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しおりを挟むプロローグ
さっき読んでいた小説に、失恋はほろ苦いチョコレートの味だと書いてあった。
その一文に納得がいかず、本を閉じ、ベッドの横にある今にも崩れそうな文庫本の塔のてっぺんに乗せた。――もう読まない。そういう意志をこめて。
ほろ苦いどころの騒ぎじゃないのだ。失恋とは、悲しくて辛くて、消えてなくなってしまいたくなるような絶望を伴う。
言うなればこの世の終わりだ。
百歩譲って、ほろ苦チョコだとしよう。けれど、それは本当の恋じゃない。
大好きな人からの愛情を失ってなお「ほろ」苦いなんて言っていられるのは、その人のことをそれほど好きではなかったからだ。きっと、尊敬や憧れ程度だったのだろう。
『ごめん、有紗』
耳元であの人がささやいた気がした。
申し訳なさそうに、でも自分の決心は鈍らせまいとしている声で。
『ごめん、有紗。本当にごめんな』
すっぽりとシーツを被り、頭の中に響いた彼の声をかき消そうと試みる。けれど、一冊の文庫本が抉った傷口は、まだ全然癒えず、じくじくとしている。
謝るくらいなら、別れの言葉なんて口にしないで欲しかった。
付き合い始めて二年と少し。それまでに別れを予兆するような大きなケンカは一度もなかった。
お互いの誕生日やクリスマス、お正月、バレンタイン、ホワイトデー。イベントごとも大方二周し、それらすべてを一緒に過ごした。
ごく自然な流れで婚約を交わし、これから先もずっとこの人と過ごしていける――そう信じて疑わなかったのに。
『好きな人が出来たんだ。婚約はなかったことにしてほしい』
あの瞬間の衝撃を、私は一生忘れないだろう。
好きな人? 婚約はなかったことに? 一体何を言っているの?
停電が起きたときみたいにふっと明かりが落ちて、目の前が真っ暗になった。
すぐそこまで迫っていた愛する彼との温かな未来が、崩れ落ちていったのだ。
失恋は、かんだ唇からにじむ無機質な鉄の味。
愛した人に裏切られ、ずたずたに打ちのめされた私――藤堂有紗が言うのだから、間違いない。
1
同僚の鷹取直行と別れたタイミングは最悪で、社長や同僚に彼との婚約を告げた直後だった。
ウェブページ制作やデザインなどを請け負う小さな事務所。その中で、私たちの破局が伝わるのに時間はかからなかった。仕事はやりがいがあり、辞めたくはなかったけれども、周囲の労わるような――でも少し好奇の交じった視線に耐えられず、私は逃げるように職場を去ったのだ。
それからの日々は限りなく退屈で、憂鬱なものだった。
何もやる気がしない。朝、目覚めてからカーテンを開けるのはおろか、身体を起こすのすら面倒に感じ、夕方までベッドの中で過ごす。そして、気が付いたら一日が終わり、また不毛な明日がやってくる。
もうどうでもいいと思った。これから先何が起きたとしても、直行と過ごしたあのときよりも幸せな時間はやってこないだろう。
彼と婚約していたころは、目に映るもの全てが輝いていた。
そんな朝露に濡れたバラみたいに鮮やかに見えた世界は、あの日を境にモノクロームな色調に変わってしまったのだ。
時折楽しかったころを思い出しては、未だに手放せないでいる婚約指輪を薬指にはめたりした。
ホワイトダイヤの両サイドに小さなピンクダイヤが並ぶ、可愛らしいエンゲージリング。見つめれば見つめるほど、もらったときの嬉しさや感動が昨日のことのようによみがえり、泣けてくる。
もうあのころには戻れないんだと思うと、涙が止まらなかった。
『好きな人が出来たんだ。婚約はなかったことにしてほしい』
