう。
優しく微笑む美月さんは、非の打ち所なく美しい。
もう面影も覚えていないけれど、失礼だと分かっていて僕は想像の中のお母さんを美月さんに重ねてしまう。
僕のお母さんも、僕に優しく笑ってくれる人だった。
ダイニングテーブルに束ねられた封筒を見て、こんなにたくさん美月さんと瀬戸先生の結婚をお祝いする人がいるのかと思うと、僕も少し嬉しい気持ちになる。
自分の好きな人が、自分を好きでいてくれる気分はどんなものだろう。
それを永遠のものと、約束するのはどんなに嬉しいことなんだろう。
僕には分からないことだけれど、僕の大切な美月さんと瀬戸先生がその幸福の中に居る事が嬉しかった。
「桐山くん、遅いわね」
最後のカードを美月さんが手に取りながら、壁掛けの時計に視線を向ける。
時計の針は、もうすぐ十時を指そうとしていた。
今日は、桐山様がこの屋敷に来ることになっていた。
桐山様がとても忙しい人なのは分かっているから、期待してはいけないと思いながらも僕もずっとその事が気になっていた。
もしかしたら、もう今日はここには来ないのかもしれない。いや、今週は顔を合わせる事はないのかもしれない。
分かっているのに、屋敷のどこかで鳴るドアの音に僕はとても敏感になっている。
「こんな時間まで手伝ってくれて、ありがとう」
カードを片し終えた美月さんの言葉で、僕の寝る時間が遅くなり過ぎないように気を使ってくれている事に気付いて僕も慌てて席を立つ。
瀬戸先生と約束している就寝時間が迫っているから、寝室に行かないといけない。
「おやすみなさい、美月さん」
まだやる事が残っているような素振りの美月さんに僕は告げて、寝室へと向かう。
その前に、ダイニングの隣のキッチンに入る。そこで寝室に持って行くグラスに水を注いだ。
この屋敷に来たばかりの頃は、こういう事もこわくて出来なかった。自分の意思で何かすることをずっと禁じられていたから、全てのことに怯えていた。
今は身の回りの事は少しずつ自分で出来るようになってきている。
新しい事が身に付いて行く感覚が、僕をほんの少しずつ変えていってくれているような気がした。
その時、キッチンとは反対側の扉が開く音がして僕は手を止める。
ここから姿は見えないが僅かな息遣いと靴の音で、僕は誰が来たのか瞬時に察した。
「ご機嫌よう、桐山くん。遅かったわね」
美月さんが僕に話す時と変わらぬ声色で話しかける。
「律くんなら今さっき自分の部屋に戻ったわよ。…見て、律くんに手伝ってもらったの。丁寧だし器用だから、本当に綺麗に仕上げてくれて助かるわ」
扉は開けっぱなしだけれど、僕がキッチンに居る事に気付いていない様子の美月さんが続ける。なんだか盗み聞きをしているような気分になってしまって、自分が居ないところで自分が褒められるのを聞くのは恥ずかしいような嬉しいような、感じたことのない胸の擽ったさに居た堪れない。
「桐山くんのもあるから…ーーーどうかした?」
美月さんの口ぶりで桐山様の様子がおかしいのだろうかと不安になった僕がダイニングに戻ろうとした時に漸く桐山様が口を開く。
「…飯塚が、倒れたらしい」
数週間振りに聞く桐山様の声に僕の心が高鳴った直後、紡がれた言葉の意味に僕の思考が停止する。
僕の頭の中で飯塚という名前が御主人様と直結するのに一瞬の時間を要した。
御主人様。
御主人様、何があったの?
「…え?……飯塚さんが?」
少し間を開けて、美月さんが聞き返した。
「昨日、脳卒中か何かで運ばれたらしい。今、知り合いから連絡が入った。ここ二、三日が山場なんだと。律にはまだ言わないでくれ、俺か瀬戸から…」
パン!
