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1巻
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しおりを挟むプロローグ
『清花も大きくなったら、お父さんみたいな素敵な旦那さまを見つけるのよ』
あれはまだ母が病気と闘っていたころ。毎日、病室を訪ねてはベッドに貼りつくように過ごしていたわたしに、そうやって話してくれたことがあった。
『おとうさんみたいな?』
『そうよ。お父さんみたいに、優しくて、誠実で、頼りがいのある素敵な旦那さまをね。清花もお父さんのこと好きでしょう』
『うん、だーいすき!』
厳しいときや怖いときもあったけれど、それでも仕事で忙しい合間を縫い、わたしや母と接する時間を作ってくれる父が好きだった。
母もそんな父を深く信頼し、尊敬しているのが伝わってくる。お父さんとお母さん。二人はとても仲が良く、わたしにとって自慢の両親。
横たわった母の顔色はあまり良くなかったけれど、こちらを見つめる瞳は生気に溢れ、きらきらと光っていた。その瞳をほんの少し細めて母が言う。
『お母さんね、結婚っていうのは、生涯――生きている間ってことよ、その生涯でただ一人、この人だけを愛していきますっていう誓いだと思うの』
『ちかい?』
『そう。清花が生まれる前、お母さんは「お父さんだけを愛します」って誓ったの。その気持ちは今でも変わらないわ』
『おとうさんだけ? おかあさん、すずかのことはあいしてくれないの?』
言わんとするところを十分に理解できなくて、ちぐはぐな受け答えをしてしまったわたし。母は噴き出しながら、そんな娘の頭を撫でた。
『ふふ、何言ってるのよ。愛しているに決まってるでしょ、大切な一人娘なんだから。……うーん、清花にはまだ難しい話だったかしらね。とにかく、あなたが本当に愛しいと思う相手と結ばれてほしいってこと。それがあなたの幸せだと思うから』
ひとりごとみたいに言ったあと、髪を滑っていた指先が止まる。
『お母さんはきっと、清花が大きくなるまで傍にいてあげられないと思うの。お母さんの分までお父さんのこと、大事にしてあげてね。約束よ』
『うん』
母はそう言って、その手を指きりの形に変える。青い血管が透けて見える白くて細い小指に、自分の短いそれを絡めた。やくそく。
『……でも、どうして? 「おかあさんはもうすぐよくなる」って、おとうさん、いってたよ。そしたらおうちにもかえってこれるし、いっしょにおでかけもしてくれるって』
『そう……そうね』
母は結んだ指を解いて頷くと、複雑な表情で笑ってみせた。そのあと。
『ごめんね、清花』
ぽつり。そう寂しげに呟いた。
今から思えば、幼いわたしに真実を悟らせまいと気遣ってくれたんだろう。
数ヶ月後、母は予言通りにこの世を去った。葬儀のあと、父は大泣きするわたしをしっかりと抱きしめてくれながらこう言った。
『清花。これからはお父さんと二人で頑張っていこうな』
それまで気丈に振る舞っていた父の身体が、小刻みに震えている。いつも落ち着き払っている父が初めて見せた弱み。母の言葉が思い出される。
『結婚っていうのは、生涯――生きている間ってことよ、その生涯でただ一人、この人だけを愛していきますっていう誓いだと思うの』
……あぁ、そっか。
わたしにとっても大切なお母さんだったけど、お父さんにとっては生涯ただ一人、この人だけを愛すると誓ったパートナー。お父さんは今、その最愛の人を亡くしてしまったんだ。
だからお父さんの胸に顔を埋めながら決めた。
わたし、もっといい子になる。それで、亡くなったお母さんの分までお父さんを大事にしよう。
それがお母さんとわたしが交わした約束なんだから。
それからはや十数年。ハタチを過ぎて大人の仲間入りをしたわたしは、時折、母との会話を反芻する。
『清花も大きくなったら、お父さんみたいな素敵な旦那さまを見つけるのよ』
記憶に強く残っているのはあの病室でのお喋り。
二人の関係には今でも憧れている。
わたしも、母にとっての父のような――生涯を通して愛し続けたいと思える男性と結ばれたい。
なのにどうしてでしょう、お母さん?
