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顔合わせ
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「初めまして。エウリュディケ・グレーヴスです。どうかエウリとお呼びください。これからよろしくお願いいたします」
ミュケーナイ侯爵家の中庭。
テーブルの上には軽食とお菓子と飲み物。
かいがいしく立ち働く使用人達と執事。
エウリとミュケーナイ侯爵一家との顔合わせである。
好奇心に満ちた顔でエウリを見つめる女性二人、オルフェの母と娘とは仲良くなれると思う。
実はエウリはオルフェの母、カリオペイアの妹の一人、クレイオには大変お世話になっている。クレイオに似た二人に彼女は最初から好感を抱いていたのだ。
カリオペイアは今年五十二だが可愛らしい印象の貴婦人だ。
白髪交じりの金茶の髪。大きな青灰色の瞳。小柄で華奢な肢体。
オルフェの娘、今年十六になるデイアネイラ、「デイアとお呼びください」と自己紹介の時に言った彼女は、祖母であるカリオペイアによく似た可愛らしい少女だ。
大きな青灰色の瞳、小柄で華奢な肢体。髪色だけは父や兄と同じ見事な真紅で真っ直ぐで艶やかで腰まである。
無表情で決してエウリと目を合わせようとしないハーキュリーズはまだいい。
問題なのは険しい顔でエウリを睨みつけている女性、オルフェの正妻カシオペアだろう。
「わたくしは絶対に認めないわ!」
金髪に青氷色の瞳。それらはアルゴリス帝国の皇族の特徴だ。
子供を二人産んだとは思えないすらりとした肢体。さらには肌や髪の状態も完璧だ。さぞや美容に手間と金をかけているのだろう。
だが、残念な事に険しい顔つきや知性のなさが三十代半ばでの今でもせっかく保てている美しさを台無しにしている。
エウリには娼婦の友人が数人いる。「女」を売る彼女達と親しいから知っている。
どんな美女も若い時ならば何もしなくても素質だけで、その美しさを保てるが三十過ぎると美容の結果や知性、人間性が容赦なく顔に表れてしまうのだ。
「陛下の許可は頂いている。お前が認めなくても問題ない」
オルフェはうんざりした顔で言った。
「嘘よ! お兄様が認めるはずがないわ!」
「だったら、陛下に直接伺ってみろ」
投げやりに言った夫の言葉など聞いていない様子でカシオぺアはエウリにきつい視線を投げた。
「お前、今すぐここから出て行きなさい! たかが男爵の娘、しかも元は平民で離婚歴があるですって!? そんな下賤な女がミュケーナイ侯爵の第二夫人だなんて身の程を弁えなさい!」
(……下賤な女、ね。一応、あなたとは血の繋がりがあるのだけど……)
いや、そんな事はどうでもいい。
エウリだけなら何を言われても構わない。
けれど、この女は言ってはならない事を言った。
「たかが男爵の娘」
それは、エウリばかりか彼女を本当の娘のように慈しんでくれる養父をも侮辱している。
(……さて、この手の女が言われて最も堪える言葉は何かしら?)
