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1巻
1-2
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そういうものがたくさん溜まっていき、すごく彼に会いたい気持ちが募ったのと同時に、寂しくなったのをよく覚えている。自覚していた以上に、氷上とたくさんのものを共有し感想を述べ合ってきたのを再確認したのだ。
自分の想いに気付いたからといって、いきなり接し方を変えることはできなかった。そのときにはすでに異性としてではなく男友達みたいな付き合い方をしていたし、彼の周囲には常に彼へアプローチをする女性たちが溢れていた。そのなかにはとびきり美しかったり、スタイル抜群だったりする子たちも珍しくない。容姿も中身も平凡な私が、彼女たちに交じって戦おうという気持ちにはなれるわけがなかった。
それでも心のどこかで、私は他の女性たちとは違うのだと期待していた。
特別理由がなくても誘い出してご飯を食べたり、気が向いたときにメッセージを送り、くだらないやり取りで笑い合ったりできるこの関係は特別なものであると信じ込んでしまっていたのだ。
今思うとどうしようもない自惚れだけど、私と同じ想いを、ひょっとしたら氷上も抱いているのではないか。都合よくそんなふうに考えたこともあったくらいだ。
あくまで自分は男友達というくくりのなかにいるということが、すっぽり頭から抜けていた。
私ってば、身の程知らずで、なんとおめでたいんだろう。氷上が、異性としての私を好きになる理由なんてないのに。
……そういえば、氷上が誰かと付き合っているという話を、彼の口から聞いたことがない。
さっきも田所の問いかけに、「いない」とはっきり答えていたが、本当なのだろうか。誰にも打ち明けていないだけで、過去に何人かお付き合いしていた可能性は十分にある。今だってそうだ。
私たちももう二十七歳。同級生のなかにはすでに結婚して家庭を持っている子たちもいるから、そろそろ未来について考え始める頃合いじゃないだろうか。
氷上ほど女性にモテる人が、一生独身を貫くとは考えづらい。
航空会社のCAは優秀な美人が多いと聞くし、きっと近い将来、氷上のお眼鏡に適う素敵な女性に彼を奪われてしまうのだろう。
今の私が持っている、氷上を気軽に呼び出したり、とりとめのないメッセージの応酬をしたりする権利を、そのまだ見ぬ美人なCAに取られてしまう――そう思うと胸が抉られるみたいに悲しくて、苦しくて。電車の手すりに縋りついて泣き出しそうになるのをぐっと堪えた。
そのとき、私は耐えられるのだろうか。私の知らない、魅力溢れる女性とお付き合いを始める氷上に、素直に「おめでとう」と言える?
できるわけない。だって、大学のころからずっと氷上を想い続けているのに。
私以外の女性と結ばれる彼を祝福するなんて無理。
――でも、諦めなきゃいけないんだよなぁ。
……絶対ないって、あんなにはっきり言われちゃったんだから。
他の男子には目もくれず、ずっと氷上を想い続けていた私は、自慢じゃないけど交際経験ゼロ。だけど人並みに結婚や出産への憧れはある。
もちろんその相手が氷上なら最高なのだけど、難しいのはわかっていた。
ならば、私もそろそろ別の恋へ舵を切らなければならない。でなければ年月だけが過ぎてしまう。
そうこうしているうちに、電車が最寄り駅に到着した。ホームに降りるとずいぶん寒い。
電車に乗り込んだときはそこまで冷え込みを感じなかった。もしかしたら、私の心情がそう思わせているのかもしれない。
口のなかに残るビールの苦みは失恋の味だ。
私は大きくため息を吐いて、改札に続く階段を下りていった。
2
いつまでも落ち込んでいても仕方がない。そんなふうに、すぐ気持ちを切り替えられるのが私の長所だと自負している。
連休に沈むだけ沈みきってスッキリした私は、翌月曜にはマッチングアプリの登録をした。
不毛な片想いを終わらせる方法はただひとつ、新しい恋だ。
氷上みたいに、自分の趣味嗜好と合う相手は、この世のどこかにきっと存在する。その人を効率よく探し出すには、マッチングアプリが最適だろうという結論に達したのだ。
「京佳せーんぱい」
飲み会から五日後、もうそろそろ十二時のランチタイムになろうかというころ。
私は職場である『ブレイブリーキッズ』のオフィスで、職員の勤怠書類を確認していた。聞き慣れた明るい声に顔を上げると、同僚の島梨生奈が人懐っこい笑みを浮かべている。
ブレイブリーキッズは、都内で認可保育園を五園運営している株式会社。そのバックオフィスを担当しているのが、私と梨生奈ちゃん、そしてすでにお昼に出てしまった部長の津永さんだ。
小さな規模の会社なので、三人で業務は滞りなく回っているし、少数精鋭でやっている分、意思の疎通がしやすく、社内ルールも緩い。申し分ない労働環境だ。季節折々、運動会だのイモ掘りだの、保育園のイベントの手伝いができるのも、子どもたちと触れ合えるいい機会になっていて楽しい。
「どうです、アプリの調子は?」
「――うーん……せっかく教えてもらったのに、まだイマイチ、かな」
ふたりきりのオフィスでは、声を潜める必要がない。私は小さくため息を吐いて答えた。