イルミネーションの躍るクリスマスイブの街。おあつらえ向きとばかりに雪がちらつき始め、これからもずっとこうして彼と過ごすんだな――と、ときめきを覚えていたのに。その気分から一転、私を絶望に突き落とした直行は、今は事務所の後輩である澪ちゃんと付き合っているという。元同僚が憤りをまじえた口調で教えてくれた。どうやら、直行は二股を掛けていたらしい。
最近売り出し中の清純派女優によく似ている澪ちゃんは、周囲からしっかり者だと言われる私とは全く違うタイプの、甘え上手な女の子。私に懐いてくれていた彼女が浮気相手だと知り、尚更ショックだった。
事情を知った上司や同僚たちは、彼らの扱いに苦慮したようだ。その後、直行と澪ちゃんは二人揃って事務所を辞めたらしい。厳しい視線を向けられて、彼らも居づらかったのだろう。
一人娘の結婚を心待ちにしていたうちの両親はカンカンで、「出るところに出ましょう」と息まいていたけれど、私はそれを止めた。心に深いダメージを負っていた私に、直行を責める気力なんて残っていなかった。
――彼は私じゃなく他の女の子を選んだのだ。
これ以上傷を抉るようなことはせず、ただただ放っておいてほしかった。
直行とは結局それっきり会っていない。私は弱り切った心を守るため、他人との接触を避けるようになっていった。
私に足りなかったものとは何なのだろう? 私の何がいけなかったのだろう?
悶々と考え続け部屋に閉じこもる娘を両親は不憫に思ったようで、しばらくの間は傍観を決め込み、好きにさせてくれた。けれど、退社から二ヶ月近くが過ぎても一向に立ち直る兆しを見せないことに、最近は焦り始めているようだ。
先週くらいから、母親が「そろそろ春物の洋服でも買いに行かない?」とか「知り合いのお店でアルバイトを探してるみたいなんだけど」とか、やたらと私を外に連れ出そうとしてくる。
私も一応分別のある大人。まだ二十五でやり直しがきく歳なのはわかっているし、いつまでもこのままではいけないという気持ちもある。他者とかかわることから逃げ、働きもせずに家に引きこもっているなんて絶対に不健全だと。
だけどどうしても気力が湧かなかった。
二月も終わりかけたある日。たっぷりと睡眠をとって起床した私は、ベッドに寝転がったまま手を伸ばし、リモコンでテレビの電源を入れた。
この時間帯は主婦向けのワイドショー番組をやっている。特に興味はないけれど、ボタンを操作して音量を上げた。ひとりで過ごす時間を寂しく思わないようにするためには、BGMが必要不可欠だ。
テレビから聞こえる、夫に対する愚痴特集とやらを右から左へ流していると、部屋の扉がノックされた。
「ねーちゃん、起きてる?」
末の弟、友也だ。
「うん」
その場で短く返事をすると、扉が開く。
「何だ、起きたばっかかよ」
友也は私のパジャマ姿を見るなり、男のくせに綺麗に手入れをしている眉をひそめた。
「下でかーさんが呼んでる」
まただ。母親からの「外に出ましょう攻撃」は、このごろ特に激しい。
断ると悲しい顔をされるから心苦しいのだけれど、気が乗らないものは仕方がない。
「わかった、今行く。……これからバイト?」
「そ。オレたち学生は今が稼ぎドキだから」
大学生の友也は今、春休み中だ。某有名チェーンのコーヒーショップでバイトをしていて、この長期の休みにはシフトを増やしたらしい。かなり忙しそうで、ずっと家にいる私でさえ、最近はあまり顔を合わせない。
「よくそんなにがんばるね」
思わず言った私に、友也はあっさりと、未来を見据えた答えを告げた。
「オレも早くにーちゃんたちみたいにひとり暮らししたいし、そのためには金貯めなきゃ」
私には友也の他に、優也と幹也という弟がいる。彼らは就職を機に関東の片田舎であるこの地元を離れ、優也は東京、幹也は大阪と、それぞれ都会で自活しているのだ。