エウリが考え込んでいると意外な援護者が現れた。
「お母様、この方は、お父様が第二夫人にと望んだ方ですよ。この方への侮辱は、お父様をも侮辱していると、なぜお気づきにならないのですか?」
デイアネイラの姿に似合う可愛らしい声と柔らかな口調に気づかない者もいるだろうが母親に対するものとしては、なかなかきつい言葉だ。
容姿ばかりか、こういう所も彼女の大叔母であるクレイオに似ている。
「母親に対して、そんな口を利くだなんて! ただでさえ、わたくしにも旦那様にも似ず愚鈍で容姿もいまいちで、いるだけで苛々させられるというのに! 本当に嫌な子ね!」
母親が娘に向ける言葉としては、あまりにもひどいものだがデイアネイラに傷ついた様子はない。むしろ、またかという醒めた顔だ。何度も何度もこの手の科白は言われて慣れているのだろう。
「奥方はオルフェ様のおっしゃられた通り『高慢で気位の高い女』ですね」
母娘の言い合いにエウリは口を挟んだ。
デイアネイラがどんな気持ちでエウリを援護したかは知らないが、いつまでも彼女を矢面に立たせておく気はない。
正妻と第二夫人、同じ男を「夫」にしている以上、女同士の争いは避けられないし、何より養父を侮辱した女を他人を使って遣り込める気はない。やるならエウリ自身が徹底的にやるべきなのだ。
「何ですって!?」
烈火のごとく怒りだしたカシオペアとエウリ以外のこの場にいる人間の反応は皆同じだった。
執事と使用人達、侯爵一家、無表情で決してエウリと目を合わせようとしなかったハーキュリーズでさえ噴き出したのだ。
ミュケーナイ侯爵家の中庭に数人の笑い声が響き渡った。
「わたくしより若くて美しいからって、いい気にならないで! その若さも美しさも、どうせ束の間で、すぐに旦那様に捨てられるのよ!」
「ええ。その通りですわ。この顔だって数年もしたら皺だらけの老婆ですわね」
興奮するカシオペアとは対照的にエウリは冷静に応じた。
「だからこそ人間は外見ではなく内面を磨かなくては。最後に残るのは内面の美しさですもの。
けれど、自らを省みず正論で諭してくれる娘にさえ、あんなひどい言葉を投げるあなたには誇るものが何も残りませんわね。今でさえ知性のなさと気性の険しさがお顔に表れて、せっかくの美貌を劣化させているのですもの」
ようやく笑いがおさまったというのに、再びカシオぺとエウリを除くこの場にいる全員が噴き出した。その様子はエウリの言葉を「まさにその通り!」と同意しているようしているようだった。
「お前ごときが、このわたくしに向かってななんて口を!」
「最初に私をぼろくそに言ったのは、あなたでしょう? 人を悪く言ったのなら言われる覚悟もしておかなければ」
カシオペアは握っていた扇をびしっとエウリに向けた。
「お兄様に、皇帝陛下にお頼みして、お前を打ち首にしてやるわ! 覚悟しておきなさい!」
貴婦人らしからぬ乱暴な所作でカシオペアは足音も荒く、その場を去って行った。
「お母様に、あそこまで言った人、家族以外で初めて見たわ!」
何とか笑いはおさめたが未だに肩を震わせつつデイアネイラは言った。
「……駄目。私、お腹苦しい……」
カリオペイアはテーブルに突っ伏してお腹を押さえている。
「……本当に君はすごいな。ものすごく不機嫌だった私をこんなに笑わせてくれるなんてな」
「予想通り、やはり君は、あれに負けてないな」
ハーキュリーズに続きオルフェも褒めているのか分からない事を感心したように言った。
「あれの最後に言った事は気にしてなくていい。陛下は公明正大な方だ。妹の訴えだけを鵜呑みにして打ち首にする方ではないからな」
「そんな心配していませんわ」