梨生奈ちゃんは二歳年下の二十五歳。ピンク系ブラウンの肩までのゆるふわパーマヘアに、透き通った白い肌。顔立ちは仔リスみたいに愛らしく、メイクは派手すぎずチークやリップの淡いピンクでかわいらしさを強調。襟ぐりに大きなフリルのついた白いブラウスと茶色のAラインのスカートというお嬢さん風のファッションが、彼女の雰囲気にとてもマッチしていて素敵だ。
そんな見た目からして、トレンドに詳しい今どきの女子を具現化したような子。明るくほわんとした雰囲気が魅力でありつつ、先輩の私や上司の津永さんの懐にもスッと入り込んでくる、世渡り上手な一面もある。
聞けば、彼女は大学時代からマッチングアプリを使いこなし、彼氏を途切れさせたことがないらしい。
出会いを求めていることを彼女に告げると「それなら絶対にマッチングアプリですよ!」と、おすすめのアプリからプロフィール登録まで、懇切丁寧に教えてくれたのだ。
私はデスクに置いていたスマホを手に取り、マッチングアプリを起動した。メッセージ一覧には、これまでやり取りを交わした男性のイニシャルがずらりと並んでいる。その数、十二名。すべて私のターンで止まっている。
「えっ、マッチングできないってことですか?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど、こう……メッセージのやり取りだけで、いいなぁと思える人にまだ出会えないというか」
メッセージのやり取りはスムーズにできていると思う。相手の反応も悪くない。
でも私には、会ったことのない相手とのやり取りは、どうしてもバーチャルなものと捉えられてしまうのだ。
「文字だけじゃわからないこともありますよね~。サクッと一回会ってみたら手っ取り早いですよっ」
「でもなんとなくの人となりがわかるまでは、怖くない?」
「写真とプロフでわかりますよね?」
梨生奈ちゃんはそんなに気軽に、見も知らない人と会えるのだろうか。
驚きを込めて返答すると、むしろなにが怖いのかわからないと言いたげに、彼女が不思議そうに首を傾げる。
「うーん……そういうことじゃなくて、その人の好みとか、考え方とかを把握してから会いたいんだよね、私は」
「先輩って慎重派なんですね~」
「そう? 割と普通の感覚だと思ってるんだけど」
まるで私が変わっているみたいな反応だ。ある程度相手の情報が出揃ってから顔合わせをしたいと考えるのは、至極真っ当な考え方なのではないだろうか。
「アプリで婚活してる人たちはとりあえず会おうってこと、多いですよ。しぐさとか癖とか、フィーリングとか、会わないとわからないこともありますし。……例えばすっごいイケメンでも、ずっと爪を噛む癖がある人って、いやじゃないですか~?」
「それはまぁ、確かに……」
想像してみて、ぶるぶると首を横に振る。……勘弁願いたい。
「怖がらずに、先輩も一回会ってみたらいいと思いますっ。向こうも真剣に相手を探している場合がほとんどですから。早いうちに一歩踏み出したほうが楽ですよ」
「そうだよね……わかってはいるんだけどさ」
彼女が言っていることが正しいような気がしてきた。
結局会わないことには、その人とお付き合いできるかどうかの判断はつかないわけだから、とりあえず会ってみるというアクションが大事なのか。
「今、いいなと思ってる人はいますか~?」
私のスマホの画面をのぞき込んだ梨生奈ちゃんが訊ねる。
「ん……この人とかはアリかなと」
私は連絡を取り合った人のなかから、プロフィールややり取りの文言に好印象を抱いた『YS』というイニシャルの男性を選び、プロフィールを梨生奈ちゃんに見せた。
「三十一歳会社員、年収五百万円台、長男以外。優しそうな人だし、条件的には悪くないじゃないですか」
「……まぁ、年収とかは生活できればそれでいいんだけど」
彼女に言われるまで、職業や年収、きょうだい構成などはあまり気にしていなかった。私がこの人を選んだのは、あくまで自分とフィーリングが合いそうという点だけ。顔写真を含め、雰囲気が柔和だったのもポイントが高い。
「よし、じゃあ攻めて行きましょうっ」
梨生奈ちゃんはひょいとスマホを私の手から奪い取ると、なにやら操作する。
「え、ちょっと、なにしてるの?」
「はい、これでよしっと」
彼女の手からスマホを奪い返そうとした瞬間、梨生奈ちゃんが送信ボタンを押した。
『突然すみません。もしよろしければ直接お話ししてみたいと思っています。いかがでしょうか?』
再びスマホを取り戻して画面を見ると、直前のやり取りをぶった切り、いきなりこの文章が送信されていた。
「ええっ、ちょっと……⁉」
「こういうのは勢いが大事なんです。会うの、楽しみですねっ」
にこっと笑いながら歌うように言い放つ梨生奈ちゃん。
私は画面に目が釘付けになったままフリーズする。
――いや、確かに一回会わなきゃとは言ったけど! まだ心の準備が……
……って、ぐずぐずしてたら進まないか。ちょっとやり方は強引だったけど、梨生奈ちゃんが背中を押してくれたと解釈して、この人と会ってみるのもいいのかもしれない。
「不思議だったんだけど、梨生奈ちゃんはどうしてマッチングアプリなんて使ってるの?」
