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第二章『瑞花繚乱編』
第八十二話 落日の咎【前】
しおりを挟む──かつて、十の太陽があった。
そのことを知る者が、この世にどれほどいることだろう。
* * *
「金王母さまのお許しをいただけました! 番になりましょう、梅雪さま!」
「うそぉー!?」
晴風自慢の果樹園と隣接した花畑で、のほほんとしていた早梅を、突然の衝撃がおそう。
軽快な足どりで駆けてきた少年が、まばゆい笑みを惜しげもなく炸裂させて、飛びついてきたのだ。
「ちょっ、黒慧くーん? 近い近い近い!」
「ごめんなさい! うれしくて、つい……」
胸を押し返したところ、ほおずりをしていた黒慧がからだをバッとはなし、頭を垂れた。
「でも、僕は梅雪さまにふれていたいです。どこまでならゆるされますか? 手なら、つないでもいいですか?」
早梅の機嫌をうかがうよう、黄金の瞳でうるうると見上げてくるさまは、捨てられた子犬のようだ。烏だが。
「手くらいなら、まぁ……」
「やったぁ! ありがとうございます!」
黒慧のことだ。情に訴えかけてくるこれは、無自覚なんだろう。
しかし早梅には、効果抜群である。確実に、着実にほだされている。
黒慧は早梅の手を取ると、自身のほほへ寄せ、うっとりとした表情でふれあわせる。
「梅雪さまの手は、やっぱり冷たくてきもちいいですね……」
これでも人並みの体温はあるはずだが、つねに発火したような黒慧の体熱をうけると、防衛本能からか、氷功が発動してしまう。
同時に黒慧の陽功が流れ込んでくるため、内功は枯渇しないことが、幸いか。
「ずっと、こうしていたいです……」
気を抜くと、うっかりうなずいてしまいそうだ。
だが万が一にも「そうだね」なんて返してみろ。「じゃあ僕たちは番ですね!」などと言われかねない。
つまりは、だ。黒慧の「ずっと手をつないでいたい」は、「毎日あなたのお味噌汁が飲みたい」的な求愛表現なのだ。
「黒慧、私もこんなからだだし、あまり君にかまってあげられなくなるよ」
このままでは、いけない。
夢見がちな少年に、現実を突きつける。
まさか、大きな腹をかかえている早梅が、見えていないわけではないだろう。
「皇兄上の子ではないんですよね?」
「そうだけど、黒慧……」
「わかってます。僕の子でもない」
身構えていた早梅ではあるが、頭上からおりてきた声音は、思いのほか落ち着いたものだ。
「この子の父親は、梅雪さまにとって、良いひとですか?」
核心をつかれた。
早梅は、すぐに答えることができない。
「……悪いひとだよ。嫌い。大っ嫌いだ」
「そうですよね。良いひとなら、梅雪さまをおひとりにするはずがないです。僕ならそうします」
「っ……でも、この子は悪くない」
「えぇ、僕だって、あなたを犯した男には憤りをおぼえるけれど、おなかの子を責めるべきではないと思います」
黒慧は、はにかむ。
「僕を、父親にさせてください」
どうか生んでくれ。その子すら愛してみせるから、と。
黄金の瞳をまっすぐに向けられているからこそ、言葉に詰まる。下手な返事ができない。
「梅雪お嬢さまを困らせてはいけないよ、小慧」
脳天に鉛を置かれたかのような心地を、ことさらおだやかな低音がふき飛ばす。
ひろい手のひらに肩をだかれ、うんと首を反らした先に、黒皇の横顔があった。
「あなたはお呼びではありませんが。皇兄上」
やはり、兄を前にした黒慧のまなざしは厳しい。早梅に笑みを向けてきた少年とは、別人と思えてしまうほどに。
あからさまな反感を向けられてなお、黒皇が大きく感情を乱すことはない。
すこしさびしげに、黄金の隻眼を細めるだけだ。
「『小梅の同意があるなら』──金王母さまは、そうおっしゃって婚姻をお許しになったはず」
「ですからこうして、お願い申し上げているではありませんか」
「ちがうよ。それはお願いではなく、迫っているんだ。ただ愛せばよいというものではない。梅雪お嬢さまの声を、もっと聞いてさしあげて」
「僕に愛を説くのですか? ろくに弟を愛せもしないあなたが? 愛する梅雪さまも守れなかったくせに……」
「それは聞き捨てならないな。黒皇は私を助けてくれたよ。黒皇がいなかったら、私はここにいない」
「あぁまただ、黒皇、黒皇、黒皇! 兄上ばっかり! 兄上はよくて、どうして僕はだめなんですか、なんで僕を見てくれないんですか、梅雪さまッ!」
カッと、金色の光がまたたく。
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