安心させるように言うオルフェにエウリは微笑んだ。
妹の訴えだけでエウリを打ち首にするような皇帝なら、この帝国に未来はない。
とうの昔に臣下に見限られ、デモクラティア同盟国やフェニキア公国にあっという間に併呑されているだろう。
「デイア様とお呼びしてもよろしいですか?」
何とか落ち着いたらしいデイアネイラにエウリは声をかけた。
「デイアで構いませんわ」
デイアはそう言ってくれるが生さぬ仲であり近い将来皇太子妃になる彼女を呼び捨てにはできない。彼女は皇太子の婚約者なのだ。
初代皇后は初代ミュケーナイ侯爵の妹だった。それ以来、何代かに一度、ミュケーナイ侯爵令嬢は皇太子妃、そして皇后になっている。
「そのお言葉は嬉しいのですが、やはり、あなたを呼び捨てにはできません。どうかデイア様と呼ばせてください」
「では、わたくしはエウリ様でよろしいですか? さすがに、今年お兄様と同い年になる方を『お義母様』とはお呼びできませんもの」
確かに、エウリだとて、さして年齢の変わらない人間から「お義母様」などと呼ばれたくはない。
エウリ自身は敬称はいらないが一応はデイアの義母となる身だ。敬称抜きの愛称で呼んで周囲のデイアを見る眼が厳しくなってしまうだろう。それでは可哀想だ。
「ええ。構いませんわ」
エウリがデイアに声をかけたのは呼び方云々ではないので互いが納得したところで本題に入った。
「先程は庇っていただきありがとうございました。でも、そのせいで、ひどい事を言われてしまって申し訳ありませんでしたわ」
「あんなのしょっちゅうだから気にしてません」
言葉通り、どうでもいい様子のデイアにカリオペイアは痛ましげな視線を向けた。
「彼女はデイアを通して、この私に、あんな事を言っているのよ。一応姑である私に口答えすれすれば周囲がうるさいし言っても遣り込められるから、鬱憤晴らしに私に似たデイアに言っているのだわ。ハークとデイアを産んでくれた女性に言いたくないけど本当に愚鈍で嫌なのは彼女のほうだわ」
同じ血と容姿を持つと性格も似るものなのだろうか? カリオペイアといいデイアといい可憐でおっとりとした印象の女性だのに、クレイオ同様、飛び出る言葉は案外強いものだ。
「私も人の事は言えないけれど、彼女はあまりにもミュケーナイ侯爵夫人としてなってなかった。結婚当初厳しく言い過ぎたわ。傍目には嫁いびりをしているように見えたでしょう。元皇女である彼女には元子爵令嬢である私から、そうされるのはすごい屈辱だったでしょうね。それを恨むのは分かるのだけれど、デイアに当たるのは、どうかしている」
カリオペイアは子沢山で知られるトラーキア子爵家の長女である。弟が一人に妹が八人いる。彼女のすぐ下の妹がクレイオだ。
名門中の名門貴族であるミュケーナイ侯爵の正妻になどなれるはずがなかった。それが実現したのは、二年前に病死した先代のミュケーナイ侯爵、オルフェの父親がカリオペイアに一目惚れし熱烈に求婚、家格の違いに断り続ける彼女と彼女の家族に業を煮やし最後は半ば無理矢理結婚したかららしい(エウリの生まれる前の話なので正確なところは知らない)。
「お母様は、お祖母様に関係なく、わたくしが気に入らないのよ。わたくしもお母様は嫌いだし、どうでもいい。今はもう、お母様に何か言われても気にしないから、お祖母様も気になさらなくていいわ」
幼い頃は、やはり母親の言動に傷ついたのだろう。「今はもう」と言ったし。
当然だ。幼い子供にとって母親は特別だ。ひどい言葉を投げつけられれば傷つかないはずがない。精神的に自立しないかぎり母親の呪縛からは逃れられないだろう。幸いデイアはそうできたみたいだが。