お母さんの言う「素敵な旦那さま」は、一向に姿を現す気配を見せません。
それどころか、男の子とは全く縁がないままハタチになってしまいました。結婚を意識するどころか、誰かとお付き合いすらしたことがありません。
親友の明音には「ヤラハタとかちょーヤバくない?」と言われる始末です。
ちなみに「ヤラハタ」というのは「ヤらずにハタチ」、つまり処女のままハタチを迎えることだと教えてもらいました。
最近はこのままじゃいけない、これじゃ永遠に男の子と触れ合わずに歳を重ねていくのでは……と、危機感を持つようになりました。
ただ出会いを待つだけでは、「素敵な旦那さま」はやってこないということなのでしょう。
だから、これからは待っているだけではなく、わたし自身が「この人となら一生を誓える!」って相手を見つける努力をしていかなければ。
と、前向きに考え方を改めた矢先だった――父からとんでもない宣告を受けたのは。
大学のテスト勉強もそっちのけで、悩んで、悩んで、悩んで。
ようやく一つの結論を導き出した。
大好きなお父さん。そして天国のお母さん。親不孝をお許し下さい。
わたし、篠宮清花は、生まれて初めて――家出をさせて頂きます!
1
「わたし、家出しようと思ってる」
決意のこもった一言を放つと、それまで長テーブルの向かい側に座り緩慢な仕草でスプーンを口元に運んでいた大河内明音が、ピタッとその手を止めた。
「……は?」
楕円を描くスプーンの上でミニチュアなカレーライスを作ったような一口を、今まさに迎え入れようとしたまま。歯科検診のときみたいな口の形で。
「だから、わたし、家出する」
「イヤイヤイヤ、え、ちょっと待って」
いつも気だるそうにしている彼女が、珍しく慌てている。早口でそう言うのと同時、周囲を気にするみたいにきょろきょろと目を動かした。
前期の試験日程が終了したお昼休み、学生食堂の賑わいはピークを迎えているところだ。あちらこちらから聞こえてくるお喋りや笑い声にわたしの発言が上手くカバーされたと知り安堵したのだろう明音は、
「――清花、あんた急に何言いだしたの?」
今度は密談を交わすみたいな声で問いかけたあと、まだ三分の一も食べていないカレーの皿にスプーンを置いて身を乗り出してくる。
「テスト勉強のしすぎで熱出たとか? 知恵熱って言うんだっけ?」
触らせて、なんて言いながら、華やかなマーブル柄のネイルを施した指先を、額に伸ばしてくる。
「違うよぉー。しかもそれ、子供が出すやつでしょっ」
明音にからかわれるのは毎度のことだけど、その手をやんわり払いのけ、頬を膨らませて否定しておく。
「……それに、急にでもないよ。明音には前から相談してたじゃない」
「相談って……あ、例の?」
明音がテーブルの下に手を引っ込めて訊ねる。
「うん。ずっと、ずーっと考えてたけど、いくらお父さんの言いつけでも、やっぱりそれだけは素直に従えない」
キッパリハッキリした口調で断言してから、手元のお盆の中を覗き込む。
オーダーしたのはAランチ。五穀ごはんに煮込みハンバーグと付け合わせの温野菜。そして存在がわからないくらいに細かくカットされたベーコンとオニオンの入ったコンソメスープ。
何の気なしにスープが入った白いマグに目をやった。そういえばあの日も傍らには白いカップがあった――もっともプラスチックでもなければ、傷や汚れが出来るほど使い込まれてもいないけれど。
冷房の効いた食堂ですっかりぬるくなっただろうスープ。そこに映る強張った自分の顔の向こうに、一ヶ月前の記憶を映し出した。
* * *
父である篠宮詠一からそれを初めて告げられたとき、正面のテレビから流れる歌番組を観ていた意識が、全部そちらに持っていかれた。驚きのあまり手にしていたティーカップをソーサーの上に落としそうになる。
お気に入りのジノリのカップは持ち手が華奢で、ほんの少しの衝撃にも耐えられないだろう。慌てて持ち直したところで、顔を上げた。
「――ごめん、お父さん。もう一回言って?」
リビングにある、二人暮らしには不釣り合いな四人がけの直角形のソファ。その角を挟んで隣に座る父に、恐る恐る問いかける。
もちろん、聞こえてないわけじゃなかった。その逆。聞き間違いであってほしいと思ったからこそ確かめたかったのだ。今のは、幻聴だったと。
ところが――
「清花には、大学卒業と同時に結婚して、家庭に入ってもらうことになる……と、そう言ったんだよ」
父は顔色ひとつ変えず、わたしのとお揃いのカップに注がれた紅茶を優雅に啜る。ミルクを入れるのが好みのわたしに合わせて、中身はアッサム。父はそれをストレートで飲むのが習慣。
そして、淡々とした口調で同じことを繰り返すだけだった。
……え? え? え!?