気を取り直した私は、ふと過った疑問を本人にぶつけてみることにした。私の問いかけに、質問の意図がわからないといったふうな彼女の戸惑いを感じたので、慌てて「ほら」と続ける。
「――梨生奈ちゃんってかわいいし、スタイルもいいし。どう考えても男の人にモテそうだから、わざわざアプリで探す必要なんてないんじゃ……」
梨生奈ちゃんは間違いなくモテる女性の部類に入る。アプリになんて登録しなくても、男性から声をかけられる機会は多いのではないだろうか。
それに引きかえ私は――ルックスにアドバンテージがあるとは言えない外見だから、こういうシステムには向いているのだろう。
オフィスには似たような白いシャツと、黒いパンツ、スニーカーで出勤するのが常だし、外にハネた肩までの茶髪は、スタイリングが面倒でうしろで結んでしまうことが多い。メイクもあまり色のないものを好むので、女子力はとても低いとみなされそうだ。
「甘いですよっ、先輩」
すると真顔になった彼女が、人差し指を立てて軽く振る。
「私はすべてにおいてハイスペックな男と結婚したいんです。最低でも、仕事を辞めて専業主婦になれるくらいの経済力がある男じゃなきゃ、する意味がないですから」
「はぁ……」
それまで一貫して明るく軽やかなノリだった梨生奈ちゃんが、突然ワントーン低い声でビシッと言い放ったものだから、その気迫に圧倒されてしまう。
そんな私をよそに、彼女は続けた。
「こういうアプリで相手を探せば、顔面レベルと内面のスペックを兼ね備えた極上の男に出会えるわけじゃないですか。現に私、顔も年収もいい相手としかお付き合いしたことないです」
「な……なるほどねぇ……」
『顔面レベル』とか『内面のスペック』とか――普段のほわんとしたイメージの彼女には不釣り合いなフレーズがポンポン出てくることに、内心で戦慄していると、梨生奈ちゃんが「それに」と畳みかけてくる。
「――アプリには日々いろんな男性が登録されますから、乗り換えも自由自在ですしね」
「え、彼氏と付き合ってる間もアプリしてるの?」
ぎょっとして反射的に訊き返す。
お付き合いをしている人がいるのに並行して相手探しをするなんて、不誠実じゃないだろうか。
しかし彼女は毅然としてそう答えた。
「当然ですよ。結婚は投資と同じです。よりいい投資先が見つかったら変更するのが普通ですよ」
「あー……いや、でも結婚が投資と同じっていうのはちょっと……」
「自分の将来を預ける相手を探すわけですから、それくらいズルくなってもいいと思うんです。自分の人生の責任を取れるのって、最終的には自分しかいないんですよ」
梨生奈ちゃんの言い分に「それもそうか」と思う反面、彼女の隠された一面を見た気がして、正直なところ少し引いてしまった。
私にとって男性とのお付き合いや結婚とは、異性としても人間としても、大好きだと思える人とだけするもの。そういう認識だったから、「そんな考え方もあるのか」と目からうろこだ。
しかしある意味、彼女はお付き合いやその先にある結婚を、とてもシビアに捉えているとも言える。自分の理想に合った相手を探す最大限の努力をしているだけで、決して悪いことではないはず。むしろ梨生奈ちゃんからしてみたら、フィーリングなんていう数値化・言語化できないものでパートナーを決めようとしている私のほうが幼稚で浅はかだと感じるのかもしれない。
「あっ、返事来た」
そのとき、手元のスマホが震えた。梨生奈ちゃんが送ったメッセージに対して返信があったようだ。
「早いですね~。お相手はなんて?」
「……『ぜひお願いします! いつにしましょうか? よろしければ僕にお店を選ばせてもらってもいいですか?』って」
「わぁ、いいじゃないですか! 相手、けっこう前のめりな感じですね」
画面に表示されたレスを読み上げると、梨生奈ちゃんはうれしそうに胸の前で手を合わせた。そして、追加のアドバイスとばかりにこう続ける。
「お互いの熱が冷めないうちに、早めに時間作ったほうがいいですよっ」
「う、うん……そうしてみる」
こちらから提案してしまったのだから、もう行動するのみだ。
――そうだ。この人と会って心から「いいな」と思えれば結果オーライ。七年越しの氷上への想いが断ち切れるし、私自身の幸せを掴める。
「最初はランチのほうがいいですよ。ディナーだと、酔って調子に乗る男もいるので」
「的確な助言、助かります」
私は梨生奈ちゃんの意見を参考にし、その週の土曜日、ランチタイムにお相手と会う約束を交わしたのだった。
◆ ◇ ◆
週末、さっそくその彼と会ってみたのだけど――これが、期待外れな結果となった。
ランチの時間そのものは、それなりに楽しかった。彼の風貌は写真通りだったし、始終優しく穏やかに相槌を打ってくれるのは心地よかった。私が好きなエンタメの話題も、お互いに好みが合致している部分があるので、まあまあ盛り上がったと思う。
このまま少しずつ回数を重ね、この人のことをもっと知っていけば、好きになれるのかもしれないという可能性を感じていた――お店を出た直後までは。
ランチ代は相手が持ってくれたので、「次は私が出しますね」と告げ、その日は解散しようとする。「初回は短い時間でいいと思いますよ」という梨生奈ちゃんのアドバイスもあったし、初めましての人と長時間話すのは緊張して神経を使う。ここで話し足りない分は次に持ち越せばいい、と考えていたのだ。