(……本当に馬鹿で愚かな女……)
自分が失ったものの価値を、あの女は分かっていない。
実の娘から「嫌いだし、どうでもいい」と言われてしまうとは。
実母と死に別れたエウリは不仲な母娘を見ると「もったいない」と思ってしまうのだ。とはいっても赤の他人が首を突っ込むべきではないのも分かるので何も言う気はないが。
「エウリとお呼びしても、よろしいかしら?」
カリオペイアが、にこやかに声をかけてきた。
「はい。オルフェ様との結婚式はまだ先ですが、貴女をお義母様とお呼びしても構いませんか?」
「ええ。構わないわ」
頷いた後、カリオペイア、義母は真剣な顔になった。
「実は心配していたの。ハークやデイアの母親に対して言うのもなんだけど彼女とは政略結婚だったから第二夫人はオルフェの望む女性をと願っていたわ。でも、彼女は絶対にその女性を認めず、つらく当たるに決まっている。できるだけ私も助けるけど、できれば彼女に負けない強い女性ならいいと願っていたわ。エウリは、まさに私の理想通りだった。美しいだけでなく聡明で強い。エウリがオルフェの新しい妻になってくれて嬉しいわ」
「……私には過ぎたお言葉ですわ」
義母の望んだような愛し合って結ばれた夫婦ではないから手放しで喜ばれると胸が痛い。
だからといって結婚条件を撤回する気は毛頭ない。
これだけは絶対に譲れない。
「ようやく二人きりで話せる」
ハーキュリーズの言葉通り門前には彼とエウリしかいない。
顔合わせも終わり帰ろうとするエウリと彼女を見送ろうとする家族にハーキュリーズが「彼女と二人きりで話したい」と言ったためだ。
エウリは話の内容は予想がついていたし、何より男性と室内に二人きりという状況が嫌だったので「馬車の用意ができる間だけなら、お話を伺いましょう」と門前にきたのだ。
ハーキュリーズのエウリに向ける表情は険しいものだった。
そういう表情はカシオペアはせっかく保てている美しさを劣化させてしまうが、ハーキュリーズはよく研いだ刃物のようような研ぎ澄まされた美しさだ。元々の造作と内面による違いのせいだろう。
「別に避けていたわけではありません。個人的な事情で自宅に引きこもっていたんです」
エウリにとっては人生を懸けている仕事だが、公言できない仕事が忙しくて夜会やお茶会に出席できなかったのだ。仕事のネタ集めに最適なので、なるべくそういう集まりには顔を出すようにしている。
あの突然の求婚以前は話した事もなく元々身分が違いすぎてハーキュリーズと顔を合わせられる場は限られている。エウリが自宅に引きこもってしまうと会う機会などそうそうないだろう。
「単刀直入に言う。父上との結婚はやめろ」
ハーキュリーズの言い方は静かだが力強かった。
「……『やめてくれ』ではなく『やめろ』なんですね。まあ当然ですわね」
世の男性の大部分に恐怖と嫌悪を抱くエウリは普段なら命令口調に頭にくるが今回は、さすがにそんな気は起きなかった。
ハーキュリーズに高飛車な結婚条件を出した女だ。そんな女が父親と結婚するなど息子なら絶対に見過ごせないに決まっている。
「父上から話は聞いている。父上は君の結婚条件を呑んだ上で結婚に同意したそうだな」
「ええ。その通りですわ」
「父上と君が互いに納得した上での結婚であっても結婚は当事者だけの問題じゃない。あんな父上と君の結婚を喜ぶお祖母様を見ていると胸が痛む。君だって、そうだろう? お祖母様を見ている眼は申し訳なさそうだった。だったら、結婚はやめたほうがいい]
「……心から祝福してくださるお義母様には本当に申し訳なく思います。でも、でき得る限り嫁として、お義母様に尽くします。それで、許していただけないでしょうか?」