長男の優也はすでに家庭を持っている。姉の私よりも先に運命の人を見つけるなんて、ねたましい――違った、うらやましいヤツ。
「つーことで、ねーちゃんみたいにグータラしてらんないの。そんじゃ」
傷心の姉に対してその言い方は酷くないだろうかと思うけど、デリカシーのない弟三人に囲まれて生きてきたので慣れっこだ。それに、こんな不毛な生活をしていて申し訳ないという気持ちもあって、何も言い返せなかった。
友也が階段を降りていく足音が聞こえなくなったころ、テレビを消してベッドから降りる。
さて今日はどんな誘いが来るのだろう。そして、どうやってやんわりと断ろう。
小さく息を吐いて、母親の待つ階下のリビングへと向かった。
「おはよう、有紗」
リビングの扉を開けると、母が掃除機をかける手を止めた。
「おはよう」
「ご飯食べるでしょ?」
「うん――でも、話って何?」
食事の支度に取りかかろうとキッチンへ向かう母に声を掛ける。
大方の予想はついているけれど――と思った私だったが、母の反応は予期していたものと違っていた。
「そうそう、そうなのよ。有紗に聞いて欲しいことがあるの」
片手を招き猫のようにちょいちょいと曲げながら告げる声は、心なしか弾んでいるようだ。
普段よりテンションが高めなその様子に戸惑いつつ、招かれるままダイニングテーブルに腰を掛けた。
「ねえ、従弟のレイくんのこと、覚えてる?」
「レイくん……」
母の言葉をなぞりながら、ああ、と頷く。
「もちろん、覚えてるよ」
レイくん――母の姉のひとり息子である、神村礼二郎くん。一つ年下の従弟だ。
私が中学生になるくらいに、伯父さん――レイくんのお父さんの転勤で彼らが東京に引っ越すまでは、神村家はご近所さんだった。家同士の交流も多く、私も弟がひとり増えたみたいで楽しかったっけ。
とはいえ、彼とはもう十年以上も会っておらず、母から伝え聞いた近況しか知らない。確か、大学卒業後は東京の会社で営業職に就いたって言っていたような。
「実は今、レイくんの会社が社員さんを募集しているらしいのよ」
「へえ、そうなんだ」
「由香利にね、有紗が新しい就職先を探しているって言ったら、レイくんにその話が伝わったみたいで。それで、有紗にどうかしらって」
由香利とはレイくんのお母さんの名前だ。
「『どうかしら』って?」
「せっかくだから面接だけでも受けてみない? 何でも、デザイン部門のウェブデザイナーが足りないんですって。有紗は経験者だし、ピッタリでしょう」
私がこの間までデザイン事務所でウェブ専門のデザイナーをしていたので、母はちょうどいいと考えたようだ。
それから母は嬉々とした表情で、レイくんが働く会社について教えてくれた。そこは、マーケティング事業を根幹としつつ、インターネットでの広告配信やイベントのプロデュースなど、幅広く手掛けているらしい。
「どうって言われても、採用してもらえるかどうか……。それに東京の会社なんでしょ? うちからじゃ通うのは難しいんじゃないかな」
都心まで電車で二時間かかるので、さすがに毎日通うのは厳しい。
「それでね、お父さんとも話したんだけど……有紗もこれを機に東京で暮らしてみたらどうかなって」
「えっ?」
寝起きで働いていなかった頭が一気に覚醒した。
だってこれまで、弟たちには都会での生活を許しておきながら、私には「家に残って欲しい」と訴え続けていたのは、他の誰でもない、父と母ではないか。
「……私が東京に行くの、嫌がってたのに。急にどうしちゃったの?」
「だって娘を東京に出すのって、親としてはすっごく心配なのよ。ほら、優也や幹也は男の子だからそんなに危ないこともないでしょうけど」
「昔、東京の大学に行きたいって言ったときは反対したじゃない」