何? お父さんったら、何言ってるの?
輸入代行会社を経営している父は忙しく、ここ最近は特に会話を交わす機会がなかった。その父にわざわざ時間を作ってもらったのは、大学三年の夏を迎えてもなかなか希望の進路を見出せず、人生の先輩として相談に乗ってほしいと思ったから。
相談といっても具体的な質問を用意しているなんてことはなくて、例えば、
今からでも何か資格を取っておくべき? とか。
やっぱり就職するとしたら一般職かな? とか。
はたまた、一年か二年くらい留学っていうのも面白いかなあ? とか。
自分でもずいぶん暢気に構えているなと思うけど、卒業まではあと一年半もあるという余裕がそうさせたんだと思う。だから父にも、明確な回答は求めていなかった。わたしの進路に対して、父がどんな意見を持っているのかを軽く訊いてみたかった。ただそれだけ。
なのに……大学卒業と同時に、け、け、結婚!?
「何それっ、わたし、そんなこと全然聞いてないよっ?」
言いながら、カチャンと音を立ててカップをソーサーに戻す。それまで熱心に見ていたテレビの内容なんてもうどうでもよくなっていた。
「もしかしたら、清花に直接話したことはなかったかもしれないね」
父は髭を蓄えた口元に、穏やかな笑みさえ浮かべて頷いた。
話を要約するとこう。父が幼なじみの友人と、かつて『お互い家庭を持ち、子供ができ、その子供が異性同士だったら結婚させよう』という約束を交わした――という、若者同士にはありがちな微笑ましい夢語り。
そんな父も還暦まであと四年。普通なら時効になってもおかしくないんだけど、律儀なのかよほど強い意志が存在したのか、二人の気持ちは変わらなかった。何十年の時を経て、今その夢が現実になろうとしてるってわけ。
「それってつまり……許嫁ってこと?」
喉の奥から絞り出すような声で訊ねる。
いいなずけ。日常生活で発音するなんて思ってもみなかった言葉。
「そういうことになるかな」
許嫁――イコール婚約者。
まさかわたしの知らないところで、わたし自身の婚約の話が進んでいたなんて!
そんなのあり!?
「で……でも、その人とお会いしたこともないのに、いきなり結婚だなんて」
「心配しないでいい。何しろ、私が最も信頼を寄せている男の息子だ、きっとお前も気に入るよ」
自信満々の口ぶりだった。
き、気に入るって言われても、まだどんな人かもわかってないっていうのに。
だいたい、相手の善し悪しを判断するのはわたしのはずじゃあ?
「どうした清花、そんな顔をして。もしかしてとは思うが、もう将来を約束した相手でもいるのか?」
呆気にとられていると、父が心配そうに訊ねてくる。
「それは……いっ、いないけど」
ぐっ。哀しいけど即答するしかない。
わたしには特にこれといって打ちこむ趣味もないため、週末は家でゴロゴロしている姿をバッチリ見られている。嘘をついたってボロが出るだけだろう。
父は予想通りとばかりに満足げな笑顔を見せた。
「なら、ちょうどいいじゃないか」
「そ、そりゃ恋人なんていないけどっ、それとこれとは別問題っていうか……あ、そう、相手の人っ! その相手の人だって、きっと困ってるんじゃないかな!」
このままじゃ父のいいように話を進められてしまう。鈍い頭をフル回転させて、考え直してもらえそうな要素を突いてみた。
「困る?」
「うん。その相手の人も、いきなり親同士の昔話を持ちだされて、困ってるかもしれないよ? それこそもう決まった人がいるかもしれないし」
相手の彼もわたしみたいに、何の心の準備もなく告げられた可能性がある。
昔ならいざ知らず、自由恋愛が基本となっている現代で、突然許嫁の存在を匂わされても受け入れられないに違いない!
と思いきや――
「そんなことなら心配いらないぞ」
「え」
「相手方も縁談に前向きだって話だからな」
「ええっ?」
くらり。眩暈がする。
それじゃ、何事もなければ……この時代錯誤な家同士の婚約が、成立してしまうっていうの?
