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碌なものじゃない
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「エウリ様! 大丈夫!」
デイアがパーシーの後ろから駆け寄ってきた。
「大丈夫ですわ」
エウリは安心させるように微笑んだ。
「無事でよかった」
ほっとした様子のハークにエウリは微妙な顔になった。彼を傷つけた自分を気遣う事などないのに。
「怖かっただろう。遅くなってすまない」
「ううん。絶対に助けにきてくれると信じていたから」
謝罪するアンにエウリは何でもない顔で言った。
「旦那様!?」
女はゆったりと座っていたソファから立ち上がった。その驚いた顔からすると、まさか夫がここに現れるとは思ってもいなかったのだろう。
「……後でいくらでも謝る。今は、こちらを対処させてくれ」
オルフェはエウリにそう言った後、冷たい視線を妻に向けた。
「お前の頭の中には何が詰まっているんだ? この子を攫うとは、馬鹿で阿保とは思っていたけど、これほどとは思わなかったぞ」
オルフェが妻に放った言葉は奇しくも娘と同じだった。
娘に言われた時には食ってかかったのに、愛する夫に言われるのはショックなのか、女は絶句している。
「お前を侯爵家から追い出す前、そして、昨日、私は言ったな? 今度問題を起こせば追い出すだけでは済まないと」
「昨日言った」という事は、オルフェには妻が何をするかお見通しで一応釘を刺しておいたのだろう。それが彼の妻に対する最後の気遣いだったのに、この女は、それを台無しにしたのだ。
「わたくしには何の事だが……」
言い逃れようとする異母姉にパーシーが冷たい視線を向けた。
「『ようやくお前も、わたくしの役に立つ事ができるわよ』なんて上から目線な言い方の後『旦那様の妻になろうとする身の程知らずな女を懲らしめるのに力を貸しなさい』と頼むというよりは命令したよな。
いざとなれば、俺に罪をなすりつける気なのは丸わかりだったが、他の奴の所に行かれて、本当にエウリに危害を加えられては困るから協力するふりをしたんだ。
少しでも俺を理解していれば、エウリが俺の親友という事を知らなくても、俺が女性を傷つける策略に手を貸すはずがないと分かるはずだがな。まあ、仕方ないか。あなたは俺を嫌っているからな」
デイアを担いで出て行った男が当たり前のようにパーシーの傍にいたから、もしかしたらと思っていたが、男は、いや男ばかりでなく、女の傍にいる四人も彼の部下だったのだ。
「この女がお前の親友?」
女が驚いた顔をするのも無理はない。
パーシーもエウリも親友で同居までしている事は信頼できる人にしか話していないからだ。
男女間に友情などないと言い切る人もいる。まして、エウリは絶世の美女。男色家として有名なパーシーが女性も大丈夫なのだと誤解されて結婚を勧められては困るからだ。皇族で若く見目麗しい彼を結婚相手として狙っている女性は多いのだ。
エウリがパーシーの家に居候していても噂にならないのは、諜報員としての仕事で忙しく、あまり家にいないアン、彼の義妹だと間違われているせいでもあるのだ。同い年で同じ色の髪と瞳、体型も似ているため知らない人がそう思うのは無理もない。
だからこそ女もパーシーとエウリが親しい事を知らず、彼女を痛めつける協力を異母弟に頼んだのだ(彼に言わせると頼むというよりは命令らしかったが)。
「高貴な姉のわたくしよりも、下賤な泥棒猫との友情を大切にするだなんて!」
「下賤な泥棒猫」とは、もしかしなくてもエウリの事だろう。女にとっては愛する夫の第二夫人になろうとする彼女は「下賤な泥棒猫」以外の何者でもないのだ。