けれど駅に続く細い路地に入ったとたん、彼が私の腰に手を回して耳元でこうささやいてきた。
「やっぱりもっと一緒にいたいな。ふたりでゆっくりできるところ、行かない?」
彼の意図はすぐにわかった。直後、私のなかで静かに熱を保ち始めていた気持ちが、一気に氷点下まで冷え切る。
まだ会って数時間の相手を、こんなに気軽にベッドへ誘える感覚が、私には理解できない。
「ごめんなさい、このあと用事があって」
この人はないな。そう感じたけれど、はっきり告げると角が立つと思ったので、その場は穏便に済ませ、あとでお断りしようと決める。
「用事ってなに? 別の男と会うとか?」
おそらく彼のなかでは、私は確実についてくるという手ごたえがあったのだろう。だから私のつれない様子を感じ取ると、食い下がるようにそう訊ねた。
「ち、違います。でも今日は、ごめんなさい」
強引に話を終わらせる。
すると彼が微かに舌打ちをしたのを、私は聞き逃さなかった。
――あー、選ぶ人を間違えた。
逃げるように彼と別れ、自宅方面の電車に飛び乗る。扉のそばでゆっくりと動き出す景色を眺めながら、心のなかでつぶやいた。
『最初はランチのほうがいいですよ。ディナーだと、酔って調子に乗る男もいるので』
いつぞやの梨生奈ちゃんの台詞が蘇る。
ディナーじゃないし、酔ってもいなかったけど、それでも誘ってくるってことは常習犯ってことだよね。狙いは最初から、そういう展開に持っていくことだったのかもしれない。
私が誠実な関係を望んでいても、相手がそうであるとは限らないのだ。ある意味、いい勉強をさせてもらった。
コートのポケットからスマホを取り出し、先ほどの男性を即ブロックする。
会話自体はけっこう楽しかったので残念だけど、それすら本懐を遂げるための手段だったのかも、とさえ思えてきた。
――たまたま悪い人に当たってしまったと思って、忘れよう。事故だ、事故。
するとそのタイミングで、メッセージが届いた。よもや件の男性かと戦慄するものの、マッチングアプリの通知ではない。
「あ……」
送り主の名前を見て、つい声が出た。
……氷上だ。
『今日なにしてるの?』
彼がこんなふうにメッセージを送ってくるときは、遊びの誘いと決まっている。『用事が終わったところ』と短く返事をした。
『熊谷が観たがってた「リトル・クローズド・ドア」、動画配信サイトで配信開始されてるよ。一緒に観ない?』
――私が映画館で見逃した映画だ。原作が私と氷上が好きな推理作家のバイオレンスミステリーで、絶対に観に行こうと決めていたのに、話題性が低く、思ったよりも早く上映期間終了となったために、叶わなかった。
確か氷上は観ていたはずだけど……私が悔しがっていたのを覚えていてくれたんだ。
『観たい!』
深く考えずにそう返事をしてから――ちょっと待って、と思い直す。せっかく氷上のことを諦める決心をしたのに、今までと同じような付き合い方をしていたら、気持ちが揺らいでしまうのではないか。
……でもまぁ、実際のところ私の交友網のなかでいちばんノリや趣味嗜好が合うのは氷上だし。友達付き合いまでやめる必要はないだろう。いきなり距離を置くそぶりを見せたら、氷上だって戸惑うはず。
『じゃあうち来て そのまま夜も食べよう』
――え、氷上の家?
長い付き合いだから、彼の家に遊びに行ったことくらいはある。
でもそれは、鈴村や田所を含めての話だ。彼らふたりは実家暮らしで、私は女性。氷上だけが唯一、大学のころからひとり暮らしを始めていたため、飲み会のあとに転がり込みやすかったのだ。
氷上自身も、いくら仲がいいとはいえ、異性の友人をひとりで家に呼ぶのは好ましくないという認識があったのだろうと思う。私も漠然とそういう気持ちを持っていたから、なんとなくわかる。
それが異性の友人同士の、最低限の線引きだ。
だからこれまで一緒に動画を見たり、漫画を読んだり、音楽を聴いたりするときは、ネットカフェやカラオケを利用していたのに、突然どういう風の吹き回しなのだろうか。
……でもまあ、いいか。今さらなにが起こるわけでもないし。むしろ、氷上のほうはなにも起きないと確信しているからこそ、自宅に呼んでもいいと思っているのかもしれない。
そう考えるとちょっと悲しいけれど、自分のテリトリーに彼が快く迎え入れてくれるのは純粋にうれしかった。
『わかった 行くね』
すぐに返事をすると次のターミナル駅で降り、氷上の自宅最寄り駅へ行き先を変更したのだった。
氷上は首都圏にふたつある空港それぞれに交通の便がいい都心部に部屋を借りている。朝早かったり、逆に夜遅かったりする変則的な勤務であることから、職場へのアクセスのよさというのがとても重要なのだと以前話していた。
手土産に途中のコンビニで購入したビールを持参して、いざ彼の自宅へ。
男のひとり暮らしにしてはずいぶんおしゃれで利便性が高いマンションだ。駅から徒歩三分の好立地というのだから羨ましい。
部屋に上がるまではちょっと緊張したものの、入ってしまえば普段通りだ。リビングにあるソファに横並びで座り映画を観たあと、夕食はデリバリーを注文。ビールに合いそうなものと考えて、ピザをとることにした。
「思ったよりも原作に忠実で面白かった」
