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家政婦長が怪我をしたのはエレノアのせい?
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午後の柔らかな陽光が庭を照らし、エレノアは家政婦長アグネスの熟練した手つきを静かに見つめていた。庭には色とりどりの花々が咲き誇り、その中でもひときわ目を引くのは、エレノアが特に愛するバラの花壇だった。この一角は、エレノアがまだ幼かった頃に病で亡くなったニューマン侯爵夫人が特に好んでいた場所でもある。エレノアはニューマン侯爵家の一人娘であり、銀髪にアメジスト色の瞳を持つ誰もが目を奪われる美少女だ。その美貌に加え、七色の声とも称される天性の歌声で知られる、わずか七歳の令嬢だった。
この花壇だけは特別で、アグネスが自ら手入れを欠かさなかった。他の花壇は庭師に任されているが、この場所だけは、エレノアがこのバラを特に大切に思っていることをアグネスが知っていたからだ。それに加え、この庭が亡き侯爵夫人のお気に入りだったことも理由の一つである。エレノアにとってこの庭が特別な場所であり続けたのは、アグネスが惜しみなく注ぎ続けた愛情と手間があってこそのものだ。
「お嬢様がまだ幼かった頃、このバラに夢中になっていたのを覚えていますか? 棘に触れそうになるたびに、私が手を伸ばして止めていましたよね」
「えぇ、覚えてるわ。あのときも、アグネスが私を守ってくれたのよね。アグネスは私にとっては第二のお母様のような存在だわ」
エレノアは微笑みながら、アグネスの懐かしい話に耳を傾ける。幼い頃の無邪気な思い出が、アグネスとの絆の中で息づいていることが、エレノアには何よりも心地よかった。ニューマン侯爵夫人が亡くなった後も、アグネスが実の娘のように可愛がってくれたからこそ、さほど寂しさを感じなかった。
それでも、アグネスは多忙な身だ。エレノアと語らう穏やかなひと時も長くは続かない。使用人たちの仕事ぶりを監督するという家政婦長としての仕事がある。
「お嬢様、私の仕事が一段落した頃、またお話ししましょう。それまではお好きな本を読んだり、ご自由にお過ごしくださいませ」
アグネスが一礼して立ち去ると、エレノアはその後ろ姿を見送りながらにっこりと微笑んだ。アグネスがどれほど自分を気遣い、献身的に働いているかを、彼女は誰よりも知っていた。
ところが、静寂を破るように、屋敷の中から突然悲鳴が聞こえる。エレノアは驚き、スカートの裾を握りしめながら慌てて声のする方へ駆けつけた。そして目にしたのは、階段下で倒れ込んでいるアグネスの姿だった。召使いたちが駆け寄り、彼女を支え起こしている。周囲は一気に騒然となり、医師が呼ばれた。
アグネスは幸いにも大きな怪我を免れたが、足をひどく捻ってしまい、しばらくは動けない状態となった。その知らせを聞いたエレノアは深く胸を痛める。いつも自分のために尽くしてくれるアグネスが、怪我をして苦しむ姿を見るのは耐え難いものだった。
その日の夕方、エレノアはサロンのソファに座り、物思いにふけっていた。アグネスの怪我を心から心配していたのだ。その様子に気づいた幼なじみのセリーナが、静かに近づいてきた。セリーナの屋敷はエレノアの屋敷に隣接している。彼女の父はエレノアの叔父であり、ニューマン侯爵家の敷地内に家を構えていた。王家の下級騎士として騎士爵を与えられてはいるものの、能力の限界から高給を得るには至らず、兄であるニューマン侯爵の庇護に頼らざるを得ない状況だった。
「エレノア、大丈夫? アグネスのこと、気にしているのね」
エレノアは無言でうなずいた。その顔に浮かぶ不安の色を見て、セリーナは少し考え込むように視線を落とし、それからため息混じりに話し始めた。
「実はね、昨日アグネスと話したの。この庭でセリーナのことを話していたわ。『もっとお嬢様の役に立ちたい』って、そればかり口にしてた。たぶん、あなたに喜んでもらおうと頑張りすぎたのよ。だって、家政婦長のアグネスは、花の手入れをするべきじゃないもの。もともとは、庭師がするべきことよ。余計な仕事をしているせいで気が散って、階段で転んだんじゃないかしら」
セリーナの言葉は、エレノアの心を深く揺さぶった。アグネスがどれほど自分を想ってくれているかはわかっていたが、それが原因で余計な仕事を抱え込み怪我をしたと考えると、胸の奥に冷たい感覚が広がった。
「私のせいなの……?」
エレノアの声は小さく震えていた。セリーナはその様子に気づきながらも、そっと彼女の肩に手を置いて言葉を続けた。
「そんなふうに思わないで。ただね、エレノア、あなたがどれだけ多くの人に愛されているか、もっと気づくべきだと思うの。アグネスにとって、あなたは何より大切な存在で、心から愛しているのよ。それゆえに無理をしてしまったんだわ。庭師に任せておけばいいようなバラの手入れも、エレノアが特にお気に入りだと知っていたからこそ、アグネス自身が特別に世話をしていたんですもの」
その言葉は、エレノアの心に重く響いた。幼い頃からいつも自分を守り、支えてくれたアグネスが、自分への思いが強すぎるがゆえに苦しむことになった――その事実が胸に突き刺さり、涙がにじんだ。
「誰もあなたを責めていないわ。ただ、あなたのように特別な人は、周りに与える影響も大きいの。それを忘れないでいてほしいだけ」
