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本編
42 今日で最後
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ケイティに話した翌日、学院から出た私は一人で街を歩いていた。
学院の制服だが前髪が長い栗色の鬘を被り、王族特有の紫眼を隠している。
この道を歩くのも今日で最後になるだろう。
私は食堂がひしめく区画、そのうちのひとつの前に立った。店の名前は《君影草》……初めて看板を見た時は思わず顔をしかめてしまった。
基本的に店の主人ジャックが一人で切り盛りしているので他店に比べると小さいほうだ。二階が彼と彼の息子ジョシュアの住居になっている。
ジャックの妻、ジョシュアの母親はいない。ジョシュアが赤ん坊の頃、亡くなったのだという。
二年程前、ふらふらと一人で街を歩いていた私は、いかにも悪人という男達に絡まれた。今日のように長い前髪の栗色の鬘を被っていたので王女だとばれなかったのだが、服装は、これまた今日と同じく貴族の子弟が通う学院の制服だ。身代金目当てで私に近づいたらしい。
一応、武術で有名な国の王女だ。あの女程でなくても腕に自信はある。一人でも男達を撃退できたのだが、やりあう前に現われたジャックに助けられたのだ。
それから、やや(かなり?)強引に雇ってもらって、都合のいい日だけ《君影草》で給仕をしていた。
アーサーとの婚約破棄が成功した後、このまま王女として暮らしていけるとは微塵も考えていなかった。よくて修道院に送られるのだと思ったのだ。神など全く信じていないので、神に仕える暮しなど絶対に、ごめんだ。
市井でも暮らしていけるように、時間の許す限り試験的に市井働いてみようと考えた。この店の主人ジャックに出会ったのを幸い、雇ってもらったのだ。
けれど、それも今日で最後だ。
今日は定休日で、店の扉の把手にも「定休日」と書かれた札がぶら下がっているが、私は構わず裏口に回り扉を押してみた。幸い開いていた。ジャックが中にいるのだ。
店に入れないのなら、横の階段から二階の住居を訪ねるつもりだったが手間が省けた。
「ごきげんよう」
裏口から入って来た私に、厨房に置いてある椅子に座り何やら考え込んでいたジャックは顔を上げた。
ジャックは今年三十七になる。栗色の髪と瞳。そこそこ整った顔立ち。中背痩躯。かつて何かの事故にあったらしく右足を少し引きずっている。そのため椅子に座って作業をする事が多かった。
「来てくれてよかった。リズ、話が」
「話があるの」
ジャックと私の声が重なった。
ここでは勿論本名ではなく「リズ」と名乗っている。
「話とは?」
ジャックのほうが先に話すように促してくれた。
遠慮し合っていても話が進まないので、ありがたく私が先に話す事にした。
「強引に雇ってもらって申し訳ないのだけれど、今日で、ここに来るのはやめるわ。こんな役に立たない私を二年間も雇ってくれて感謝しているわ。ありがとう」
最初の頃は、いや今もだが、散々迷惑をかけてしまった。それでも、私にとって市井の人々との交流は何にも代えがたい体験だった。学院や王宮では決して学べない事だからだ。
私が女王となるのに、いや王女である今でも、ここでの体験は必ず役に立つだろう。
この人達の生活を守る義務があるのだと、これから私は心に刻んでいく。
私は肩から下げた鞄から袋を取り出すとジャックの目の前の作業台に置いた。
「お給料だと渡されたお金、全てあるわ。私は身勝手な理由で、ここで雇ってもらって迷惑をかけるばかりだった。だから、これはもらえない」
王女でなくなった後、市井でも生きていけるようになろうと、ここで働いた。
王族に生まれたくせに、その義務を全て弟やアーサーに押しつけるような無責任な人間が受け取っていいお金ではない。
「どんな理由で働いていたにしろ、労働に対して賃金を払うのは当然だ。これは貴女が受け取るべき正当な対価だ」