ソファの前のローテーブルにはピザとサイドメニューのポテトやチキンナゲットなどが並ぶ。それらを肴に、ビールを缶のまま呷りながら、観たばかりの映画の話で盛り上がる。
自分の想いに気付いたからといって、いきなり接し方を変えることはできなかった。そのときにはすでに異性としてではなく男友達みたいな付き合い方をしていたし、彼の周囲には常に彼へアプローチをする女性たちが溢れていた。そのなかにはとびきり美しかったり、スタイル抜群だったりする子たちも珍しくない。容姿も中身も平凡な私が、彼女たちに交じって戦おうという気持ちにはなれるわけがなかった。
それでも心のどこかで、私は他の女性たちとは違うのだと期待していた。
特別理由がなくても誘い出してご飯を食べたり、気が向いたときにメッセージを送り、くだらないやり取りで笑い合ったりできるこの関係は特別なものであると信じ込んでしまっていたのだ。
今思うとどうしようもない自惚れだけど、私と同じ想いを、ひょっとしたら氷上も抱いているのではないか。都合よくそんなふうに考えたこともあったくらいだ。
あくまで自分は男友達というくくりのなかにいるということが、すっぽり頭から抜けていた。
私ってば、身の程知らずで、なんとおめでたいんだろう。氷上が、異性としての私を好きになる理由なんてないのに。
……そういえば、氷上が誰かと付き合っているという話を、彼の口から聞いたことがない。
さっきも田所の問いかけに、「いない」とはっきり答えていたが、本当なのだろうか。誰にも打ち明けていないだけで、過去に何人かお付き合いしていた可能性は十分にある。今だってそうだ。
私たちももう二十七歳。同級生のなかにはすでに結婚して家庭を持っている子たちもいるから、そろそろ未来について考え始める頃合いじゃないだろうか。
氷上ほど女性にモテる人が、一生独身を貫くとは考えづらい。
航空会社のCAは優秀な美人が多いと聞くし、きっと近い将来、氷上のお眼鏡に適う素敵な女性に彼を奪われてしまうのだろう。
今の私が持っている、氷上を気軽に呼び出したり、とりとめのないメッセージの応酬をしたりする権利を、そのまだ見ぬ美人なCAに取られてしまう――そう思うと胸が抉られるみたいに悲しくて、苦しくて。電車の手すりに縋りついて泣き出しそうになるのをぐっと堪えた。
そのとき、私は耐えられるのだろうか。私の知らない、魅力溢れる女性とお付き合いを始める氷上に、素直に「おめでとう」と言える?
できるわけない。だって、大学のころからずっと氷上を想い続けているのに。
私以外の女性と結ばれる彼を祝福するなんて無理。
――でも、諦めなきゃいけないんだよなぁ。
……絶対ないって、あんなにはっきり言われちゃったんだから。
他の男子には目もくれず、ずっと氷上を想い続けていた私は、自慢じゃないけど交際経験ゼロ。だけど人並みに結婚や出産への憧れはある。
もちろんその相手が氷上なら最高なのだけど、難しいのはわかっていた。
ならば、私もそろそろ別の恋へ舵を切らなければならない。でなければ年月だけが過ぎてしまう。
そうこうしているうちに、電車が最寄り駅に到着した。ホームに降りるとずいぶん寒い。
電車に乗り込んだときはそこまで冷え込みを感じなかった。もしかしたら、私の心情がそう思わせているのかもしれない。
口のなかに残るビールの苦みは失恋の味だ。
私は大きくため息を吐いて、改札に続く階段を下りていった。
2
いつまでも落ち込んでいても仕方がない。そんなふうに、すぐ気持ちを切り替えられるのが私の長所だと自負している。
連休に沈むだけ沈みきってスッキリした私は、翌月曜にはマッチングアプリの登録をした。
不毛な片想いを終わらせる方法はただひとつ、新しい恋だ。
氷上みたいに、自分の趣味嗜好と合う相手は、この世のどこかにきっと存在する。その人を効率よく探し出すには、マッチングアプリが最適だろうという結論に達したのだ。
「京佳せーんぱい」
飲み会から五日後、もうそろそろ十二時のランチタイムになろうかというころ。
私は職場である『ブレイブリーキッズ』のオフィスで、職員の勤怠書類を確認していた。聞き慣れた明るい声に顔を上げると、同僚の島梨生奈が人懐っこい笑みを浮かべている。
ブレイブリーキッズは、都内で認可保育園を五園運営している株式会社。そのバックオフィスを担当しているのが、私と梨生奈ちゃん、そしてすでにお昼に出てしまった部長の津永さんだ。
小さな規模の会社なので、三人で業務は滞りなく回っているし、少数精鋭でやっている分、意思の疎通がしやすく、社内ルールも緩い。申し分ない労働環境だ。季節折々、運動会だのイモ掘りだの、保育園のイベントの手伝いができるのも、子どもたちと触れ合えるいい機会になっていて楽しい。
「どうです、アプリの調子は?」
「――うーん……せっかく教えてもらったのに、まだイマイチ、かな」
ふたりきりのオフィスでは、声を潜める必要がない。私は小さくため息を吐いて答えた。
梨生奈ちゃんは二歳年下の二十五歳。ピンク系ブラウンの肩までのゆるふわパーマヘアに、透き通った白い肌。顔立ちは仔リスみたいに愛らしく、メイクは派手すぎずチークやリップの淡いピンクでかわいらしさを強調。襟ぐりに大きなフリルのついた白いブラウスと茶色のAラインのスカートというお嬢さん風のファッションが、彼女の雰囲気にとてもマッチしていて素敵だ。
