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513.閑話 とあるアパートの情景5

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「ちょっと何のつもりか知らないけど、うるさいぞ」
声の主は隣人であった。
着崩した服から覗くキスマークが何をしていたか物語っていた。

ジロジロと無遠慮に千晴を眺める視線は千晴にとって
決して気分の良いものではなかった。
「ほう、中々、男好きする女だな。その部屋に何か用あんの?」

イライラを抑えて、千晴はにこやかに答えた。
「ええそうです。ここに住んでいる方をご存じ?」

「部屋に上がれよ。教えてやるからさ。
そっちのしょぼいのは来なくていいぞ」
玄関の奥からなにやら甲高い声が聞えてきた。

「どうも歓迎されない声も聞こえますし、ご遠慮申し上げます」

「ちっまあ、いいや。隣には誰も住んでねーよ。
一度も見たことないし、音すら聞こえたことねーからな」
そう言い残して、男は玄関を閉めた。

「そうなの?」

「そうなのかな」

千晴と慶行は顔を見合わせた。

「そうですよ」

彼等の後ろから聞こえた声に二人ともどきりとして、
恐る恐る振り返った。そこには初老の男が立っていた。

「なんだ、大家さんか。びっくりするじゃないですか」
慶行はほっと一息ついて、落ち着きを取り戻した。
一方で千晴は、胡散臭げに男を見ていた。

「多田さんが入居する前からそこはずっと
どこかの会社が借り上げていますよ。一体に何に使っていることやら」
にこやかな笑みを絶やさずに穏やかな声で大家は慶行と話している。

大家の張り付いたような笑みが千晴には不快であった。
そもそも音もなく背後に立っていた上にあまりにも絶妙なタイミングで
現れたことが千晴にとって不信感しか感じさせなかった。
どこかで監視でもしていたのだろうか、そうとしか思えなかった。

思い切って千晴は言ってみた。
「それはロキメック社ですか?」
。千晴の声は刺々しかったが、大家は相変わらずにこやかであった。
「借主にことを話す訳にはいきませんよ。
お嬢さん、探偵ごっこの真似事をするより
休日はもっと有意義に過ごした方がいいです。
こう年取ってしまってはできないこともありますからね」
大家はおどけて笑った。つられて、慶行も相槌を打って笑った。

千晴はその笑いにイラっとした。
挑発された訳ではない筈であったが、もう一歩踏み込んだ。
「ご忠告ありがとうございます。歳下の彼と会っているのに
のこのこと邪推して現れるのはどうかと思いますよ」

千晴は慶行の腕を取った。
「えっ、ちょっと、佐藤さん」

その声を無視して続けた。
「そうねえ。それと、『ヴェルトール王国戦記』を
運営しているロキメック社がここを借りてるんでしょう。
誠一さんもどうやら向こうで随分と情報を得ているようだし、
擦り合わせれば何か見つかるかも」

大家の表情はにこやかであったが、目が笑っていなかった。
「まあいい、好きにするがいい。どのみち何もわからぬし、変わらぬ」
大家は音もなく階段を降りて行った。

「ちょっとちょっと、佐藤さん。これってどういうことさ。
何であのロキメック社なんて会社が出てくるのさ」
慶行は事情が掴めないようで混乱していた。
そして、大手企業が絡んでいることが彼を不安にさせた。

「あー気にしない気にしない。
ちょっと、『ヴェルトール王国戦記』にはまっててね。
ここら辺のことがゲームのチャットで話題になったから、
ちょっと偵察に来てみたってこと」

慶行は完全にその言葉を信じてはいないようであったが、頷いた。
千晴が帰ることにすると、慶行は駅まで送ると譲らず、2人で駅に向かった。
千晴は上手く話を繋げるために慶行に『ヴェルトール王国戦記』を
プレイすることを勧めた。
「佐藤さん。何か変わったことがあれば連絡入れるからね」

「もしかして慶行さん、ちょっとビビってる?」

「そりゃそうでしょ。ビビってるというか何か気味が悪いよ」
何となく慶行の言うことが千晴にも分かったので、
それ以上は突っ込まずに了解と伝えて、電車に乗った。
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