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*13* しあわせは42℃
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「もし熱かったら、水で埋めてくだされ。これ以上煮えぬよう、火加減はわたくしめが見張っておりますゆえ」
「はは、ありがとう」
ㅤついててあげる――
衝撃発言の意味を正しく理解した俺は、心穏やかな受け答えができるまでに回復していた。
ㅤ洗面器いっぱいの冷水を肩から被ったなら、いざ。
浴槽のへりに手をかけて、恐る恐る、右の爪先を湯気の中へ。
ㅤ……やっぱり熱い。ひり、としみるくらいに。
でもまったく入れないわけじゃない。
爪先にふれたすのこを沈めながら、ゆっくりと、左足、腰、胸、そして、肩までつかる。
ほぅ……と感嘆を漏らしたときには、もう肩口まで朱に染まっていた。
湯にふれている部分とそうでない部分との境界が、はっきりわかる。
ㅤ身体を取り巻く熱の流体はじんじんと痛いくらいだけど、俺にとっては、熱いくらいがちょうどいい。
ㅤ聞くところによると、蛍灯村の夏は過ごしやすい反面、冬は寒さの厳しい気候にあるらしい。
言われてみれば、いまは7月だけど、うだるような暑さというものを感じた試しがない。
冷房も扇風機があれば充分。
ㅤ朝は肌寒いくらいで、明け方の窓ガラスが結露しているのを初めて見たときは、密かな衝撃を受けたものだ。
いまでは薄手の毛布を使わせてもらっている。冬は極寒というのも、納得がいく。
ㅤそんな経緯もあって、村では一般的に、昔ながらの薪風呂がいまでも使われているとのこと。
温度にして約42℃。
冬場でも、入浴後しばらくTシャツで過ごしても湯冷めしないくらい、身体の芯からあたためてくれるんだって。
ㅤ木ノ本家も例外ではなく、夕飯の支度が始まるのと同時にパチパチと薪の爆ぜる音が聞こえてくるのが、毎日の光景だった。
ㅤ薪を焼べるのは、決まってはとちゃんがしていたように記憶している。
けれどまさかのまさか、薪割りまでしていただなんて。
早朝からジャージ姿で牛乳を一服していた真相だ。ひと汗かいた後の風呂上がりの一杯が、毎日の楽しみらしい。
ㅤこないだご近所のおばあさんが肉じゃがを持ってきたみたいに、てっきり薪も、どこからかもらってきたものだと思っていた。はとちゃんすごい。
「今度から、俺も手伝うよ」
「おっとぉ、華奢な咲くんにできるかなー?」
「説得力ないかもだけど、これでも男だから」
「ふふっ、知ってる。結構力強かったもんね。ごめんごめん」
ㅤはとちゃんにできるなら、俺だってできるはず。というかできないと駄目だろ。
妙な意地と使命感を胸に、俺の薪割りチャレンジは決定した。
ㅤタイル張りの浴室は湯気が立ち込めて、頭上のすりガラスの、少しすきまを空けた向こう側に、はとちゃんがいる。
誰かと話しながらお風呂に入るなんて、不思議な感覚だ。
気恥ずかしいような、ちょっと、新しいような。
ふいに訪れた沈黙に響く焚き火の音も、なんだか、落ち着く。
「随分昔からやってるのか?」
「薪割りのこと?ㅤそうだねぇ、小学生のときからかな。日課みたいなもんだよ。筋トレにもなるし!」
ㅤはとちゃんは、一体なにを目指しているんだろう。
可愛らしい外見とは裏腹に、体育会系的な意味でのアクティブさに驚かされるのは、いまに始まったことじゃない。