「……エウリなら何もしなくても勝手に男が寄ってくるのに、そんな風に侮辱される謂れはないですよ。母上」
「ハーク! お前まで、あの男と同じ事を言うの!?」
「あの男?」
信じられないと言いたげな母親に、ハークは怪訝そうな顔を向けた。
「アリスタ様でしょう。このお……いえ、この人、アリスタ様に会ったようですし、その際、このお……この人が私を悪く言ったら、あの方なら私を庇う発言をしてくださいます」
「そうだね。アリスタならそうするだろう」
エウリの言葉に納得した後、ハークはこう言った。
「君は、やっぱり優しい人だね」
「え?」
エウリは前後の脈絡を感じられないハークの言葉に首を傾げた。
「母上からひどい目に遭わされるところだったのに、私を気遣って『この人』と言っただろう」
エウリが「この女」と言いそうになる度に「この人」と言い直したのに気づいていたのだ。
「その必要はないよ。この女は、私にとって『生物学上の母親』でしかないから」
――私が嫌いでも、この先、父上と何があっても、デイアとは仲良くしてほしい。
そうエウリに「お願い」するくらいにはハークは妹を愛している。
その妹を邪険にし、何より女性にとって最悪な事を自分と同じ女性であるエウリにしようとした女だ。そんな母親をハークが愛しているとは到底思わなったが(そもそも「母親以外は恵まれた」と言っていたし)それでも「この女」呼ばわりしては気分が悪いだろうと気遣ったのだが無用だったらしい。
それにしても、娘ばかりか息子にまで「生物学上の母親」と言われてしまうとは。
けれど、エウリは同情などしない。我が子達にそう言わせてしまったのは、この女の言動故なのだから。
「ハーク! お前は母親に向かって何て口を!?」
激昂する「生物学上の母親」にハークは醒めた眼を向けた。
「幼いデイアは必死に母親に好かれようとしていたが、私は物心ついた頃から、あなたが大嫌いだ。そんな母親より初めて愛した女性であるエウリのほうが、ずっと大事だ。だから、あなたがエウリにしようとした事を私も怒っている」
「お前! 旦那様ばかりか、わたくしの息子まで誑かしたの!?」
エウリは柳眉をひそめた。「誑かしたの!?」と罵られたからではない。自分だけなら何を言われても平気だ。大好きな人達さえ分かってくれればそれでいい。
だが、女の発言は、デイアも似たような事を言っていたが、「下賤な泥棒猫」ごときに誑かされる男性達だと自分の夫と息子を侮辱している。
「……私は男性を誑かしたりなどしないわ」
男性に恐怖と嫌悪を抱いているのだ。自分から危険を招く真似などしない。
「それに、そんな面倒な事をわざわざしなくても、私の表面だけを見て寄ってくる男性はいくらでもいるもの」
女性の大半を敵に回す発言だろうが、女の表面だけを見て寄ってくる男など碌なものじゃない。まあ、エウリ自身も見目のいい男性を見てはBL妄想するからお互い様か。
「よくもぬけぬけと!」
「おとなしくしろ」
エウリに摑みかかろうとする女を近くにいたパーシーがうんざりした顔で拘束した。
「放しなさい! 姉のわたくしの言う事が聞けないの!?」
「聞けないな。そもそも、あなたは俺を弟と思った事などないだろう? ハークじゃないが、俺もあなたを生物学上以外で姉と思った事がないから、お互い様だがな」
「この、同性しか抱けず子供も作れない皇族の面汚しが!」
言われた当の本人であるパーシーは顔色ひとつ変えなかったが、義兄であり従兄であり想い人でもある彼を侮辱されたアンは思わず飛び出そうとした。だが、パーシーに視線で制され悔しそうに女を睨みつけるだけにとどめた。
そう、これだけなら、この場にいる全員からの不愉快そうな視線だけで済んだのに、女は余計な事を言ってしまった。
