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第一章『忍び寄る影編』

第四十二話 旭月【中】

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紫月ズーユェ……いくら『千年翠玉せんねんすいぎょく』が莫大な内功ないこうを養える秘薬でも、死んだ者を蘇らせることはできないわ……」
「そんなこと知らない! 俺はなにもしていないッ!」

 母を蘇らせるために、盗んだと思われていると? どうして?

「紫月兄さま……」
梅雪メイシェ、おまえからもなにか言ってくれ! これはなにかの間違いだ! みんなかん違いをしてる!」

 最後の希望は、愛しい妹だった。
 梅雪ならわかってくれるだろう。
 香り袋を贈ってくれたのは、この子なんだから。

「ごめんなさい、紫月兄さま……わたし、うそはつけないよ」
「梅、雪……?」
「わたし、紫月兄さまに叩かれたんです……『千年翠玉』をもってこないと、もっと痛い目にあうぞって……それで、こわくて、こわくて……っ!」

 なにを、言っているのだろうか。

 わっと桃英タオインに泣きついたのは、本当に自分が知っている妹なのだろうか。

「うそ、だろ……」
「紫月兄さま、最近はどこか行ってましたよね。んですか?」
「そんなわけない! おまえのためにっ……俺はやましいことなんてしてない!」
「わたしのために? ほんとうに?」
「もうよしてくれ、たくさんだ! おまえこそ悪い冗談はやめろよ、梅雪、なぁ梅──っ!」

 ザン、と空気が裂かれる音。
 一拍遅れて、まだ熱の引かぬほほに、たらりと生温いものが伝った。

「命が惜しくはないのか、痴れ者め」
「……ちち、うえ……」

 口からこぼれた声は、か細くかすれた。

 しがみつく梅雪をかばい立つ桃英の右手には、鋭い光を放つ剣がにぎられている。
 まばたきのうちに抜刀した桃英が、紫月を斬りつけたのだ。

 研ぎ澄まされた刃のごとき瑠璃の眼光は、愛する息子へ向けるものではない。

「『千年翠玉』をザオ家から持ちだしてはならない。これは正しくあつかわねば、わざわいを呼ぶ」

 そんなの知ったことか。
 悪用しようなんて、考えたことなどないのだから。

「──を捕らえよ」

 淡々とした一声が発されたとき、おのれの足はひとりでに動いていた。
 ここにいてはいけないと、本能が叫んでいた。

(うそだ、父上……梅雪)

 視界がにじむ。

(梅雪……梅雪、梅雪、梅雪ッ!!)

 唇を噛みしめて、見やった先。
 父にしがみついたちいさな少女が、つぶやいた。

 ──さようなら、と。

 十のこどもらしからぬ、ひどく無機質な表情で。それこそ、人形のように。
 その瞬間、ぷつりとなにかが切れる音を、紫月は聞いた。

 父が、継母が、妹が。
 ずっと一緒に暮らしてきたかぞくが、まるで罪人のように自分を追いたてる。
 がむしゃらに走って走って、苦しくて、それでも足を止めてはならなかった。

「紫月さま! こちらへ!」

 酸素不足で朦朧とする意識に、濡れ羽と黄金の色彩が割って入る。

黒皇ヘイファン……おまえは、俺の味方、か……?」

 荒い呼吸のなか、そうした問いを絞りだした紫月のうつろなまなざしに、黄金の双眸が悲痛を刻む。

「……うそをついていたならば、殺して食べていただいてもかまいません。せつは紫月さまの食料ですから」
「へい、ふぁっ……!」
「さぁ早く!」

 たよれるものは、もう黒皇しかいなかった。
 雪道に足を取られ、枝にきものを引っかけながら、必死に黒皇のあとを追った。

 駆けても駆けても空に浮かんでいる紅い陽が、自分を睨みつけている目玉のようで。
 それからのことは、よくおぼえていない。


  *  *  *


 世界が白い。どこもかしこも、まっさらだ。
 ちらちらと結晶の舞う雪原を、紫月はただ、亡霊のように歩いていた。

 右手には、薄汚れた朱の梅花の香り袋。
 なくしたと思っていた。
 でも紐が髪に絡んでいて、それに気づいて、いまも手もとにある。
 中には翠色の玉がみっつ残っていた。
 そのうちのひとつを、飲み込んだ。

 腹が空いていたわけじゃない。
 ただ、死ねるんじゃないかと思って。

 だが無情なことに、『千年翠玉』は紫月のいのちを奪うことはしなかった。
 代わりに、泉のごとく湧き上がる『力』を与えた。

「……おまえは俺を憎んでいたんだな、梅雪」

 考えてみれば、当たり前のことだった。
 自分は卑しい獣で、そのくせ降ってわいたように『兄面』をして。

「たしかにおまえは、俺に『すき』とは言ってくれなかった」

 それなのに、こんな布きれを贈られたくらいで舞い上がって。
 ──愚の骨頂だ。

「っくく……あはっ、はははははっ!!」

 くしゃりと、手のひらのなかで香り袋がつぶれる。

「愛していたのは、俺だけだったんだ!」

 愛する妹から嫌悪されていたことにも、気づけないでいたなんて。
 なんて愚かで、なんて滑稽な話だろう。

「愛して、いたのに……」

 ひざから崩れ落ちる紫月のそばに降り立った黒皇は、なにも言わない。
 半端な慰めなど、むしろないほうがいい。

 光をうしなった藍玉の視線が、虚空をさまよう。

「あぁ、そうだ……おまえは俺を憎んでいるけど、俺はおまえを愛しているから……今度会うときは、抱きしめてやろう」

 艶をうしなった唇が、ゆるく弧を描く。

「口づけをして、そのきれいな肌を暴いて……孕ませてやろう。憎い俺の子を孕んだら……おまえも、死にたくなるくらい、絶望するよな」

 紫月はわらう。
 それはとても、いいかんがえだ、と。

「憎い俺に一生囚われて、一生愛されろ……それがおまえへの復讐だ、梅雪」

 そう思いついたら、そうとしか考えられなくなって。
 紫月のこころは、粉々に砕かれてしまった。
 そして妹に裏切られた兄は、愛憎の化身となったのだ。
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