「こないだシロアリ退治のお手伝いに行ったんだけどね、お礼に廃材もらったの。かじられちゃって穴ぼこだらけだから、空気の通りがよくて燃えるんだよねぇこれが。冬になったらね、山から杉の葉拾ってきて、茶色になるまで乾燥させるの。で、焚きつけに使うと、すーぐぽっかぽかお風呂が沸くんだよー」
ㅤパチパチ。
火の音を伴奏に、まるで歌っているかのよう。楽しげに話すはとちゃんの様子が目に浮かぶようで、俺まで嬉しい気持ちになる。
「そっか。なんか、いいな。自然と一緒に生きてるみたいで」
「ふっふっふ、そうでしょう、そうでしょう。火にもその日によって気分があるからね。一筋縄じゃ行かないところが、楽しいんですよ!」
ㅤ指先のスイッチひとつで湯加減を調整できるのは、楽でいいだろう。
ㅤでも、毎日が同じより、昨日とは違う炎と向き合って、色んな思いを馳せて。
ひときわ時間に追われる日本人だからこそ、忘れてはいけない大切ななにかが、そこにあるような気がした。
「……あったかい、なぁ」
ㅤ少なくとも、浴室の壁に反響しないつぶやきをこぼしたこのときのぬくもりを、俺は忘れない。
ㅤ
ㅤㅤ*ㅤㅤ*ㅤㅤ*
ㅤはとちゃんたちと過ごすうちに、ひとつわかったことがある。自分は、張り切れば張り切るほど空回るタチだ、ということ。
「……薪割りって、奥が深いんだなぁ」
「プゥ」
ㅤ誰に言ったわけでもない独り言に、まさかの返答があった。言わずもがな、わんぱくなうり坊だ。
「ぷーすけ、いつの間に……うん、上に乗るのをやめようか。実は俺、アスレチックじゃないんだ」
ㅤ庭に面した広縁で、仰向けに身を投げ出した俺の脇腹をよじ登った焦げ茶色の毛玉が、すぃーと滑り降りようとして、落下。尻餅をつく。
まぁ、そうだろうな。俺の腹部は、そう都合のいい傾斜をしていない。
滑り台なら、また別のところで……いや、だから、ぷーすけ。
ㅤなにが面白いのか、懲りずによじ登っては、ぼて、と落ちるのをくり返すぷーすけの首根っこを掴んで、怠い上体を起こす。
その拍子に、額を覆っていた濡れタオルが床板とあいさつを交わした。
「はは、ありがとう」
ㅤついててあげる――
衝撃発言の意味を正しく理解した俺は、心穏やかな受け答えができるまでに回復していた。
ㅤ洗面器いっぱいの冷水を肩から被ったなら、いざ。
浴槽のへりに手をかけて、恐る恐る、右の爪先を湯気の中へ。
ㅤ……やっぱり熱い。ひり、としみるくらいに。
でもまったく入れないわけじゃない。
爪先にふれたすのこを沈めながら、ゆっくりと、左足、腰、胸、そして、肩までつかる。
ほぅ……と感嘆を漏らしたときには、もう肩口まで朱に染まっていた。
湯にふれている部分とそうでない部分との境界が、はっきりわかる。
ㅤ身体を取り巻く熱の流体はじんじんと痛いくらいだけど、俺にとっては、熱いくらいがちょうどいい。
ㅤ聞くところによると、蛍灯村の夏は過ごしやすい反面、冬は寒さの厳しい気候にあるらしい。
言われてみれば、いまは7月だけど、うだるような暑さというものを感じた試しがない。
冷房も扇風機があれば充分。
ㅤ朝は肌寒いくらいで、明け方の窓ガラスが結露しているのを初めて見たときは、密かな衝撃を受けたものだ。
いまでは薄手の毛布を使わせてもらっている。冬は極寒というのも、納得がいく。
ㅤそんな経緯もあって、村では一般的に、昔ながらの薪風呂がいまでも使われているとのこと。
温度にして約42℃。
冬場でも、入浴後しばらくTシャツで過ごしても湯冷めしないくらい、身体の芯からあたためてくれるんだって。
ㅤ木ノ本家も例外ではなく、夕飯の支度が始まるのと同時にパチパチと薪の爆ぜる音が聞こえてくるのが、毎日の光景だった。
ㅤ薪を焼べるのは、決まってはとちゃんがしていたように記憶している。
