おやばと

＊26＊ 雷切る少女

「ちょっと突き飛ばしただけだろ？ㅤ大げさじゃね？ㅤ引くわー……」

「突き飛ばした、だけ……？」

ㅤどうしてだろう。同じ日本にいて、日本語を話しているはずなのに、言葉の意味がまったく理解できないなんて。

「――あんた、それでも人間か！ㅤ葵あおいが、どんな思いをしていると……ッ！！」

ㅤきっと痛いだろうに。そんなの、俺ですらわかるのに。
　突き飛ばした罪悪感に苛まれるどころか、嘲るように見下ろして……この男には、血も涙もないのか。
ㅤとたん、全身の血液という血液が沸騰する。
　俺の身体なのに、燃え上がる感情がコントロールできない。

「えぇー……？ㅤだから友好的にお願いしましたよ？ㅤ出すもん出してくれれば大丈夫ですよーって」

ㅤ悪びれもなく話す男は、これ見よがしに肩をすくめて、ニヤリ。口角を持ち上げる。

「つーわけで、拒否したのそっちなんだから、俺悪くないよなぁ？」

「なにを！ㅤ――ッ！？」

ㅤ思えば俺は、もっと早く疑問を持つべきだったんだ。
　鷹たか緒おさんや、葵。いまは俺やつぐみさんも加わって、圧倒的に不利であるはずの男が、どうして余裕を崩さないのか。

「最後の〝交渉〟だ。――古こ庄しょう行広ゆきひろを出せ」

ㅤ誰も答えない。身動きを取れない。

ㅤ……こんなのは、交渉とは言わない。
ㅤ人を人とも思わない薄気味悪い笑みで、冷たい銃口を突きつけるような、取り引きが。

ㅤ状況を飲み込んですぐ、あんなに沸騰していた体温が急低下する。
　……情けない。怖くて動けないなんて。
　それでも、せめて葵の盾にはなれるだろうと、肩へ回した腕に、ぎゅ、と力を込める。

「――それで結構。命を大切に想うのは、当然であって、なかなかできないことだからね。キミは自分の行動をもっと誇りたまえ、ボーイ」

「え……」

ㅤふいのひと言は、一体どこから響いてきたのか。
ㅤわからないけれど、深みのある低音には、酷く聞き覚えがあって。
ㅤ弾かれたように見上げた視界を、横切る朱色。

「お初にお目にかかります、ムッシュ。私は古庄頼光よりみつと申しまして。遠路はるばるお越し頂き、痛み入りますなぁ、はっは。早速ですが、うちの者になにやらご用があるとか？」

　鮮やかな色彩の和傘を手にした壮年の紳士が、男の前に立ちはだかる。

「大変申し上げにくいのですが、今回はお引き取りになられたほうが宜しいでしょう」

「はぁ？ㅤ状況がわかってないのか、あんた」

「ご冗談を。それは私の台詞ですな」

「なんだと？」

「私たちを恐怖で従わせたいにしては、キミはいささか銃を向けるのが早すぎだ、ということだよ。ベイビー？」

「っ、こいつっ……！」

ㅤ反射的に距離を取った男が、銃を構える。
　その先には、頼光さんを捉えて。

「頼光さん……っ！」

「待つんだ、咲えみくん」

「葵！？ㅤでも！」

「大丈夫だから」

ㅤこんな状況なのに、葵は一切取り乱してはいなかった。
　それどころか、落ち着いた様子で俺の腕を引き留める。
　絶望ではない輝きを、瞳に宿して。

「物騒なもの持ってますねぇ、おにーさん」

「なっ……」

ㅤ頼光さんに気を取られていた男は、まさかのまさか。
　背後から突如現れた小柄な影に、反応できるはずもなく。

「――とりゃっ！」

ㅤあっという間に懐へ潜り込んだ少女が、目にも止まらぬ早さで男の右手を蹴り上げる。

「このガキっ！」

「ほいさっと」

「ぐぁっ！？」

ㅤひらり。翻るグレーチェックのスカート。
　つかみかかる手をなんなくかわしたその子は、手にした和傘を、男の鳩尾に容赦なく叩き込んだ。

「はと！」

「わかってる！ㅤまっかせなさい！」

ㅤあえなく撃沈した男に目もくれることなく、彼女は――はとちゃんは、勢いよく地面を蹴る。
　ヒュンヒュンと放物線を描く鉛の塊を、視界に捉えて。

「行くよ、ひろくん――」

ㅤぽとり。向日葵の和傘だったものが、地面に落ちる。
　一瞬思考が停止して、目を疑った。
ㅤ大輪の蕾に隠されていたのは、華奢な少女が手にしていたのは、竹製の柄からすらりと伸びる、鋼の刃。

ㅤ見間違えようもない。あれは――日本刀だ。

「――せぇいッ！！」

ㅤ決着は一瞬。
　可憐な少女が繰り出したとは到底思えない一閃で、虚空に投げ出された銃は両断される。
　同じ鋼と鋼。しかしその硬度と斬れ味の差は、一目瞭然だった。

「え……マジで？ㅤウソだろ……？」

「なにをいまさら驚いてるんだか……」

ㅤただのガラクタと化した鋼の残骸にすっかり腰を抜かしたようで、立ち上がり方すら忘れてしまったかのごとく、ただただ狼狽えるだけ。
　そんな男に、呆れの嘆息をこぼした葵は、絶対零度の声音で追い討ちをかける。

「そこのあんた、光栄に思うことだな。はとこの持つそれは――〝雷切行広らいきりゆきひろ〟。滅多なことじゃお目にかかれない、古庄行広最高傑作の、仕込み脇差わきざしだ」

ㅤあれは、作り物なんかじゃない。

ㅤどうしてはとちゃんが、家の中、自分の部屋にも、肌身離さず持ち歩いていたのか。
　その最たる理由が、いままさに、目前にあった。