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烈火の椿㈠
しおりを挟む「穂花、いらっしゃい」
名を喚ばれた。間違いなく自分の名だ。
はいっ、と言の葉を返す拍子に、ちいさな両手から朱の毛糸玉がこぼれ落ちる。
藺草の畳表を転ぶそれにはもはや残心なく、いとけない少女は鶯張りの縁側を駆け奏でた。
卯月の黄昏時。目をくらませる夕照の向こうから、人影を手繰り寄せる。鹿おどしの余韻に流水がせせらぐ穏やかな庭に、それはふたつ在った。
ひとつは大好きな母のもの。
もうひとつは勿論父のもの――であるはずはない。
「お誕生日おめでとう。穂花に贈りものよ」
穂花は小首をかしげた。庭の向こうまで見渡しても、家の中を振り返っても、それらしいものはない。在るのは、いつもよりひとつ多い人影のみだ。
母の唇はなにも紡がない。そこではたと気づく。母が言うのは贈りものであって、贈り物ではないのだと。
「おくりもの?」
ぎこちなく、鈴の音が転がった。
「如何にも」
母と並び立つ〝おくりもの〟が応える。穂花は大粒の琥珀を見開いた。
お人形なら、どうして動くのだろう。
いつだったか是非にとおねがいした飼い犬の友にしては、自分と姿かたちが似通いすぎている。どうして。なんで。
「これこれ。斯様に首をひねられては、ひっくり返ってしまうぞ」
くすくす……と、木の葉のささやくような笑い声が耳をくすぐる。
転げてしまわぬよう、穂花は下腹部と足底に力を込め、ぐっと背を反らした。
「お初にお目にかかる、吾妹」
〝おくりもの〟は人であった。自分や母と同じ。違うのは母よりも低い声音を響かせ、高い場所から穂花へ頬笑みかけているということ。
「ふふ……あまり見つめられては、穴が空いてしまうのう。わたしが物珍しいか? なれば、傍近くでご覧に入れよう」
ふわりと、ちいさな身体が鶯張りの木板を離れる。重力に逆らい引き寄せられた先で、穂花は〝おくりもの〟の腕にしかと抱かれていた。
規則正しく鼓動を伝える胸元に、母のようなふくらみはない。
「おとこのひと?」
〝おくりもの〟は頬笑み、うなずかずとも肯定した。
間近に迫った顔を、穂花は恐る恐る問うたときのようにのぞき込んだ。
色鮮やかな模様の施された狐の面をしている所為で、顔の右半分が隠れてしまっている。
それでも、萌ゆる翠の髪から自分を映す紅玉の柔らな輝きに、穂花は緊張の糸をほどいた。
「ほのちゃんね、ほのかっていうの」
「良く存じ上げている」
流暢に受け応える彼の者は、母よりも自分に近い年頃の、見目麗しい少年のように見て取れた。
「おにいちゃんは、なんていうの?」
「わたしは名もなき神」
「かみさまなの?」
「如何にも。これよりそなたを主とあおぐ。我が身を生かすも滅ぼすも、御身の思し召されるがままになされませ」
「あるじ……おんみ……おぼし?」
「ふふ、穂花には難しかったわね」
「そのようじゃな」
穂花はたまらず、頬をふくらませる。顔を見合わせ頬笑み合うふたりに、仲間はずれにされたような寂しさがして。
「そのように拗ねられて……かわいいひと。気にふれましたなら謝りましょうぞ。そうじゃな……或るところに花が在るとしましょう。赤、青、白――どの花がお好きか?」
なんと悩ましい問いだろう。ひと口に花と言っても様々であるのに。
抱かれた腕から這い出すように辺りを見渡せば、〝おくりもの〟の肩の向こうに鮮やかな色彩を認める。
椿の生け垣だ。無数にほころぶ大振りの花弁が、天道を歩く茜に染まり、燃えさかる烈火の紅蓮を思わせた。目を貫くような極彩色に、穂花は釘付けとなる。
「あかい、はな」
ほろりとうわ言がこぼれると、目前に在る唇の両端が三日月のように持ち上がる。
「御意のままに」
応えたのはやはり、母とは違う声音だった。高すぎず、例えるならそう、草笛のように心地よい音色。
ふと、そよ風に撫でられた気がした。手をやり、ふれた温もりに瞠目する。
撫でたのはそよ風ではない。華奢ながら、穂花よりもひと回りもふた回りも大きな左の手のひらが、穂花の右のそれとふれあう。
そこで初めて、椿の花を飾られたのだと悟る。先ほどまで見入っていた生け垣で、最も美しく咲いていたもの。
「実に素直で、無垢な吾妹よ。わたしの愛しき細君」
「さいくん……?」
またも〝むずかしいことば〟だ。けれども今度は母も助け船を出さない。ただ、頬笑んでいるだけ。
「我が言霊を以て誓約する。片時も離れず、そなたという花を愛でようと。未来永劫――な?」
美しい少年の姿をした神は、茜の世界から消え失せる。穂花の視界にかからぬほど傍近くで、そのちいさき身体を抱擁せんとす為に他ならぬ。
表情を目の当たりにすることはできない。が、空をあおいだ穂花の脳裏に、柔らな頬笑みと、降り注ぐ夕照のごとく灼熱にたぎる紅蓮の隻眼が、何故か容易に想像された。
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