セリーナは微笑みながらエレノアの手を取った。その言葉にエレノアはただ頷き、静かに涙を流し続けたのだった。
•───⋅⋆⁺‧₊☽⛦☾₊‧⁺⋆⋅───•
※家政婦長:この小説では、侍女やメイドなどの女性の使用人たちを取り仕切る総責任者で、家令と同等の権限を持つ。
この花壇だけは特別で、アグネスが自ら手入れを欠かさなかった。他の花壇は庭師に任されているが、この場所だけは、エレノアがこのバラを特に大切に思っていることをアグネスが知っていたからだ。それに加え、この庭が亡き侯爵夫人のお気に入りだったことも理由の一つである。エレノアにとってこの庭が特別な場所であり続けたのは、アグネスが惜しみなく注ぎ続けた愛情と手間があってこそのものだ。
「お嬢様がまだ幼かった頃、このバラに夢中になっていたのを覚えていますか? 棘に触れそうになるたびに、私が手を伸ばして止めていましたよね」
「えぇ、覚えてるわ。あのときも、アグネスが私を守ってくれたのよね。アグネスは私にとっては第二のお母様のような存在だわ」
エレノアは微笑みながら、アグネスの懐かしい話に耳を傾ける。幼い頃の無邪気な思い出が、アグネスとの絆の中で息づいていることが、エレノアには何よりも心地よかった。ニューマン侯爵夫人が亡くなった後も、アグネスが実の娘のように可愛がってくれたからこそ、さほど寂しさを感じなかった。
それでも、アグネスは多忙な身だ。エレノアと語らう穏やかなひと時も長くは続かない。使用人たちの仕事ぶりを監督するという家政婦長としての仕事がある。
「お嬢様、私の仕事が一段落した頃、またお話ししましょう。それまではお好きな本を読んだり、ご自由にお過ごしくださいませ」
アグネスが一礼して立ち去ると、エレノアはその後ろ姿を見送りながらにっこりと微笑んだ。アグネスがどれほど自分を気遣い、献身的に働いているかを、彼女は誰よりも知っていた。
ところが、静寂を破るように、屋敷の中から突然悲鳴が聞こえる。エレノアは驚き、スカートの裾を握りしめながら慌てて声のする方へ駆けつけた。そして目にしたのは、階段下で倒れ込んでいるアグネスの姿だった。召使いたちが駆け寄り、彼女を支え起こしている。周囲は一気に騒然となり、医師が呼ばれた。
アグネスは幸いにも大きな怪我を免れたが、足をひどく捻ってしまい、しばらくは動けない状態となった。その知らせを聞いたエレノアは深く胸を痛める。いつも自分のために尽くしてくれるアグネスが、怪我をして苦しむ姿を見るのは耐え難いものだった。
その日の夕方、エレノアはサロンのソファに座り、物思いにふけっていた。アグネスの怪我を心から心配していたのだ。その様子に気づいた幼なじみのセリーナが、静かに近づいてきた。セリーナの屋敷はエレノアの屋敷に隣接している。彼女の父はエレノアの叔父であり、ニューマン侯爵家の敷地内に家を構えていた。王家の下級騎士として騎士爵を与えられてはいるものの、能力の限界から高給を得るには至らず、兄であるニューマン侯爵の庇護に頼らざるを得ない状況だった。
「エレノア、大丈夫? アグネスのこと、気にしているのね」
エレノアは無言でうなずいた。その顔に浮かぶ不安の色を見て、セリーナは少し考え込むように視線を落とし、それからため息混じりに話し始めた。
「実はね、昨日アグネスと話したの。この庭でセリーナのことを話していたわ。『もっとお嬢様の役に立ちたい』って、そればかり口にしてた。たぶん、あなたに喜んでもらおうと頑張りすぎたのよ。だって、家政婦長のアグネスは、花の手入れをするべきじゃないもの。もともとは、庭師がするべきことよ。余計な仕事をしているせいで気が散って、階段で転んだんじゃないかしら」
セリーナの言葉は、エレノアの心を深く揺さぶった。アグネスがどれほど自分を想ってくれているかはわかっていたが、それが原因で余計な仕事を抱え込み怪我をしたと考えると、胸の奥に冷たい感覚が広がった。
「私のせいなの……?」
エレノアの声は小さく震えていた。セリーナはその様子に気づきながらも、そっと彼女の肩に手を置いて言葉を続けた。
「そんなふうに思わないで。ただね、エレノア、あなたがどれだけ多くの人に愛されているか、もっと気づくべきだと思うの。アグネスにとって、あなたは何より大切な存在で、心から愛しているのよ。それゆえに無理をしてしまったんだわ。庭師に任せておけばいいようなバラの手入れも、エレノアが特にお気に入りだと知っていたからこそ、アグネス自身が特別に世話をしていたんですもの」
その言葉は、エレノアの心に重く響いた。幼い頃からいつも自分を守り、支えてくれたアグネスが、自分への思いが強すぎるがゆえに苦しむことになった――その事実が胸に突き刺さり、涙がにじんだ。
「誰もあなたを責めていないわ。ただ、あなたのように特別な人は、周りに与える影響も大きいの。それを忘れないでいてほしいだけ」
セリーナは微笑みながらエレノアの手を取った。その言葉にエレノアはただ頷き、静かに涙を流し続けたのだった。
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※家政婦長:この小説では、侍女やメイドなどの女性の使用人たちを取り仕切る総責任者で、家令と同等の権限を持つ。
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