「下賤な泥棒猫との友情を大切にして、ようやくわたくしの役に立てる機会をふいにするなど、やっぱり淫売の息子など碌な」
言葉の途中でパシン! という乾いた音がした。駆け寄ってきたアンが思い切り女の顔を平手打ちしたのだ。
パーシーも今度は義妹を止めなかった。普段の彼なら女性への暴力行為を(それを行っているのが同じ女性でも)止めるが、さすがに愛する母親まで侮辱されて、そんな気にはなれなかったのだろう。
だが、どれだけ腹を立てても、敬意に値しなくても、相手が女性である限り、パーシー自身が暴力をふるったりはしない。それが、彼の最後の理性だ。
「何するのよ!?」
左頬を押さえて女はアンを睨みつけた。
「……やっぱり『カシオペア』という名前の女は碌なものじゃないな」
アンを人買いに売った彼女の母親の名前も「カシオペア」だ。
アンの母親は皇女だった目の前の女と同い年だったという。皇族と同じ年に生まれると肖るために皇族と同じ名前、もしくは一部を我が子に与える親が多いのだ。
「元皇女で宰相夫人であるわたくしをぶつなど許される事じゃないわ! 旦那様、この下賤な女に罰を与えてくださいな!」
旦那様が自分の言う事を聞くと信じて疑わない女に、言われた彼は冷静に応じた。
「お前が、この子やパーシー、彼の母上を侮辱する事も許される事じゃないだろう。誰だって大切な方々を侮辱されれば怒るに決まっている」
夫婦の会話をよそにエウリは疑問を感じていた。
オルフェがパーシーを愛称で呼んだ事、またそれに対して彼が何も言わない事に対してだ。
いや、今思えば、彼とオルフェの話をする度に「オル……宰相が」と言っていた。あれは、愛称を言いそうになって言い直していたのだ。
愛称を呼び合うほど仲がいいのに、それをなぜか二人はエウリに隠していていたのだ。
義理の兄弟とはいえ、パーシーが男色家でオルフェの容姿が同性をも惹きつけるものだから、妙な誤解をされないために隠していたのか?
だが、パーシーにとっては親友、オルフェにとっては仮初めでも「妻」になるエウリにまで隠す事もないだろうに。
「わたくしは本当の事しか言ってません! こいつの母親が淫売なのは事実でしょう! あの女がお父様の妾妃になるまで数多くの男に体を売っていたんですから! こいつが、お父様の実の息子なのかもあやし」
言葉の途中で今度はドカッ! という音がした。聞くに堪えない言葉を撒き散らす女をアンが殴り飛ばしたのだ。床に倒れた女からは鼻血が出ていた。
「……苦界に堕ちなければならなかったあの方の苦しみを何ひとつ知らないくせに」
アンの声は決して大きくなかったが、それでも充分、彼女の強い憤りは伝わってきた。
実の母親に疎まれ人買いに売られたアンにとって、自分を本当の娘のように慈しんでくれたダナエ妃こそ「母」だっただろう。
想い人と「母」、アンにとって誰よりも大事な二人を侮辱されたのだ。彼女が怒るのは当然だ。
アンは床に倒れた女の襟を摑み、さらに殴ろうとしたが。
「レディ・アン。これを庇う訳ではないのだが、娘達がいるので過度な暴力は控えてほしい」
オルフェは視線だけでデイアとエウリを示した。彼が言う「娘達」の中には、どうやらエウリも入っているらしい。
「……申し訳ありません。宰相閣下、頭に血が上って、お見苦しいところを」
アンはオルフェに謝罪した後、心なしか強張った顔をしているデイアに視線を向けた。
「デイア様にも。ただでさえ怖い思いをされたのに、さらに怖がらせてしまいましたね」
アンがエウリに何も言わないのは、このくらいでは彼女が怖がらない事を知っているからだ。アドニスだった頃には暴力は日常茶飯事だった。オルフェが気遣ってくれる必要などないのだ。