そんな見た目からして、トレンドに詳しい今どきの女子を具現化したような子。明るくほわんとした雰囲気が魅力でありつつ、先輩の私や上司の津永さんの懐にもスッと入り込んでくる、世渡り上手な一面もある。
聞けば、彼女は大学時代からマッチングアプリを使いこなし、彼氏を途切れさせたことがないらしい。
出会いを求めていることを彼女に告げると「それなら絶対にマッチングアプリですよ!」と、おすすめのアプリからプロフィール登録まで、懇切丁寧に教えてくれたのだ。
私はデスクに置いていたスマホを手に取り、マッチングアプリを起動した。メッセージ一覧には、これまでやり取りを交わした男性のイニシャルがずらりと並んでいる。その数、十二名。すべて私のターンで止まっている。
「えっ、マッチングできないってことですか?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど、こう……メッセージのやり取りだけで、いいなぁと思える人にまだ出会えないというか」
メッセージのやり取りはスムーズにできていると思う。相手の反応も悪くない。
でも私には、会ったことのない相手とのやり取りは、どうしてもバーチャルなものと捉えられてしまうのだ。
「文字だけじゃわからないこともありますよね~。サクッと一回会ってみたら手っ取り早いですよっ」
「でもなんとなくの人となりがわかるまでは、怖くない?」
「写真とプロフでわかりますよね?」
梨生奈ちゃんはそんなに気軽に、見も知らない人と会えるのだろうか。
驚きを込めて返答すると、むしろなにが怖いのかわからないと言いたげに、彼女が不思議そうに首を傾げる。
「うーん……そういうことじゃなくて、その人の好みとか、考え方とかを把握してから会いたいんだよね、私は」
「先輩って慎重派なんですね~」
「そう? 割と普通の感覚だと思ってるんだけど」
まるで私が変わっているみたいな反応だ。ある程度相手の情報が出揃ってから顔合わせをしたいと考えるのは、至極真っ当な考え方なのではないだろうか。
「アプリで婚活してる人たちはとりあえず会おうってこと、多いですよ。しぐさとか癖とか、フィーリングとか、会わないとわからないこともありますし。……例えばすっごいイケメンでも、ずっと爪を噛む癖がある人って、いやじゃないですか~?」
「それはまぁ、確かに……」
想像してみて、ぶるぶると首を横に振る。……勘弁願いたい。
「怖がらずに、先輩も一回会ってみたらいいと思いますっ。向こうも真剣に相手を探している場合がほとんどですから。早いうちに一歩踏み出したほうが楽ですよ」
「そうだよね……わかってはいるんだけどさ」
彼女が言っていることが正しいような気がしてきた。
結局会わないことには、その人とお付き合いできるかどうかの判断はつかないわけだから、とりあえず会ってみるというアクションが大事なのか。
「今、いいなと思ってる人はいますか~?」
私のスマホの画面をのぞき込んだ梨生奈ちゃんが訊ねる。
「ん……この人とかはアリかなと」
私は連絡を取り合った人のなかから、プロフィールややり取りの文言に好印象を抱いた『YS』というイニシャルの男性を選び、プロフィールを梨生奈ちゃんに見せた。
「三十一歳会社員、年収五百万円台、長男以外。優しそうな人だし、条件的には悪くないじゃないですか」
「……まぁ、年収とかは生活できればそれでいいんだけど」
彼女に言われるまで、職業や年収、きょうだい構成などはあまり気にしていなかった。私がこの人を選んだのは、あくまで自分とフィーリングが合いそうという点だけ。顔写真を含め、雰囲気が柔和だったのもポイントが高い。
「よし、じゃあ攻めて行きましょうっ」
梨生奈ちゃんはひょいとスマホを私の手から奪い取ると、なにやら操作する。
「え、ちょっと、なにしてるの?」
「はい、これでよしっと」
彼女の手からスマホを奪い返そうとした瞬間、梨生奈ちゃんが送信ボタンを押した。
『突然すみません。もしよろしければ直接お話ししてみたいと思っています。いかがでしょうか?』
再びスマホを取り戻して画面を見ると、直前のやり取りをぶった切り、いきなりこの文章が送信されていた。
「ええっ、ちょっと……⁉」
「こういうのは勢いが大事なんです。会うの、楽しみですねっ」
にこっと笑いながら歌うように言い放つ梨生奈ちゃん。
私は画面に目が釘付けになったままフリーズする。
――いや、確かに一回会わなきゃとは言ったけど! まだ心の準備が……
……って、ぐずぐずしてたら進まないか。ちょっとやり方は強引だったけど、梨生奈ちゃんが背中を押してくれたと解釈して、この人と会ってみるのもいいのかもしれない。
「不思議だったんだけど、梨生奈ちゃんはどうしてマッチングアプリなんて使ってるの?」
気を取り直した私は、ふと過った疑問を本人にぶつけてみることにした。私の問いかけに、質問の意図がわからないといったふうな彼女の戸惑いを感じたので、慌てて「ほら」と続ける。
「――梨生奈ちゃんってかわいいし、スタイルもいいし。どう考えても男の人にモテそうだから、わざわざアプリで探す必要なんてないんじゃ……」