かつて私が東京の美大に行かせてくれと頼んだときは、首を縦に振ってくれなかった。一人娘に何かあってはいけない――という親心はありがたく受け取るけれど。
「今だって諸手を挙げて賛成はできないわよ。有紗も社会人になったとはいえ、やっぱりひとり暮らしさせるのは不安だもの。でも、レイくんが『それなら僕が暮らしてる家にどうぞ』って言ってくれたのよ」
「レイくんの家?」
「神村さんの弟さんが今、海外勤務でね。その間、そちらのお家を借りて住んでいるんですって」
なるほど、レイくんは今、レイくんの叔父さんの家に住んでいるってことか。
「部屋も余ってるみたいだし、レイくんと一緒ならお母さんも心強いから。どう、有紗?」
「……どう、って言われても」
困惑するしかなかった。てっきり近所に散歩でも……くらいの誘いかと思いきや、就職口の斡旋をされるとは。しかも、ずっと行きたかった東京の会社だ。
母は、はっきりした反応を見せずにテーブルの木目ばかりを見つめる私に苛立つこともなく、穏やかに言った。
「いきなりだったから、戸惑うのもわかるわ。けどね、そろそろ新しい一歩を踏み出してみてもいいんじゃないかしら」
はっとして顔を上げると、そこには母の優しい微笑み。
「直行くんのことはお母さんも腹が立ったわよ。有紗が辛い想いをしたっていうのは、同じ女としてわかるつもり。でも、いつまでも塞ぎこんでいても仕方ないでしょう」
「…………」
「あなたは長女だから、できればこのまま地元に残っていて欲しいけど……でも、もし有紗が環境を変えて頑張ろうって――ずっと行きたがってた東京で心機一転やり直そうって考えてくれるなら、それもいいのかなって、お父さんと話し合ったの。ま、採用されるかどうかはわからないけどね」
最後は少しふざけた口調で言うと、母は立ち上がり、キッチンへ向かう。
「……ゆっくり考えなさい。わかった?」
その背中を見つめながら、私は「はい」と答えた。
朝食を終えて自分の部屋に戻った私は、ベッドに横になって母の話を思い返す。
『そろそろ新しい一歩を踏み出してみてもいいんじゃないかしら』
私もずっと考えていた。ほぼ一日中この場所で過ごす不毛な日々を、何とか変えたいと。
働くことが嫌いなわけじゃない。というより、むしろ好きだ。外に出るのが苦痛なわけでもない。
直行との別れによってすべての原動力を失ってしまっただけなのだ。
「東京で就職、か……」
ぽつりと声に出してみる。
大学時代には叶わなかった、憧れの東京での生活。悪くない響きだ。
もしかしたら、これが転機というものなのかもしれない。
地元で生活していると、直行たちと出くわしてしまう可能性がある。そのとき、彼女だった澪ちゃんは奥さんになり、お母さんになっているかもしれない。
まだ彼への気持ちが完全に吹っ切れていない今、そんな事態は絶対に避けたい。
……それならいっそ、東京に行こうか。
逃げているだけかもしれないし、建設的な動機じゃないかもしれない。でも、それでも構わない。
どうにかしてこの生活を変えなきゃ。このままじゃ私は本当にダメになってしまう。
母の言う通り重い腰を上げて、新しい一歩を踏み出すときなのだ。
地元を離れるのは初めてだから、正直なところ不安もある。けれど、あっちには優也もいるし、それに――
「同じ家にレイくんがいるんだもんね」
そう声に出すと、脳裏に幼いレイくんの顔が浮かんだ。
最後に会ったのは、確か彼が中学生になったお祝いのとき。でも、最も私の印象に残っているのは、うちと神村家の交流が一番頻繁だった十五年くらい前、つまり彼が小学三、四年生の頃の姿だ。
色素の薄い柔らかな髪に白い肌。小さな顔には、長くてくるっとカールした睫毛とぱっちりした瞳が並んでいた。女の子顔負け、いや、まさにお人形さんのような綺麗な顔立ちだった。