「……結婚をやめる気はないんだな?」
「オルフェ様ほど私の理想にぴったりな方はいませんから」
外見はいうまでもなく内面も好感を抱きつつある。しかも、到底受け入れられないだろうエウリの結婚条件さえ受け入れてくれた。
望みもしないのに再婚話がひっきりなしにくるエウリには、それを遮るためにもオルフェという理想的な結婚相手が必要だった。
「父上は君の外見だけが好きだと言った。君の内面なんて見ていない。それでもいいのか?」
「私だってオルフェ様の外見しか見ていませんからお互い様ですわ」
「私は違う! 私は君の美しさで求婚したんじゃない!」
どこか必死なハーキュリーズにエウリは醒めた眼差しを向けた。
「面と向かってお話したのは一週間前でしょう? それだけで私の何が分かるというんです?」
「それは……」
エウリにとっては丁度よく門前に馬車が現れたのでハーキュリーズの話を聞かずに、さっさと馬車に乗り込んだ。
ミュケーナイ侯爵家の中庭。
テーブルの上には軽食とお菓子と飲み物。
かいがいしく立ち働く使用人達と執事。
エウリとミュケーナイ侯爵一家との顔合わせである。
好奇心に満ちた顔でエウリを見つめる女性二人、オルフェの母と娘とは仲良くなれると思う。
実はエウリはオルフェの母、カリオペイアの妹の一人、クレイオには大変お世話になっている。クレイオに似た二人に彼女は最初から好感を抱いていたのだ。
カリオペイアは今年五十二だが可愛らしい印象の貴婦人だ。
白髪交じりの金茶の髪。大きな青灰色の瞳。小柄で華奢な肢体。
オルフェの娘、今年十六になるデイアネイラ、「デイアとお呼びください」と自己紹介の時に言った彼女は、祖母であるカリオペイアによく似た可愛らしい少女だ。
大きな青灰色の瞳、小柄で華奢な肢体。髪色だけは父や兄と同じ見事な真紅で真っ直ぐで艶やかで腰まである。
無表情で決してエウリと目を合わせようとしないハーキュリーズはまだいい。
問題なのは険しい顔でエウリを睨みつけている女性、オルフェの正妻カシオペアだろう。
「わたくしは絶対に認めないわ!」
金髪に青氷色の瞳。それらはアルゴリス帝国の皇族の特徴だ。
子供を二人産んだとは思えないすらりとした肢体。さらには肌や髪の状態も完璧だ。さぞや美容に手間と金をかけているのだろう。
だが、残念な事に険しい顔つきや知性のなさが三十代半ばでの今でもせっかく保てている美しさを台無しにしている。
エウリには娼婦の友人が数人いる。「女」を売る彼女達と親しいから知っている。
どんな美女も若い時ならば何もしなくても素質だけで、その美しさを保てるが三十過ぎると美容の結果や知性、人間性が容赦なく顔に表れてしまうのだ。
「陛下の許可は頂いている。お前が認めなくても問題ない」
オルフェはうんざりした顔で言った。
「嘘よ! お兄様が認めるはずがないわ!」
「だったら、陛下に直接伺ってみろ」
投げやりに言った夫の言葉など聞いていない様子でカシオぺアはエウリにきつい視線を投げた。
「お前、今すぐここから出て行きなさい! たかが男爵の娘、しかも元は平民で離婚歴があるですって!? そんな下賤な女がミュケーナイ侯爵の第二夫人だなんて身の程を弁えなさい!」
(……下賤な女、ね。一応、あなたとは血の繋がりがあるのだけど……)
いや、そんな事はどうでもいい。
エウリだけなら何を言われても構わない。
けれど、この女は言ってはならない事を言った。
「たかが男爵の娘」
それは、エウリばかりか彼女を本当の娘のように慈しんでくれる養父をも侮辱している。
(……さて、この手の女が言われて最も堪える言葉は何かしら?)