梨生奈ちゃんは間違いなくモテる女性の部類に入る。アプリになんて登録しなくても、男性から声をかけられる機会は多いのではないだろうか。
それに引きかえ私は――ルックスにアドバンテージがあるとは言えない外見だから、こういうシステムには向いているのだろう。
オフィスには似たような白いシャツと、黒いパンツ、スニーカーで出勤するのが常だし、外にハネた肩までの茶髪は、スタイリングが面倒でうしろで結んでしまうことが多い。メイクもあまり色のないものを好むので、女子力はとても低いとみなされそうだ。
「甘いですよっ、先輩」
すると真顔になった彼女が、人差し指を立てて軽く振る。
「私はすべてにおいてハイスペックな男と結婚したいんです。最低でも、仕事を辞めて専業主婦になれるくらいの経済力がある男じゃなきゃ、する意味がないですから」
「はぁ……」
それまで一貫して明るく軽やかなノリだった梨生奈ちゃんが、突然ワントーン低い声でビシッと言い放ったものだから、その気迫に圧倒されてしまう。
そんな私をよそに、彼女は続けた。
「こういうアプリで相手を探せば、顔面レベルと内面のスペックを兼ね備えた極上の男に出会えるわけじゃないですか。現に私、顔も年収もいい相手としかお付き合いしたことないです」
「な……なるほどねぇ……」
『顔面レベル』とか『内面のスペック』とか――普段のほわんとしたイメージの彼女には不釣り合いなフレーズがポンポン出てくることに、内心で戦慄していると、梨生奈ちゃんが「それに」と畳みかけてくる。
「――アプリには日々いろんな男性が登録されますから、乗り換えも自由自在ですしね」
「え、彼氏と付き合ってる間もアプリしてるの?」
ぎょっとして反射的に訊き返す。
お付き合いをしている人がいるのに並行して相手探しをするなんて、不誠実じゃないだろうか。
しかし彼女は毅然としてそう答えた。
「当然ですよ。結婚は投資と同じです。よりいい投資先が見つかったら変更するのが普通ですよ」
「あー……いや、でも結婚が投資と同じっていうのはちょっと……」
「自分の将来を預ける相手を探すわけですから、それくらいズルくなってもいいと思うんです。自分の人生の責任を取れるのって、最終的には自分しかいないんですよ」
梨生奈ちゃんの言い分に「それもそうか」と思う反面、彼女の隠された一面を見た気がして、正直なところ少し引いてしまった。
私にとって男性とのお付き合いや結婚とは、異性としても人間としても、大好きだと思える人とだけするもの。そういう認識だったから、「そんな考え方もあるのか」と目からうろこだ。
しかしある意味、彼女はお付き合いやその先にある結婚を、とてもシビアに捉えているとも言える。自分の理想に合った相手を探す最大限の努力をしているだけで、決して悪いことではないはず。むしろ梨生奈ちゃんからしてみたら、フィーリングなんていう数値化・言語化できないものでパートナーを決めようとしている私のほうが幼稚で浅はかだと感じるのかもしれない。
「あっ、返事来た」
そのとき、手元のスマホが震えた。梨生奈ちゃんが送ったメッセージに対して返信があったようだ。
「早いですね~。お相手はなんて?」
「……『ぜひお願いします! いつにしましょうか? よろしければ僕にお店を選ばせてもらってもいいですか?』って」
「わぁ、いいじゃないですか! 相手、けっこう前のめりな感じですね」
画面に表示されたレスを読み上げると、梨生奈ちゃんはうれしそうに胸の前で手を合わせた。そして、追加のアドバイスとばかりにこう続ける。
「お互いの熱が冷めないうちに、早めに時間作ったほうがいいですよっ」
「う、うん……そうしてみる」
こちらから提案してしまったのだから、もう行動するのみだ。
――そうだ。この人と会って心から「いいな」と思えれば結果オーライ。七年越しの氷上への想いが断ち切れるし、私自身の幸せを掴める。
「最初はランチのほうがいいですよ。ディナーだと、酔って調子に乗る男もいるので」
「的確な助言、助かります」
私は梨生奈ちゃんの意見を参考にし、その週の土曜日、ランチタイムにお相手と会う約束を交わしたのだった。
◆ ◇ ◆
週末、さっそくその彼と会ってみたのだけど――これが、期待外れな結果となった。
ランチの時間そのものは、それなりに楽しかった。彼の風貌は写真通りだったし、始終優しく穏やかに相槌を打ってくれるのは心地よかった。私が好きなエンタメの話題も、お互いに好みが合致している部分があるので、まあまあ盛り上がったと思う。
このまま少しずつ回数を重ね、この人のことをもっと知っていけば、好きになれるのかもしれないという可能性を感じていた――お店を出た直後までは。
ランチ代は相手が持ってくれたので、「次は私が出しますね」と告げ、その日は解散しようとする。「初回は短い時間でいいと思いますよ」という梨生奈ちゃんのアドバイスもあったし、初めましての人と長時間話すのは緊張して神経を使う。ここで話し足りない分は次に持ち越せばいい、と考えていたのだ。
けれど駅に続く細い路地に入ったとたん、彼が私の腰に手を回して耳元でこうささやいてきた。
「やっぱりもっと一緒にいたいな。ふたりでゆっくりできるところ、行かない?」
彼の意図はすぐにわかった。直後、私のなかで静かに熱を保ち始めていた気持ちが、一気に氷点下まで冷え切る。