同じ男の子でも、やんちゃでうるさかったわが家の弟たちとは全然違っていた。外で友達と遊ぶよりも部屋でひとり本を読むのを好む、大人しくて人見知りする子だったっけ。だからか、覚えているのはどれも困った顔か、泣きそうな顔ばかり。
それでも私には心を開いていたみたいで、「ありさおねえちゃん」と呼んで、慕ってくれていた。私もそんな彼が可愛くて、女大将よろしくいつも後ろに連れて歩いていたのだ。
彼が他の男の子にいじめられているときは、身体を張って闘ったりもしたなあ。
四姉弟の一番上っていう責任感がそうさせたんだと思うけど、私もずいぶんおてんばな性格だったんだ。そのころの記憶がよみがえって、つい笑ってしまった。
そんなレイくんももう二十四歳か。彼は一体どんな青年に成長したんだろう。
さすがに今はベソをかいたりしないと思うけど、昔の面影は少なからず残っているだろう。それに、疎遠になっている私に自分の勤めている会社の求人を教えてくれたり、部屋の提供を申し出てくれたりしたのだから――今は、思いやりのある心優しい男性になっているのではないだろうか。
親戚とはいえ、もう十年以上会っていない男の子と一緒に暮らすのは少し抵抗があるけれど、歳は優也と変わらないし、弟がもう一人増えたと思えばいい。
私はベッドから出ると、駆け足で階段を降りた。そして、その勢いのまま、キッチンで洗い物をしている母に言った。
「……私、レイくんの会社受けてみる」
◆ ◇ ◆
採用が決まるまでの過程は、予想に反し実にスムーズだった。
由香利伯母さんを通してレイくんに私の連絡先を伝えると、程なくしてレイくんの会社から電話がきた。その後はトントン拍子にクリエイティブ・デザイン部リーダーとの面接、さらに最終面接と進み、あっという間に四月からの勤務が決まったのだ。
そして三月中旬のとある休日。応募を勧めてくれたお礼と、家の下見をしに、私はレイくんが暮らす世田谷区にやってきた。
駅には大きな複合ショッピング施設が直結していた。そこには生活に必要なあらゆるアイテムが揃っていて、まさに私がイメージする都会そのものだった。
駅から延びる大通りから一本中に入ると、今度は小ぢんまりとした雑貨屋さんやカフェなどが見えてきた。もちろんお洒落で洗練された雰囲気ではあるけれど、派手派手しくない感じが、都会に慣れない私を安心させてくれる。
その先は閑静な住宅街だ。通りかかった公園は緑に溢れ、ベビーカーを押すお母さんたちがニコニコ顔でおしゃべりをしていた。
にぎやかな駅前に穏やかな居住区。暮らしやすそうな場所で、とてもありがたい。
「そろそろレイくんの家が見えてくるはずなんだけど……」
公園から聞こえてくる笑い声を背に、周囲を見回す。
芸能人や著名人が住むような豪邸が建ち並ぶ通り。私の実家の周りでは絶対にお目に掛かれない、やたら窓が大きい家や、門に石造りのアーチが付いている家などがあり、実に新鮮だ。
本当にこの近辺で合っているのか自信がなくなってきて、ナビ代わりにしているスマートフォンで何度も確認してしまった。
……うん。教えられた住所だと、この辺で間違いない。
こんな高級住宅街に家を持っていながら海外勤務なんて、もったいないなあと思う。
何でも、レイくんの叔父さんは某日系自動車メーカーのインドネシア工場で工場長を務めているそうだ。名前を聞けば誰もが知ってる会社だし、生産ラインの責任者ともなれば、こういう高級住宅街に住んでいたっておかしくない。どうせ家を空けるならと、叔父さん夫婦は、息子のように可愛がっている甥っ子のレイくんに快く住居を提供してくれたらしい。