エウリが考え込んでいると意外な援護者が現れた。
「お母様、この方は、お父様が第二夫人にと望んだ方ですよ。この方への侮辱は、お父様をも侮辱していると、なぜお気づきにならないのですか?」
デイアネイラの姿に似合う可愛らしい声と柔らかな口調に気づかない者もいるだろうが母親に対するものとしては、なかなかきつい言葉だ。
容姿ばかりか、こういう所も彼女の大叔母であるクレイオに似ている。
「母親に対して、そんな口を利くだなんて! ただでさえ、わたくしにも旦那様にも似ず愚鈍で容姿もいまいちで、いるだけで苛々させられるというのに! 本当に嫌な子ね!」
母親が娘に向ける言葉としては、あまりにもひどいものだがデイアネイラに傷ついた様子はない。むしろ、またかという醒めた顔だ。何度も何度もこの手の科白は言われて慣れているのだろう。
「奥方はオルフェ様のおっしゃられた通り『高慢で気位の高い女』ですね」
母娘の言い合いにエウリは口を挟んだ。
デイアネイラがどんな気持ちでエウリを援護したかは知らないが、いつまでも彼女を矢面に立たせておく気はない。
正妻と第二夫人、同じ男を「夫」にしている以上、女同士の争いは避けられないし、何より養父を侮辱した女を他人を使って遣り込める気はない。やるならエウリ自身が徹底的にやるべきなのだ。
「何ですって!?」
烈火のごとく怒りだしたカシオペアとエウリ以外のこの場にいる人間の反応は皆同じだった。
執事と使用人達、侯爵一家、無表情で決してエウリと目を合わせようとしなかったハーキュリーズでさえ噴き出したのだ。
ミュケーナイ侯爵家の中庭に数人の笑い声が響き渡った。
「わたくしより若くて美しいからって、いい気にならないで! その若さも美しさも、どうせ束の間で、すぐに旦那様に捨てられるのよ!」
「ええ。その通りですわ。この顔だって数年もしたら皺だらけの老婆ですわね」
興奮するカシオペアとは対照的にエウリは冷静に応じた。
「だからこそ人間は外見ではなく内面を磨かなくては。最後に残るのは内面の美しさですもの。
けれど、自らを省みず正論で諭してくれる娘にさえ、あんなひどい言葉を投げるあなたには誇るものが何も残りませんわね。今でさえ知性のなさと気性の険しさがお顔に表れて、せっかくの美貌を劣化させているのですもの」
ようやく笑いがおさまったというのに、再びカシオぺとエウリを除くこの場にいる全員が噴き出した。その様子はエウリの言葉を「まさにその通り!」と同意しているようしているようだった。
「お前ごときが、このわたくしに向かってななんて口を!」
「最初に私をぼろくそに言ったのは、あなたでしょう? 人を悪く言ったのなら言われる覚悟もしておかなければ」
カシオペアは握っていた扇をびしっとエウリに向けた。
「お兄様に、皇帝陛下にお頼みして、お前を打ち首にしてやるわ! 覚悟しておきなさい!」
貴婦人らしからぬ乱暴な所作でカシオペアは足音も荒く、その場を去って行った。
「お母様に、あそこまで言った人、家族以外で初めて見たわ!」
何とか笑いはおさめたが未だに肩を震わせつつデイアネイラは言った。
「……駄目。私、お腹苦しい……」
カリオペイアはテーブルに突っ伏してお腹を押さえている。
「……本当に君はすごいな。ものすごく不機嫌だった私をこんなに笑わせてくれるなんてな」
「予想通り、やはり君は、あれに負けてないな」
ハーキュリーズに続きオルフェも褒めているのか分からない事を感心したように言った。
「あれの最後に言った事は気にしてなくていい。陛下は公明正大な方だ。妹の訴えだけを鵜呑みにして打ち首にする方ではないからな」
「そんな心配していませんわ」
安心させるように言うオルフェにエウリは微笑んだ。
妹の訴えだけでエウリを打ち首にするような皇帝なら、この帝国に未来はない。
とうの昔に臣下に見限られ、デモクラティア同盟国やフェニキア公国にあっという間に併呑されているだろう。
「デイア様とお呼びしてもよろしいですか?」
何とか落ち着いたらしいデイアネイラにエウリは声をかけた。