「……いいえ。怖い思いをしたのはエウリ様だし、大切な方々を侮辱されれば誰だって怒るわ。この人は、わたくしの生物学上の母親だから、この人の無礼な発言を、わたくしこそ謝らなくてはいけないわね」
「この女の言動で一番傷ついたのはデイアだろう。母娘だからって、自分がした事でもない事を謝る必要はないよ」
パーシーは姪に優しく言った後、異母姉に呆れと不愉快さが混じった視線を向けた。
「……俺のほうが兄上よりも父上に似てるっていうのに、どうして母上の不貞を疑う言葉が出てくるんだか」
「……よくも、わたくしにこんな真似を! 旦那様! この下賤な女に罰を与えてくださいな!」
先程、旦那様に諫められたというのに、女は、まだ懲りていない。
喚く妻とは対照的に、オルフェは淡々と話し始めた。
「……私は、お前を愛せなかったけれど、お前は私を愛してくれた。だから、お前がデイアを苛めて怒った父上が『生きていても、どうせ周囲に迷惑をかけるだけだから、殺せ』などと過激な事を仰っても、私はお前を侯爵家から追い出すだけにしたんだ」
「……そんな。生涯妻は、わたくしだけだと、そう仰ってくださったわ。悔しいけれど、この女は、わたくしよりも若くて美しい。旦那様に限らず男なら誑し込まれても不思議じゃないわ。だから、わたくし、怒りはしませんわ」
「……息子と同い年になる女性に誑し込まれる男だと思われた事は、まあいい」
オルフェは娘と同じような事を言った後、こう続けた。
「『生涯妻は、お前だけだ』の前に『絶対とは約束できないが』とも言ったが、それは都合よく忘れているようだな」
「だからって、こんな得体の知れない下賤な女なんかを!」
「この子を侮辱するな」
オルフェの声にも表情にも荒ぶったところなどない。けれど、感情的に喚いていた女が竦むくらいの迫力があった。
「……だ、旦那様?」
「私が『生涯妻は、お前だけだ』と言ったのは、『彼女』でないなら誰が妻でも同じだからだ」
デイアがパーシーの後ろから駆け寄ってきた。
「大丈夫ですわ」
エウリは安心させるように微笑んだ。
「無事でよかった」
ほっとした様子のハークにエウリは微妙な顔になった。彼を傷つけた自分を気遣う事などないのに。
「怖かっただろう。遅くなってすまない」
「ううん。絶対に助けにきてくれると信じていたから」
謝罪するアンにエウリは何でもない顔で言った。
「旦那様!?」
女はゆったりと座っていたソファから立ち上がった。その驚いた顔からすると、まさか夫がここに現れるとは思ってもいなかったのだろう。
「……後でいくらでも謝る。今は、こちらを対処させてくれ」
オルフェはエウリにそう言った後、冷たい視線を妻に向けた。
「お前の頭の中には何が詰まっているんだ? この子を攫うとは、馬鹿で阿保とは思っていたけど、これほどとは思わなかったぞ」
オルフェが妻に放った言葉は奇しくも娘と同じだった。
娘に言われた時には食ってかかったのに、愛する夫に言われるのはショックなのか、女は絶句している。
「お前を侯爵家から追い出す前、そして、昨日、私は言ったな? 今度問題を起こせば追い出すだけでは済まないと」
「昨日言った」という事は、オルフェには妻が何をするかお見通しで一応釘を刺しておいたのだろう。それが彼の妻に対する最後の気遣いだったのに、この女は、それを台無しにしたのだ。
「わたくしには何の事だが……」
言い逃れようとする異母姉にパーシーが冷たい視線を向けた。
「『ようやくお前も、わたくしの役に立つ事ができるわよ』なんて上から目線な言い方の後『旦那様の妻になろうとする身の程知らずな女を懲らしめるのに力を貸しなさい』と頼むというよりは命令したよな。