派手な音が桐山様の声を遮った。
気付けば手にしていたグラスが足元で粉々になって割れている。
御主人様。
「…律くん!?いたの?」
美月さんの慌てた声。
桐山様が何か言いながらキッチンに入って来たけれど、耳に入ってこない。
足元が真っ暗になっているような幻覚が見えて、僕は立っていられない。
御主人様、死なないで。
耳鳴りがする。息が苦しい。
嘘だ、嘘だ。そんなの嘘だ。
御主人様。僕の御主人様。
御主人様が居ない世界に、僕が生きている意味なんかない。
誰かが体を支えてくれたけれど、足元から這い上がって来た闇に顔まで覆われ、僕はそのまま溺れるように意識を失った。
瀬戸先生と美月さんの結婚式が近く、その準備で以前に増して美月さんはここに宿泊することが多くなった。美月さんはその度に新しい本や雑誌や、僕が興味を持ちそうな物を持って来てくれた。
美月さんがそんなことを望んでいないのは分かっているけれど、美月さんは女の人だから、僕が今まで使われてきたような方法で御奉仕することができない。
お礼やお返しが出来ないことがずっと心苦しかったから、結婚式の招待状の装飾の手伝いを頼まれた時はとても嬉しかった。
既に日程や場所が記載されたカードに綺麗なリボンの飾りを貼って封筒に入れる。
僕はこういう事はした事がないけれど、慎重にすればどうにか出来そうだった。
週末の夜、夕食の片付けが終わったダイニングの大きなテーブルで、美月さんと二人で招待状にリボンを飾り付け、専用の封筒に入れて行く。
最近は無意識に錯乱してしまうこともなくなったみたいで、記憶が飛んで気付けば数週間、日が過ぎているということもない。
心の落ち着きが戻りつつあるようだった。
「律くんは本当に手先が器用だから助かるわ」
美月さんの倍以上の時間が掛かってしまっている僕のカードを見て、美月さんは数少ない僕の長所を褒めてくれる。
当たり前のように紡がれる優しい言葉に、僕は何と返せば良いのか分からなくて俯いてしまう。
優しく微笑む美月さんは、非の打ち所なく美しい。
もう面影も覚えていないけれど、失礼だと分かっていて僕は想像の中のお母さんを美月さんに重ねてしまう。
僕のお母さんも、僕に優しく笑ってくれる人だった。
ダイニングテーブルに束ねられた封筒を見て、こんなにたくさん美月さんと瀬戸先生の結婚をお祝いする人がいるのかと思うと、僕も少し嬉しい気持ちになる。
自分の好きな人が、自分を好きでいてくれる気分はどんなものだろう。
それを永遠のものと、約束するのはどんなに嬉しいことなんだろう。
僕には分からないことだけれど、僕の大切な美月さんと瀬戸先生がその幸福の中に居る事が嬉しかった。
「桐山くん、遅いわね」
最後のカードを美月さんが手に取りながら、壁掛けの時計に視線を向ける。
時計の針は、もうすぐ十時を指そうとしていた。
今日は、桐山様がこの屋敷に来ることになっていた。
桐山様がとても忙しい人なのは分かっているから、期待してはいけないと思いながらも僕もずっとその事が気になっていた。
もしかしたら、もう今日はここには来ないのかもしれない。いや、今週は顔を合わせる事はないのかもしれない。
分かっているのに、屋敷のどこかで鳴るドアの音に僕はとても敏感になっている。
「こんな時間まで手伝ってくれて、ありがとう」
カードを片し終えた美月さんの言葉で、僕の寝る時間が遅くなり過ぎないように気を使ってくれている事に気付いて僕も慌てて席を立つ。
瀬戸先生と約束している就寝時間が迫っているから、寝室に行かないといけない。
「おやすみなさい、美月さん」
まだやる事が残っているような素振りの美月さんに僕は告げて、寝室へと向かう。
その前に、ダイニングの隣のキッチンに入る。そこで寝室に持って行くグラスに水を注いだ。
この屋敷に来たばかりの頃は、こういう事もこわくて出来なかった。自分の意思で何かすることをずっと禁じられていたから、全てのことに怯えていた。
今は身の回りの事は少しずつ自分で出来るようになってきている。
新しい事が身に付いて行く感覚が、僕をほんの少しずつ変えていってくれているような気がした。
その時、キッチンとは反対側の扉が開く音がして僕は手を止める。
ここから姿は見えないが僅かな息遣いと靴の音で、僕は誰が来たのか瞬時に察した。
「ご機嫌よう、桐山くん。遅かったわね」
美月さんが僕に話す時と変わらぬ声色で話しかける。
「律くんなら今さっき自分の部屋に戻ったわよ。…見て、律くんに手伝ってもらったの。丁寧だし器用だから、本当に綺麗に仕上げてくれて助かるわ」
扉は開けっぱなしだけれど、僕がキッチンに居る事に気付いていない様子の美月さんが続ける。なんだか盗み聞きをしているような気分になってしまって、自分が居ないところで自分が褒められるのを聞くのは恥ずかしいような嬉しいような、感じたことのない胸の擽ったさに居た堪れない。
「桐山くんのもあるから…ーーーどうかした?」
美月さんの口ぶりで桐山様の様子がおかしいのだろうかと不安になった僕がダイニングに戻ろうとした時に漸く桐山様が口を開く。
「…飯塚が、倒れたらしい」
数週間振りに聞く桐山様の声に僕の心が高鳴った直後、紡がれた言葉の意味に僕の思考が停止する。
僕の頭の中で飯塚という名前が御主人様と直結するのに一瞬の時間を要した。
御主人様。
御主人様、何があったの?
「…え?……飯塚さんが?」
少し間を開けて、美月さんが聞き返した。
「昨日、脳卒中か何かで運ばれたらしい。今、知り合いから連絡が入った。ここ二、三日が山場なんだと。律にはまだ言わないでくれ、俺か瀬戸から…」
パン!
派手な音が桐山様の声を遮った。
気付けば手にしていたグラスが足元で粉々になって割れている。
御主人様。
「…律くん!?いたの?」
美月さんの慌てた声。
桐山様が何か言いながらキッチンに入って来たけれど、耳に入ってこない。
足元が真っ暗になっているような幻覚が見えて、僕は立っていられない。
御主人様、死なないで。
耳鳴りがする。息が苦しい。
嘘だ、嘘だ。そんなの嘘だ。
御主人様。僕の御主人様。
御主人様が居ない世界に、僕が生きている意味なんかない。
誰かが体を支えてくれたけれど、足元から這い上がって来た闇に顔まで覆われ、僕はそのまま溺れるように意識を失った。
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