「デイアで構いませんわ」
デイアはそう言ってくれるが生さぬ仲であり近い将来皇太子妃になる彼女を呼び捨てにはできない。彼女は皇太子の婚約者なのだ。
初代皇后は初代ミュケーナイ侯爵の妹だった。それ以来、何代かに一度、ミュケーナイ侯爵令嬢は皇太子妃、そして皇后になっている。
「そのお言葉は嬉しいのですが、やはり、あなたを呼び捨てにはできません。どうかデイア様と呼ばせてください」
「では、わたくしはエウリ様でよろしいですか? さすがに、今年お兄様と同い年になる方を『お義母様』とはお呼びできませんもの」
確かに、エウリだとて、さして年齢の変わらない人間から「お義母様」などと呼ばれたくはない。
エウリ自身は敬称はいらないが一応はデイアの義母となる身だ。敬称抜きの愛称で呼んで周囲のデイアを見る眼が厳しくなってしまうだろう。それでは可哀想だ。
「ええ。構いませんわ」
エウリがデイアに声をかけたのは呼び方云々ではないので互いが納得したところで本題に入った。
「先程は庇っていただきありがとうございました。でも、そのせいで、ひどい事を言われてしまって申し訳ありませんでしたわ」
「あんなのしょっちゅうだから気にしてません」
言葉通り、どうでもいい様子のデイアにカリオペイアは痛ましげな視線を向けた。
「彼女はデイアを通して、この私に、あんな事を言っているのよ。一応姑である私に口答えすれすれば周囲がうるさいし言っても遣り込められるから、鬱憤晴らしに私に似たデイアに言っているのだわ。ハークとデイアを産んでくれた女性に言いたくないけど本当に愚鈍で嫌なのは彼女のほうだわ」
同じ血と容姿を持つと性格も似るものなのだろうか? カリオペイアといいデイアといい可憐でおっとりとした印象の女性だのに、クレイオ同様、飛び出る言葉は案外強いものだ。
「私も人の事は言えないけれど、彼女はあまりにもミュケーナイ侯爵夫人としてなってなかった。結婚当初厳しく言い過ぎたわ。傍目には嫁いびりをしているように見えたでしょう。元皇女である彼女には元子爵令嬢である私から、そうされるのはすごい屈辱だったでしょうね。それを恨むのは分かるのだけれど、デイアに当たるのは、どうかしている」
カリオペイアは子沢山で知られるトラーキア子爵家の長女である。弟が一人に妹が八人いる。彼女のすぐ下の妹がクレイオだ。
名門中の名門貴族であるミュケーナイ侯爵の正妻になどなれるはずがなかった。それが実現したのは、二年前に病死した先代のミュケーナイ侯爵、オルフェの父親がカリオペイアに一目惚れし熱烈に求婚、家格の違いに断り続ける彼女と彼女の家族に業を煮やし最後は半ば無理矢理結婚したかららしい(エウリの生まれる前の話なので正確なところは知らない)。
「お母様は、お祖母様に関係なく、わたくしが気に入らないのよ。わたくしもお母様は嫌いだし、どうでもいい。今はもう、お母様に何か言われても気にしないから、お祖母様も気になさらなくていいわ」
幼い頃は、やはり母親の言動に傷ついたのだろう。「今はもう」と言ったし。
当然だ。幼い子供にとって母親は特別だ。ひどい言葉を投げつけられれば傷つかないはずがない。精神的に自立しないかぎり母親の呪縛からは逃れられないだろう。幸いデイアはそうできたみたいだが。
(……本当に馬鹿で愚かな女……)
自分が失ったものの価値を、あの女は分かっていない。
実の娘から「嫌いだし、どうでもいい」と言われてしまうとは。
実母と死に別れたエウリは不仲な母娘を見ると「もったいない」と思ってしまうのだ。とはいっても赤の他人が首を突っ込むべきではないのも分かるので何も言う気はないが。
「エウリとお呼びしても、よろしいかしら?」
カリオペイアが、にこやかに声をかけてきた。
「はい。オルフェ様との結婚式はまだ先ですが、貴女をお義母様とお呼びしても構いませんか?」
「ええ。構わないわ」
頷いた後、カリオペイア、義母は真剣な顔になった。