「件の友人は与党の政治家なんだ。家柄もしっかりしているし、嫁に行くにはこれ以上ないくらい安心できる家系だ」
「…………」
「息子は友人の次男坊で親の跡は継がないようだが、優秀なプログラマーらしい。こう、華やかな職種ではないかもしれないが、真面目で礼儀正しい男で、なかなか見所があると思っているんだよ」
「…………」
「彼は清花とはちょっと歳が離れているかもしれないが、夫婦はある程度の歳の差があったほうが上手くいくっていう話を聞くし――」
「……イヤ」
まだ見ぬ婚約者について意気揚々と語り出す父を遮って、わたしは静かに訴えた。
「そんな、わたし、婚約なんて無理だよ……」
「清花」
「いきなり婚約って言われても、そんな、全然イメージ湧かない。まだ学生だし、今まで考えたことだって、ないし」
頭がこんがらがって、何から伝えるべきなのかがわからない。
動揺を隠せないまま呟くわたしの頭に、父の温かな手がそっと触れる。
「戸惑う気持ちはわからなくないが、これも清花のためなんだよ」
「……わたしのため?」
「そうだ」
父は深く息を吐いてから、わたしの瞳を覗き込む。
「私はね、清花。お前が心配なんだよ。大事な一人娘だし、たった二人きりの家族だろう。そんなお前をどこの馬の骨ともわからない男に渡すわけにはいかない。第一」
こちらに向けていた視線を遠くへやりながら、父が綻んでいた表情を引き締めた。
「――お前をきちんとした形で幸せにしてやらないことには、死んだ清美に申し訳が立たないからな」
清美というのは、わたしの母の名前。
母はわたしが小学一年生のとき、病気で亡くなった。まだ三十代半ばだったそうだ。
母が亡くなる前、病室で様々なことを話した。主にわたしの学校生活や友達のことなどが話題だったけれど、母の思い出話を聞く機会も多かった。
例えば父と母の馴れ初め。それは、母の父――わたしにとってはお祖父ちゃん、だけど――が、部下だった父を自宅に連れてきたことだった。母は父に出会った瞬間、何か引き寄せられるものがあったのだという。
父は、今でこそ年齢を重ねたせいで、千円札に刷られてる髭のおじさん――ああ、誰だったっけ、あの人――って感じだけど、昔はスラリとした細身でくりっとした眼差しが印象的なイケメンだったそうだ。
出会いから程なくして二人は結婚し、わたしが生まれた。
『お母さんね、結婚っていうのは、生涯――生きている間ってことね、その生涯でただ一人、この人だけを愛していきますっていう誓いだと思うの』
記憶の中の母はまだまだわたしより年上だけど、それでも少女のようにピュアで可愛らしい人だったのを覚えている。あのときの言葉通り、母は自らの生涯で父だけを愛し抜いた。
『清花も大きくなったら、お父さんみたいな素敵な旦那さまを見つけるのよ。お父さんみたいに、優しくて、誠実で、頼りがいのある素敵な旦那さまをね』
お父さんみたいに素敵な旦那さまを見つける――母の願いは、いつしかわたしの願いとなった。
仕事と育児を両立しながら、男手一つでわたしを育ててくれたお父さん。そんなお父さんが自慢であり、憧れでもあるから、いつかわたしにも二人のような素敵な出会いが訪れれば素晴らしいことだなと。
でも。でもでも。人生、そんな風に都合よくはいかないんだってば!
素敵な出会いどころか、この二十年間と数ヶ月生きてきてただの一度も男の人と付き合ったことなんてないんだから。
「ファザコンの清花は、理想が高すぎるからじゃない?」なんて言われたりする。
正直、それもちょっとはあるかもしれない。「お父さんを超えるような人じゃないと」って意識してる部分は確実にある。
だけど一番の原因はもっと根本にあって、それが何なのかも気付いていたりする。
「……だから安心しなさい、清花」
「お父さん……」
「今まで私の言う通りにしてきて、何も悪いことはなかっただろう?」
「…………」
「今回だってそうだ。清花のことは、私がちゃんと幸せにしてやるから」
――それは、父が、わたしに恋愛をする隙を与えてくれないこと。
父一人、子一人。今まで過剰なほど、父親という存在に守られて育ってきた。
守るといえば聞こえはいいけれど、わたしのためといっては、普通の子の場合では考えられない制約をたくさんかけられてきたのだ。
正直、窮屈だなと思うことも多かったし、破りたいと思うことも多かった。
そういうときには、母の言葉を思い出した。
『……お母さんはきっと、清花が大きくなるまで傍にいてあげられないと思うの。お母さんの分までお父さんのこと、大事にしてあげてね』
母の分まで父を大事にしなければ――その使命感で、父に逆らったことはなかったし、父からの提案には全てYESを貫いてきた。それが『お父さんを大事にする』ってことだと信じてたから。
だけど……
『とにかく、あなたが本当に愛しいと思う相手と結ばれてほしいってこと。それがあなたの幸せだと思うから』
母が遺した別の言葉を思い返しながら、納得のいかない気持ちでいっぱいになる。
「それが、お父さんの考える、わたしの幸せ?」
「清花?」
「わたし、お母さんが死んでから、お父さんの言いつけには絶対逆らわないようにしてきた。そうすることが正しいって疑わなかったから」
「…………」
「でも、これだけは――婚約の話だけは、素直に『そうします』って言えないよ」
今までなんとか耐えられたのは、大人になれば自由になれる、自分の好きなように出来るはずっていう希望があったからだ。
でもそうじゃなかった。結婚という、人生の中で一番重要だといっていいイベントすら、父の意思によって決められようとしている。
そんなのやだ。無理。ありえない。
自分の結婚相手くらい自分で決めたいっていうのはいけないことなの?