いざとなれば、俺に罪をなすりつける気なのは丸わかりだったが、他の奴の所に行かれて、本当にエウリに危害を加えられては困るから協力するふりをしたんだ。
少しでも俺を理解していれば、エウリが俺の親友という事を知らなくても、俺が女性を傷つける策略に手を貸すはずがないと分かるはずだがな。まあ、仕方ないか。あなたは俺を嫌っているからな」
デイアを担いで出て行った男が当たり前のようにパーシーの傍にいたから、もしかしたらと思っていたが、男は、いや男ばかりでなく、女の傍にいる四人も彼の部下だったのだ。
「この女がお前の親友?」
女が驚いた顔をするのも無理はない。
パーシーもエウリも親友で同居までしている事は信頼できる人にしか話していないからだ。
男女間に友情などないと言い切る人もいる。まして、エウリは絶世の美女。男色家として有名なパーシーが女性も大丈夫なのだと誤解されて結婚を勧められては困るからだ。皇族で若く見目麗しい彼を結婚相手として狙っている女性は多いのだ。
エウリがパーシーの家に居候していても噂にならないのは、諜報員としての仕事で忙しく、あまり家にいないアン、彼の義妹だと間違われているせいでもあるのだ。同い年で同じ色の髪と瞳、体型も似ているため知らない人がそう思うのは無理もない。
だからこそ女もパーシーとエウリが親しい事を知らず、彼女を痛めつける協力を異母弟に頼んだのだ(彼に言わせると頼むというよりは命令らしかったが)。
「高貴な姉のわたくしよりも、下賤な泥棒猫との友情を大切にするだなんて!」
「下賤な泥棒猫」とは、もしかしなくてもエウリの事だろう。女にとっては愛する夫の第二夫人になろうとする彼女は「下賤な泥棒猫」以外の何者でもないのだ。
「……エウリなら何もしなくても勝手に男が寄ってくるのに、そんな風に侮辱される謂れはないですよ。母上」
「ハーク! お前まで、あの男と同じ事を言うの!?」
「あの男?」
信じられないと言いたげな母親に、ハークは怪訝そうな顔を向けた。
「アリスタ様でしょう。このお……いえ、この人、アリスタ様に会ったようですし、その際、このお……この人が私を悪く言ったら、あの方なら私を庇う発言をしてくださいます」
「そうだね。アリスタならそうするだろう」
エウリの言葉に納得した後、ハークはこう言った。
「君は、やっぱり優しい人だね」
「え?」
エウリは前後の脈絡を感じられないハークの言葉に首を傾げた。
「母上からひどい目に遭わされるところだったのに、私を気遣って『この人』と言っただろう」
エウリが「この女」と言いそうになる度に「この人」と言い直したのに気づいていたのだ。
「その必要はないよ。この女は、私にとって『生物学上の母親』でしかないから」
――私が嫌いでも、この先、父上と何があっても、デイアとは仲良くしてほしい。
そうエウリに「お願い」するくらいにはハークは妹を愛している。
その妹を邪険にし、何より女性にとって最悪な事を自分と同じ女性であるエウリにしようとした女だ。そんな母親をハークが愛しているとは到底思わなったが(そもそも「母親以外は恵まれた」と言っていたし)それでも「この女」呼ばわりしては気分が悪いだろうと気遣ったのだが無用だったらしい。
それにしても、娘ばかりか息子にまで「生物学上の母親」と言われてしまうとは。
けれど、エウリは同情などしない。我が子達にそう言わせてしまったのは、この女の言動故なのだから。
「ハーク! お前は母親に向かって何て口を!?」
激昂する「生物学上の母親」にハークは醒めた眼を向けた。
「幼いデイアは必死に母親に好かれようとしていたが、私は物心ついた頃から、あなたが大嫌いだ。そんな母親より初めて愛した女性であるエウリのほうが、ずっと大事だ。だから、あなたがエウリにしようとした事を私も怒っている」