「実は心配していたの。ハークやデイアの母親に対して言うのもなんだけど彼女とは政略結婚だったから第二夫人はオルフェの望む女性をと願っていたわ。でも、彼女は絶対にその女性を認めず、つらく当たるに決まっている。できるだけ私も助けるけど、できれば彼女に負けない強い女性ならいいと願っていたわ。エウリは、まさに私の理想通りだった。美しいだけでなく聡明で強い。エウリがオルフェの新しい妻になってくれて嬉しいわ」
「……私には過ぎたお言葉ですわ」
義母の望んだような愛し合って結ばれた夫婦ではないから手放しで喜ばれると胸が痛い。
だからといって結婚条件を撤回する気は毛頭ない。
これだけは絶対に譲れない。
「ようやく二人きりで話せる」
ハーキュリーズの言葉通り門前には彼とエウリしかいない。
顔合わせも終わり帰ろうとするエウリと彼女を見送ろうとする家族にハーキュリーズが「彼女と二人きりで話したい」と言ったためだ。
エウリは話の内容は予想がついていたし、何より男性と室内に二人きりという状況が嫌だったので「馬車の用意ができる間だけなら、お話を伺いましょう」と門前にきたのだ。
ハーキュリーズのエウリに向ける表情は険しいものだった。
そういう表情はカシオペアはせっかく保てている美しさを劣化させてしまうが、ハーキュリーズはよく研いだ刃物のようような研ぎ澄まされた美しさだ。元々の造作と内面による違いのせいだろう。
「別に避けていたわけではありません。個人的な事情で自宅に引きこもっていたんです」
エウリにとっては人生を懸けている仕事だが、公言できない仕事が忙しくて夜会やお茶会に出席できなかったのだ。仕事のネタ集めに最適なので、なるべくそういう集まりには顔を出すようにしている。
あの突然の求婚以前は話した事もなく元々身分が違いすぎてハーキュリーズと顔を合わせられる場は限られている。エウリが自宅に引きこもってしまうと会う機会などそうそうないだろう。
「単刀直入に言う。父上との結婚はやめろ」
ハーキュリーズの言い方は静かだが力強かった。
「……『やめてくれ』ではなく『やめろ』なんですね。まあ当然ですわね」
世の男性の大部分に恐怖と嫌悪を抱くエウリは普段なら命令口調に頭にくるが今回は、さすがにそんな気は起きなかった。
ハーキュリーズに高飛車な結婚条件を出した女だ。そんな女が父親と結婚するなど息子なら絶対に見過ごせないに決まっている。
「父上から話は聞いている。父上は君の結婚条件を呑んだ上で結婚に同意したそうだな」
「ええ。その通りですわ」
「父上と君が互いに納得した上での結婚であっても結婚は当事者だけの問題じゃない。あんな父上と君の結婚を喜ぶお祖母様を見ていると胸が痛む。君だって、そうだろう? お祖母様を見ている眼は申し訳なさそうだった。だったら、結婚はやめたほうがいい]
「……心から祝福してくださるお義母様には本当に申し訳なく思います。でも、でき得る限り嫁として、お義母様に尽くします。それで、許していただけないでしょうか?」
「……結婚をやめる気はないんだな?」
「オルフェ様ほど私の理想にぴったりな方はいませんから」
外見はいうまでもなく内面も好感を抱きつつある。しかも、到底受け入れられないだろうエウリの結婚条件さえ受け入れてくれた。
望みもしないのに再婚話がひっきりなしにくるエウリには、それを遮るためにもオルフェという理想的な結婚相手が必要だった。
「父上は君の外見だけが好きだと言った。君の内面なんて見ていない。それでもいいのか?」
「私だってオルフェ様の外見しか見ていませんからお互い様ですわ」
「私は違う! 私は君の美しさで求婚したんじゃない!」
どこか必死なハーキュリーズにエウリは醒めた眼差しを向けた。
「面と向かってお話したのは一週間前でしょう? それだけで私の何が分かるというんです?」
「それは……」
エウリにとっては丁度よく門前に馬車が現れたのでハーキュリーズの話を聞かずに、さっさと馬車に乗り込んだ。
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