まだ会って数時間の相手を、こんなに気軽にベッドへ誘える感覚が、私には理解できない。
「ごめんなさい、このあと用事があって」
この人はないな。そう感じたけれど、はっきり告げると角が立つと思ったので、その場は穏便に済ませ、あとでお断りしようと決める。
「用事ってなに? 別の男と会うとか?」
おそらく彼のなかでは、私は確実についてくるという手ごたえがあったのだろう。だから私のつれない様子を感じ取ると、食い下がるようにそう訊ねた。
「ち、違います。でも今日は、ごめんなさい」
強引に話を終わらせる。
すると彼が微かに舌打ちをしたのを、私は聞き逃さなかった。
――あー、選ぶ人を間違えた。
逃げるように彼と別れ、自宅方面の電車に飛び乗る。扉のそばでゆっくりと動き出す景色を眺めながら、心のなかでつぶやいた。
『最初はランチのほうがいいですよ。ディナーだと、酔って調子に乗る男もいるので』
いつぞやの梨生奈ちゃんの台詞が蘇る。
ディナーじゃないし、酔ってもいなかったけど、それでも誘ってくるってことは常習犯ってことだよね。狙いは最初から、そういう展開に持っていくことだったのかもしれない。
私が誠実な関係を望んでいても、相手がそうであるとは限らないのだ。ある意味、いい勉強をさせてもらった。
コートのポケットからスマホを取り出し、先ほどの男性を即ブロックする。
会話自体はけっこう楽しかったので残念だけど、それすら本懐を遂げるための手段だったのかも、とさえ思えてきた。
――たまたま悪い人に当たってしまったと思って、忘れよう。事故だ、事故。
するとそのタイミングで、メッセージが届いた。よもや件の男性かと戦慄するものの、マッチングアプリの通知ではない。
「あ……」
送り主の名前を見て、つい声が出た。
……氷上だ。
『今日なにしてるの?』
彼がこんなふうにメッセージを送ってくるときは、遊びの誘いと決まっている。『用事が終わったところ』と短く返事をした。
『熊谷が観たがってた「リトル・クローズド・ドア」、動画配信サイトで配信開始されてるよ。一緒に観ない?』
――私が映画館で見逃した映画だ。原作が私と氷上が好きな推理作家のバイオレンスミステリーで、絶対に観に行こうと決めていたのに、話題性が低く、思ったよりも早く上映期間終了となったために、叶わなかった。
確か氷上は観ていたはずだけど……私が悔しがっていたのを覚えていてくれたんだ。
『観たい!』
深く考えずにそう返事をしてから――ちょっと待って、と思い直す。せっかく氷上のことを諦める決心をしたのに、今までと同じような付き合い方をしていたら、気持ちが揺らいでしまうのではないか。
……でもまぁ、実際のところ私の交友網のなかでいちばんノリや趣味嗜好が合うのは氷上だし。友達付き合いまでやめる必要はないだろう。いきなり距離を置くそぶりを見せたら、氷上だって戸惑うはず。
『じゃあうち来て そのまま夜も食べよう』
――え、氷上の家?
長い付き合いだから、彼の家に遊びに行ったことくらいはある。
でもそれは、鈴村や田所を含めての話だ。彼らふたりは実家暮らしで、私は女性。氷上だけが唯一、大学のころからひとり暮らしを始めていたため、飲み会のあとに転がり込みやすかったのだ。
氷上自身も、いくら仲がいいとはいえ、異性の友人をひとりで家に呼ぶのは好ましくないという認識があったのだろうと思う。私も漠然とそういう気持ちを持っていたから、なんとなくわかる。
それが異性の友人同士の、最低限の線引きだ。
だからこれまで一緒に動画を見たり、漫画を読んだり、音楽を聴いたりするときは、ネットカフェやカラオケを利用していたのに、突然どういう風の吹き回しなのだろうか。
……でもまあ、いいか。今さらなにが起こるわけでもないし。むしろ、氷上のほうはなにも起きないと確信しているからこそ、自宅に呼んでもいいと思っているのかもしれない。
そう考えるとちょっと悲しいけれど、自分のテリトリーに彼が快く迎え入れてくれるのは純粋にうれしかった。
『わかった 行くね』
すぐに返事をすると次のターミナル駅で降り、氷上の自宅最寄り駅へ行き先を変更したのだった。
氷上は首都圏にふたつある空港それぞれに交通の便がいい都心部に部屋を借りている。朝早かったり、逆に夜遅かったりする変則的な勤務であることから、職場へのアクセスのよさというのがとても重要なのだと以前話していた。
手土産に途中のコンビニで購入したビールを持参して、いざ彼の自宅へ。
男のひとり暮らしにしてはずいぶんおしゃれで利便性が高いマンションだ。駅から徒歩三分の好立地というのだから羨ましい。
部屋に上がるまではちょっと緊張したものの、入ってしまえば普段通りだ。リビングにあるソファに横並びで座り映画を観たあと、夕食はデリバリーを注文。ビールに合いそうなものと考えて、ピザをとることにした。
「思ったよりも原作に忠実で面白かった」
ソファの前のローテーブルにはピザとサイドメニューのポテトやチキンナゲットなどが並ぶ。それらを肴に、ビールを缶のまま呷りながら、観たばかりの映画の話で盛り上がる。
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