通り過ぎる立派な家々に「これが日常の風景になるなんて」と気後れしてきたころ、右手にある白い三角屋根の建物に目がいった。
しっくいの真っ白な塗り壁にマッドブラウンの洋瓦が映えて、まるで海外ドラマに出てきそうな可愛い家。
建物と同じ白い外壁に取り付けられた表札には、『Kamimura』と書いてある。
筆記体で『Kamimura』。表記さえもお洒落だ。さすが都会。
表札の下に呼び出し用のインターホンが備え付けられている。急に喉の渇きを覚えて、ごくりと唾を呑んだ。
実は、まだレイくんとの再会を果たしていないのだ。
営業部で働く彼は忙しいらしく、面接で会社へ足を運んだときも会えなかった。
その分、今日はいっぱい感謝の気持ちを伝えようと心に誓っていた。それに、これからは一緒に暮らすことになる。
レイくんのことを考えているうちに、最初は輪郭すらぼやけていた記憶が、次第にビビッドによみがえってきた。
よくレイくんの髪を三つ編みにして、お姫様みたいなウェーブをかけてあげたこと。
いっしょにおままごとをして遊ぶときは、私がお姉ちゃん役でレイくんが妹役だったこと。
くたくたに遊び疲れると、一緒にお風呂に入ってから眠っていたこと。
……こう考えると、弟というより妹と一緒にいる感覚だったのかもしれない。だから余計に守ってあげたいとか、世話を焼いてあげたいとか思っていたのだろう。
でも一番記憶に残っているのは――
『おもっていることは、ちゃんとわかるようにいわないと、あいてにつたわらないんだよ!』
引っ込み思案なレイくんが上手く自分の意見を述べられず涙目になっているときに、私がそうやって彼を叱咤激励していたことだ。
偉そうなことを言っていたが、台詞は当時の担任教師の受け売りだった。学校で何度も言われていたそれを、いかにも私が説いている風に言ってたのだと思うとこそばゆい。
でも。そうやって彼を励ますことによって、私は彼の本当のお姉ちゃんっぽく振舞いたかったんじゃないだろうか。
これからの生活においても、もしひとりっ子の彼が『姉』を求めてくるようなら、出来る限りのことをしてあげたいと思う。
なんて……ハタチも過ぎて、今更お姉ちゃんもないか。
様々な思い出を脳裏によみがえらせつつ、インターホンを押そうとしたのだけど、ふとその手を引っ込めた。そしてカバンから携帯用の鏡を取りだし、身だしなみをチェックする。久々の再会なんだから、きちんとしておかないと。
髪型にうるさくない職場ということなので、ミディアムヘアを派手すぎない茶色にし、緩くパーマをかけた。それを邪魔にならないよう、サイドで一つに束ねている。きっちり入れたアイラインもマスカラも、アプリコットカラーのチークもはげていなかった。うん、OK。
鏡をしまい、改めてインターホンに向かうと、人差し指でボタンを押した。
電子音が二回響いたあと、ブツッという通話開始の音とともに、
「……はい?」
という、男性の声が聞こえる。
予想していたより低めの、ちょっとセクシーな声。
「どちら様ですか?」
「……あ、あの、従姉の、藤堂有紗です」
「ちょっと待ってて」
通話を終え、私は大きく息を吐いた。
もう随分長いこと会っていないのだから声なんか変わっていて当たり前だ。けれども、聞こえてきたのは耳を奪われるような甘い低音の声。それが昔のレイくんの中性的なイメージとはあまりにも違っていて、びっくりしてしまったのだ。
――しかし驚くのはまだ早かった。
直後に現れる彼自身に、私の抱いていたレイくんのイメージを大きく崩されることを。そして更には、この素敵な家に隠されているある事情を。
――このときの私は、まだ知る由もないのだった。
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