「お前! 旦那様ばかりか、わたくしの息子まで誑かしたの!?」
エウリは柳眉をひそめた。「誑かしたの!?」と罵られたからではない。自分だけなら何を言われても平気だ。大好きな人達さえ分かってくれればそれでいい。
だが、女の発言は、デイアも似たような事を言っていたが、「下賤な泥棒猫」ごときに誑かされる男性達だと自分の夫と息子を侮辱している。
「……私は男性を誑かしたりなどしないわ」
男性に恐怖と嫌悪を抱いているのだ。自分から危険を招く真似などしない。
「それに、そんな面倒な事をわざわざしなくても、私の表面だけを見て寄ってくる男性はいくらでもいるもの」
女性の大半を敵に回す発言だろうが、女の表面だけを見て寄ってくる男など碌なものじゃない。まあ、エウリ自身も見目のいい男性を見てはBL妄想するからお互い様か。
「よくもぬけぬけと!」
「おとなしくしろ」
エウリに摑みかかろうとする女を近くにいたパーシーがうんざりした顔で拘束した。
「放しなさい! 姉のわたくしの言う事が聞けないの!?」
「聞けないな。そもそも、あなたは俺を弟と思った事などないだろう? ハークじゃないが、俺もあなたを生物学上以外で姉と思った事がないから、お互い様だがな」
「この、同性しか抱けず子供も作れない皇族の面汚しが!」
言われた当の本人であるパーシーは顔色ひとつ変えなかったが、義兄であり従兄であり想い人でもある彼を侮辱されたアンは思わず飛び出そうとした。だが、パーシーに視線で制され悔しそうに女を睨みつけるだけにとどめた。
そう、これだけなら、この場にいる全員からの不愉快そうな視線だけで済んだのに、女は余計な事を言ってしまった。
「下賤な泥棒猫との友情を大切にして、ようやくわたくしの役に立てる機会をふいにするなど、やっぱり淫売の息子など碌な」
言葉の途中でパシン! という乾いた音がした。駆け寄ってきたアンが思い切り女の顔を平手打ちしたのだ。
パーシーも今度は義妹を止めなかった。普段の彼なら女性への暴力行為を(それを行っているのが同じ女性でも)止めるが、さすがに愛する母親まで侮辱されて、そんな気にはなれなかったのだろう。
だが、どれだけ腹を立てても、敬意に値しなくても、相手が女性である限り、パーシー自身が暴力をふるったりはしない。それが、彼の最後の理性だ。
「何するのよ!?」
左頬を押さえて女はアンを睨みつけた。
「……やっぱり『カシオペア』という名前の女は碌なものじゃないな」
アンを人買いに売った彼女の母親の名前も「カシオペア」だ。
アンの母親は皇女だった目の前の女と同い年だったという。皇族と同じ年に生まれると肖るために皇族と同じ名前、もしくは一部を我が子に与える親が多いのだ。
「元皇女で宰相夫人であるわたくしをぶつなど許される事じゃないわ! 旦那様、この下賤な女に罰を与えてくださいな!」
旦那様が自分の言う事を聞くと信じて疑わない女に、言われた彼は冷静に応じた。
「お前が、この子やパーシー、彼の母上を侮辱する事も許される事じゃないだろう。誰だって大切な方々を侮辱されれば怒るに決まっている」
夫婦の会話をよそにエウリは疑問を感じていた。
オルフェがパーシーを愛称で呼んだ事、またそれに対して彼が何も言わない事に対してだ。
いや、今思えば、彼とオルフェの話をする度に「オル……宰相が」と言っていた。あれは、愛称を言いそうになって言い直していたのだ。
愛称を呼び合うほど仲がいいのに、それをなぜか二人はエウリに隠していていたのだ。
義理の兄弟とはいえ、パーシーが男色家でオルフェの容姿が同性をも惹きつけるものだから、妙な誤解をされないために隠していたのか?