ジャックはお金が入って袋を突き返してきた。
「ジャック?」
ジャックは私を「リズ」もしくは「君」と呼んでいた。「貴女」などと呼ばれたのは初めてだった。
「話が長くなるから」とジャックは、狭い食堂にある一つの椅子に私を座らせると目の前に冷たいミントティーを置いた。
「貴女が来てくださってよかった。話したくても、私からは会いに行けないからな」
ジャックは私とはテーブルを挟んで対面の椅子に腰掛けた。
「……もうここには来ないと言った貴女に、わざわざこんな話をする必要はないのかもしれないが」
ジャックにしては歯切れの悪い話し方だ。
私はミントティーを飲みながらジャックが話し出すのを待った。
「貴女が来たら、もうここには来ないでほしいと言うつもりだった」
「……そうね。私、散々迷惑をかけたものね」
「そういう事じゃない。ジョシュアのためです」
「ジョシュア?」
私の一つ上、今年十七になるジャックの息子だ。親子だから当然だがジャックによく似た彼は、普段は別の仕事をしていて、あまり私と顔を合わせた事はない。仕事が休みの時など店を手伝っている。
「あいつが貴女を好きになったので、だから」
「はあっ!?」
ジャックの言葉の途中だったが、信じられなくて私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「いやいやいや! それはないでしょう! ジョシュアとはあんまり顔を合わせてないし、見かけ、こんなだし!」
長い前髪(の鬘)で顔を半分隠した一見すると怪しい女だ。見かけも中身も、どうって事ない、あんまり交流しない女を、どうして好きになる?
「貴女が信じなくても、そうなんです。だから、もう来ないでほしいのです。どうせ実らない恋なのだから」
ジャックは私を「貴女」と呼ぶばかりか敬語を遣っているが、彼が話す内容に気を取られていた私は気づかなった。
「何にしろ、私は、もうここには来ないわ。ジョシュアと顔を合わせる事もない。安心した?」
「ええ」
ジャックは頷いた。
これでジャックの話は終わりかと思ったのだが――。
学院の制服だが前髪が長い栗色の鬘を被り、王族特有の紫眼を隠している。
この道を歩くのも今日で最後になるだろう。
私は食堂がひしめく区画、そのうちのひとつの前に立った。店の名前は《君影草》……初めて看板を見た時は思わず顔をしかめてしまった。
基本的に店の主人ジャックが一人で切り盛りしているので他店に比べると小さいほうだ。二階が彼と彼の息子ジョシュアの住居になっている。
ジャックの妻、ジョシュアの母親はいない。ジョシュアが赤ん坊の頃、亡くなったのだという。
二年程前、ふらふらと一人で街を歩いていた私は、いかにも悪人という男達に絡まれた。今日のように長い前髪の栗色の鬘を被っていたので王女だとばれなかったのだが、服装は、これまた今日と同じく貴族の子弟が通う学院の制服だ。身代金目当てで私に近づいたらしい。
一応、武術で有名な国の王女だ。あの女程でなくても腕に自信はある。一人でも男達を撃退できたのだが、やりあう前に現われたジャックに助けられたのだ。
それから、やや(かなり?)強引に雇ってもらって、都合のいい日だけ《君影草》で給仕をしていた。
アーサーとの婚約破棄が成功した後、このまま王女として暮らしていけるとは微塵も考えていなかった。よくて修道院に送られるのだと思ったのだ。神など全く信じていないので、神に仕える暮しなど絶対に、ごめんだ。
市井でも暮らしていけるように、時間の許す限り試験的に市井働いてみようと考えた。この店の主人ジャックに出会ったのを幸い、雇ってもらったのだ。
けれど、それも今日で最後だ。
今日は定休日で、店の扉の把手にも「定休日」と書かれた札がぶら下がっているが、私は構わず裏口に回り扉を押してみた。幸い開いていた。ジャックが中にいるのだ。
店に入れないのなら、横の階段から二階の住居を訪ねるつもりだったが手間が省けた。
「ごきげんよう」
