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32 レティシアの幸せ-9
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「ノルディアン大公は私と一緒になったら、子供に恵まれないかもしれません。だって、私……」
私が口にした不安を、大公はやわらかく遮った。
「もう言わなくていい。子供の有無が、私の決意を揺らがせることはない。家を継ぐ方法なら、いくらでもある。だが、レティシア――君の隣に私がいる未来は、君にしか叶えられない。君と共に歩み、君と共に笑い、君と共に老いてゆけるなら……それが、私にとっての幸福なんだ」
――こんなふうに言ってもらえるなんて。
この人となら、穏やかで、誠実な日々が待っている。
きっと安泰だ。なにがあっても、私を守ってくれるに違いない。
だけど、そのときふいに、数日前のことが胸をよぎった。
ユリウスが、まっすぐな瞳で私に想いを告げてくれたあの瞬間。
声を震わせながらも、真正面から私に「好きだ」と言ってくれた。
あのときの勇気を、あの言葉を、私は簡単に忘れられない。
ずっとそばで支えてくれた彼に、背を向けるようなことをしてもいいの?
――どうして、私は今こんなにも揺れているの?
私の曇った表情を見て、ノルディアン大公はふっと目を細めた。
「……ふふ、そんな難しい顔をしないでくれ。私は君を悩ませるために来たわけではない。君がどんな選択をしても、私が君を想う気持ちは変わらないよ。それに――君があの副会長に心を動かされているなら、それもまた運命さ。明日、私は帰国しよう。少々名残惜しいが、男には引き際というものもあるからね」
翌日、ノルディアン大公はあっさりと本当に帰国してしまった。
その後の取引交渉は、ノルディアン国経済使節団の副代表が引き継ぎ、予定通りに進められた。
資料の整合性も完璧で、報告書ひとつとっても抜かりはなく――まるで大公の立ち去る準備が、最初から整っていたかのようだった。
ノルディアン大公が、滞在していたのはおよそ一週間。
けれど、その存在感は不思議なほど大きく、彼がいなくなった途端、商会内の空気が少しだけ違って感じられた。
「……大公さま、もう帰っちゃったの? 僕、まだ一緒に絵本よみたかったのに……」
そう呟いたルーファスは、窓の外をじっと見つめていた。ふだんは人見知りするルーファスが、あっという間に心を開いたノルディアン大公。幼い子の心まで鷲づかみするなんて……ズルい。
ビッキーですら、ふとしたときに口にする。
「麗しい姿が会長室にいるのが当たり前になっていましたから……いなくなると、なんだか殺風景ですね。声のトーンも、足音も、すべてが“特別”で、空間の密度が変わっていたような気がします」
そう言って微笑んだ彼女の言葉に、私も思わず黙り込んでしまった。
日常は戻ったはずなのに、どこかが欠けたまま――そんな感覚がした。
そんなある日のことだった。
ビッキーが持ってきた最新号の社交界専門誌『ロイヤルミュール・トゥデイ』の表紙に、思わず私は目を疑った。
《特報》
ノルディアン大公、ついに結婚か!?
麗しの君主に極秘熱愛――お相手は、公国社交界の花、若き名門貴族令嬢!?
まるで嘘みたいに大きく踊る見出しだった。添えられたのは、晩餐会で撮影されたという一枚の“絵写”――魔導記録装置で描かれた、精緻なイメージ画だった。
煌びやかなシャンデリアの下、ノルディアン大公は淡い銀糸の礼装をまとい、隣に立つ一人の若い女性へと優しく視線を向けていたのだった。
私が口にした不安を、大公はやわらかく遮った。
「もう言わなくていい。子供の有無が、私の決意を揺らがせることはない。家を継ぐ方法なら、いくらでもある。だが、レティシア――君の隣に私がいる未来は、君にしか叶えられない。君と共に歩み、君と共に笑い、君と共に老いてゆけるなら……それが、私にとっての幸福なんだ」
――こんなふうに言ってもらえるなんて。
この人となら、穏やかで、誠実な日々が待っている。
きっと安泰だ。なにがあっても、私を守ってくれるに違いない。
だけど、そのときふいに、数日前のことが胸をよぎった。
ユリウスが、まっすぐな瞳で私に想いを告げてくれたあの瞬間。
声を震わせながらも、真正面から私に「好きだ」と言ってくれた。
あのときの勇気を、あの言葉を、私は簡単に忘れられない。
ずっとそばで支えてくれた彼に、背を向けるようなことをしてもいいの?
――どうして、私は今こんなにも揺れているの?
私の曇った表情を見て、ノルディアン大公はふっと目を細めた。
「……ふふ、そんな難しい顔をしないでくれ。私は君を悩ませるために来たわけではない。君がどんな選択をしても、私が君を想う気持ちは変わらないよ。それに――君があの副会長に心を動かされているなら、それもまた運命さ。明日、私は帰国しよう。少々名残惜しいが、男には引き際というものもあるからね」
翌日、ノルディアン大公はあっさりと本当に帰国してしまった。
その後の取引交渉は、ノルディアン国経済使節団の副代表が引き継ぎ、予定通りに進められた。
資料の整合性も完璧で、報告書ひとつとっても抜かりはなく――まるで大公の立ち去る準備が、最初から整っていたかのようだった。
ノルディアン大公が、滞在していたのはおよそ一週間。
けれど、その存在感は不思議なほど大きく、彼がいなくなった途端、商会内の空気が少しだけ違って感じられた。
「……大公さま、もう帰っちゃったの? 僕、まだ一緒に絵本よみたかったのに……」
そう呟いたルーファスは、窓の外をじっと見つめていた。ふだんは人見知りするルーファスが、あっという間に心を開いたノルディアン大公。幼い子の心まで鷲づかみするなんて……ズルい。
ビッキーですら、ふとしたときに口にする。
「麗しい姿が会長室にいるのが当たり前になっていましたから……いなくなると、なんだか殺風景ですね。声のトーンも、足音も、すべてが“特別”で、空間の密度が変わっていたような気がします」
そう言って微笑んだ彼女の言葉に、私も思わず黙り込んでしまった。
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そんなある日のことだった。
ビッキーが持ってきた最新号の社交界専門誌『ロイヤルミュール・トゥデイ』の表紙に、思わず私は目を疑った。
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