だが、パーシーにとっては親友、オルフェにとっては仮初めでも「妻」になるエウリにまで隠す事もないだろうに。
「わたくしは本当の事しか言ってません! こいつの母親が淫売なのは事実でしょう! あの女がお父様の妾妃になるまで数多くの男に体を売っていたんですから! こいつが、お父様の実の息子なのかもあやし」
言葉の途中で今度はドカッ! という音がした。聞くに堪えない言葉を撒き散らす女をアンが殴り飛ばしたのだ。床に倒れた女からは鼻血が出ていた。
「……苦界に堕ちなければならなかったあの方の苦しみを何ひとつ知らないくせに」
アンの声は決して大きくなかったが、それでも充分、彼女の強い憤りは伝わってきた。
実の母親に疎まれ人買いに売られたアンにとって、自分を本当の娘のように慈しんでくれたダナエ妃こそ「母」だっただろう。
想い人と「母」、アンにとって誰よりも大事な二人を侮辱されたのだ。彼女が怒るのは当然だ。
アンは床に倒れた女の襟を摑み、さらに殴ろうとしたが。
「レディ・アン。これを庇う訳ではないのだが、娘達がいるので過度な暴力は控えてほしい」
オルフェは視線だけでデイアとエウリを示した。彼が言う「娘達」の中には、どうやらエウリも入っているらしい。
「……申し訳ありません。宰相閣下、頭に血が上って、お見苦しいところを」
アンはオルフェに謝罪した後、心なしか強張った顔をしているデイアに視線を向けた。
「デイア様にも。ただでさえ怖い思いをされたのに、さらに怖がらせてしまいましたね」
アンがエウリに何も言わないのは、このくらいでは彼女が怖がらない事を知っているからだ。アドニスだった頃には暴力は日常茶飯事だった。オルフェが気遣ってくれる必要などないのだ。
「……いいえ。怖い思いをしたのはエウリ様だし、大切な方々を侮辱されれば誰だって怒るわ。この人は、わたくしの生物学上の母親だから、この人の無礼な発言を、わたくしこそ謝らなくてはいけないわね」
「この女の言動で一番傷ついたのはデイアだろう。母娘だからって、自分がした事でもない事を謝る必要はないよ」
パーシーは姪に優しく言った後、異母姉に呆れと不愉快さが混じった視線を向けた。
「……俺のほうが兄上よりも父上に似てるっていうのに、どうして母上の不貞を疑う言葉が出てくるんだか」
「……よくも、わたくしにこんな真似を! 旦那様! この下賤な女に罰を与えてくださいな!」
先程、旦那様に諫められたというのに、女は、まだ懲りていない。
喚く妻とは対照的に、オルフェは淡々と話し始めた。
「……私は、お前を愛せなかったけれど、お前は私を愛してくれた。だから、お前がデイアを苛めて怒った父上が『生きていても、どうせ周囲に迷惑をかけるだけだから、殺せ』などと過激な事を仰っても、私はお前を侯爵家から追い出すだけにしたんだ」
「……そんな。生涯妻は、わたくしだけだと、そう仰ってくださったわ。悔しいけれど、この女は、わたくしよりも若くて美しい。旦那様に限らず男なら誑し込まれても不思議じゃないわ。だから、わたくし、怒りはしませんわ」
「……息子と同い年になる女性に誑し込まれる男だと思われた事は、まあいい」
オルフェは娘と同じような事を言った後、こう続けた。
「『生涯妻は、お前だけだ』の前に『絶対とは約束できないが』とも言ったが、それは都合よく忘れているようだな」
「だからって、こんな得体の知れない下賤な女なんかを!」
「この子を侮辱するな」
オルフェの声にも表情にも荒ぶったところなどない。けれど、感情的に喚いていた女が竦むくらいの迫力があった。
「……だ、旦那様?」
「私が『生涯妻は、お前だけだ』と言ったのは、『彼女』でないなら誰が妻でも同じだからだ」
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