裏口から入って来た私に、厨房に置いてある椅子に座り何やら考え込んでいたジャックは顔を上げた。
ジャックは今年三十七になる。栗色の髪と瞳。そこそこ整った顔立ち。中背痩躯。かつて何かの事故にあったらしく右足を少し引きずっている。そのため椅子に座って作業をする事が多かった。
「来てくれてよかった。リズ、話が」
「話があるの」
ジャックと私の声が重なった。
ここでは勿論本名ではなく「リズ」と名乗っている。
「話とは?」
ジャックのほうが先に話すように促してくれた。
遠慮し合っていても話が進まないので、ありがたく私が先に話す事にした。
「強引に雇ってもらって申し訳ないのだけれど、今日で、ここに来るのはやめるわ。こんな役に立たない私を二年間も雇ってくれて感謝しているわ。ありがとう」
最初の頃は、いや今もだが、散々迷惑をかけてしまった。それでも、私にとって市井の人々との交流は何にも代えがたい体験だった。学院や王宮では決して学べない事だからだ。
私が女王となるのに、いや王女である今でも、ここでの体験は必ず役に立つだろう。
この人達の生活を守る義務があるのだと、これから私は心に刻んでいく。
私は肩から下げた鞄から袋を取り出すとジャックの目の前の作業台に置いた。
「お給料だと渡されたお金、全てあるわ。私は身勝手な理由で、ここで雇ってもらって迷惑をかけるばかりだった。だから、これはもらえない」
王女でなくなった後、市井でも生きていけるようになろうと、ここで働いた。
王族に生まれたくせに、その義務を全て弟やアーサーに押しつけるような無責任な人間が受け取っていいお金ではない。
「どんな理由で働いていたにしろ、労働に対して賃金を払うのは当然だ。これは貴女が受け取るべき正当な対価だ」
ジャックはお金が入って袋を突き返してきた。
「ジャック?」
ジャックは私を「リズ」もしくは「君」と呼んでいた。「貴女」などと呼ばれたのは初めてだった。
「話が長くなるから」とジャックは、狭い食堂にある一つの椅子に私を座らせると目の前に冷たいミントティーを置いた。
「貴女が来てくださってよかった。話したくても、私からは会いに行けないからな」
ジャックは私とはテーブルを挟んで対面の椅子に腰掛けた。
「……もうここには来ないと言った貴女に、わざわざこんな話をする必要はないのかもしれないが」
ジャックにしては歯切れの悪い話し方だ。
私はミントティーを飲みながらジャックが話し出すのを待った。
「貴女が来たら、もうここには来ないでほしいと言うつもりだった」
「……そうね。私、散々迷惑をかけたものね」
「そういう事じゃない。ジョシュアのためです」
「ジョシュア?」
私の一つ上、今年十七になるジャックの息子だ。親子だから当然だがジャックによく似た彼は、普段は別の仕事をしていて、あまり私と顔を合わせた事はない。仕事が休みの時など店を手伝っている。
「あいつが貴女を好きになったので、だから」
「はあっ!?」
ジャックの言葉の途中だったが、信じられなくて私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「いやいやいや! それはないでしょう! ジョシュアとはあんまり顔を合わせてないし、見かけ、こんなだし!」
長い前髪(の鬘)で顔を半分隠した一見すると怪しい女だ。見かけも中身も、どうって事ない、あんまり交流しない女を、どうして好きになる?
「貴女が信じなくても、そうなんです。だから、もう来ないでほしいのです。どうせ実らない恋なのだから」
ジャックは私を「貴女」と呼ぶばかりか敬語を遣っているが、彼が話す内容に気を取られていた私は気づかなった。
「何にしろ、私は、もうここには来ないわ。ジョシュアと顔を合わせる事もない。安心した?」
「ええ」
ジャックは頷いた。
これでジャックの話は終わりかと思ったのだが――。
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