大学生になったしハタチも過ぎたんだから、わたしももう立派な大人。
それなら、そろそろ自分のことは自分で決めたって――わたしはわたし自身の判断に基づいて行動したっていいじゃない!
まさか反抗されると思っていなかったらしい父は、しばらく腕を組んだまま動かなかった。
……怒ったのだろうか?
視線の端で確認しただけなので、感情が読めない。不安になったわたしは、俯けていた顔をこわごわと父へ向けた。父は、真面目な顔をしている。
「……清花の気持ちは、わかった」
自らを納得させるかのように、父は何度か頷いてみせながら漸く言葉を吐きだした。
よかった。怒ってるわけじゃないみたいだ。
「まあ、大学を卒業してからの話だし、今すぐに心の整理をつけろと言っているんじゃない。そのうち、決断してくれたらいいんだから」
父はその場で明確な答えを出すのを避けた。まるで「踏ん切りをつけるのを待つよ」、とでも伝えるように。
あれれ、お父さん。……それって遠まわしに「卒業までは猶予期間だから、それまでには決心しろ」って言ってるようなものじゃないっ!
そうじゃないんだってば。精一杯、婚約だけは嫌だって伝えたつもりだったのに。
――どうしてわかってくれないの!?
* * *
「大変だよねー。おとーさん、清花のこと溺愛してるもんなー」
名古屋のアゲ嬢もびっくりするほどのゴージャスな巻き髪を指先で弄りながら、明音が言う。
「溺愛ってほどじゃないにしても、干渉はそれなりに、ね。まさか勝手に婚約の話を進めてるほどとは思ってなかったけど」
あはは……と力のない笑みを浮かべる。
わたしはいわゆる箱入り娘というやつなのだと思う。母を亡くし、自分一人で育てていかなければというプレッシャーを感じていたのか、父の教育方針にもそれは色濃く表れていた。
例えば学校選び。わたしがこの歳まで父以外の男の人との係わりを持たずに生きてこられたのは、初等部からここ――礼櫻女子学院大学の附属校に通っていたからだ。
東京の片田舎にある礼櫻は文字通り女の園。先輩も後輩も同級生も女、女、女。当たり前ながら、今この食堂を見回してみても百パーセント、女の子しかいない。
学校生活といえば、門限も厳しかった。初等部のころは寄り道や友達の家に遊びに行くのは禁止だったし、高等部に進んでも十七時という驚異的な早さで、部活動もままならなかった。
大学生になった今、少しはマシになったとはいえ十八時。当然、サークルやアルバイトは禁止。
そりゃあ、学生の本分は勉強ですけど、わたしだって少しは仲のいい友達と遊んだり、働いてお金を稼いだりしてみたいのに。
「そーゆーのを溺愛っていうの。『ワシが認めた男じゃないと許さーん』ってやつでしょ。めっちゃ大事にされてるよね、うらやましーい」
「……全然、感情こもってないんですけど」
メロディを奏でるみたいな彼女の言い方がしらじらしい。
「あはは、当たり前。あたしが同じ立場だったらムリだもん。絶対に耐えられない。附属から礼櫻のコってお嬢様が多いけど、とりわけ清花の家は厳しいよねー」
他人事みたいにひらひらと手を振って笑っているけど、そう言う自分だって同じ附属校出身のお嬢様なのに。
明音とは礼櫻の初等部から一緒という長い付き合いだ。
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