けれどまさかのまさか、薪割りまでしていただなんて。
早朝からジャージ姿で牛乳を一服していた真相だ。ひと汗かいた後の風呂上がりの一杯が、毎日の楽しみらしい。
ㅤこないだご近所のおばあさんが肉じゃがを持ってきたみたいに、てっきり薪も、どこからかもらってきたものだと思っていた。はとちゃんすごい。
「今度から、俺も手伝うよ」
「おっとぉ、華奢な咲くんにできるかなー?」
「説得力ないかもだけど、これでも男だから」
「ふふっ、知ってる。結構力強かったもんね。ごめんごめん」
ㅤはとちゃんにできるなら、俺だってできるはず。というかできないと駄目だろ。
妙な意地と使命感を胸に、俺の薪割りチャレンジは決定した。
ㅤタイル張りの浴室は湯気が立ち込めて、頭上のすりガラスの、少しすきまを空けた向こう側に、はとちゃんがいる。
誰かと話しながらお風呂に入るなんて、不思議な感覚だ。
気恥ずかしいような、ちょっと、新しいような。
ふいに訪れた沈黙に響く焚き火の音も、なんだか、落ち着く。
「随分昔からやってるのか?」
「薪割りのこと?ㅤそうだねぇ、小学生のときからかな。日課みたいなもんだよ。筋トレにもなるし!」
ㅤはとちゃんは、一体なにを目指しているんだろう。
可愛らしい外見とは裏腹に、体育会系的な意味でのアクティブさに驚かされるのは、いまに始まったことじゃない。
「こないだシロアリ退治のお手伝いに行ったんだけどね、お礼に廃材もらったの。かじられちゃって穴ぼこだらけだから、空気の通りがよくて燃えるんだよねぇこれが。冬になったらね、山から杉の葉拾ってきて、茶色になるまで乾燥させるの。で、焚きつけに使うと、すーぐぽっかぽかお風呂が沸くんだよー」
ㅤパチパチ。
火の音を伴奏に、まるで歌っているかのよう。楽しげに話すはとちゃんの様子が目に浮かぶようで、俺まで嬉しい気持ちになる。
「そっか。なんか、いいな。自然と一緒に生きてるみたいで」
「ふっふっふ、そうでしょう、そうでしょう。火にもその日によって気分があるからね。一筋縄じゃ行かないところが、楽しいんですよ!」
ㅤ指先のスイッチひとつで湯加減を調整できるのは、楽でいいだろう。
ㅤでも、毎日が同じより、昨日とは違う炎と向き合って、色んな思いを馳せて。
ひときわ時間に追われる日本人だからこそ、忘れてはいけない大切ななにかが、そこにあるような気がした。
「……あったかい、なぁ」
ㅤ少なくとも、浴室の壁に反響しないつぶやきをこぼしたこのときのぬくもりを、俺は忘れない。
ㅤ
ㅤㅤ*ㅤㅤ*ㅤㅤ*
ㅤはとちゃんたちと過ごすうちに、ひとつわかったことがある。自分は、張り切れば張り切るほど空回るタチだ、ということ。
「……薪割りって、奥が深いんだなぁ」
「プゥ」
ㅤ誰に言ったわけでもない独り言に、まさかの返答があった。言わずもがな、わんぱくなうり坊だ。
「ぷーすけ、いつの間に……うん、上に乗るのをやめようか。実は俺、アスレチックじゃないんだ」
ㅤ庭に面した広縁で、仰向けに身を投げ出した俺の脇腹をよじ登った焦げ茶色の毛玉が、すぃーと滑り降りようとして、落下。尻餅をつく。
まぁ、そうだろうな。俺の腹部は、そう都合のいい傾斜をしていない。
滑り台なら、また別のところで……いや、だから、ぷーすけ。
ㅤなにが面白いのか、懲りずによじ登っては、ぼて、と落ちるのをくり返すぷーすけの首根っこを掴んで、怠い上体を起こす。
その拍子に、額を覆っていた濡れタオルが床板とあいさつを交わした。
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