少女と虎といつか終わる嘘

阿波野治

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山道を登りながら

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 山路を登りながら、こう考えた――。

「嘘をつけよ、漱石……」

 八月初旬の昼下がり、四国の山道を登りながら、沖野真一は苦々しくつぶやいた。
 夏目漱石作『草枕』の有名すぎる冒頭はでたらめだと、実際に山道を登ってみてよく分かった。考えてみれば当たり前だが、延々と続く上り坂を登り続けると疲れる。疲れた頭で高尚なことを考える余裕など、あるはずがないではないか。

「中坊のときに教科書で『草枕』を読んだ時点で、気づいておくべきだったな……」

 あのころの俺は阿呆だった。まぎれもなく阿呆だった。だからこそ、そんな簡単な嘘にさえも気づけなかった。だからこそ、四国の徳島などという辺境の地を一人でほっつき歩いている今がある。

 ニイニイゼミがやかましい。
 四国の本体は四国山地だ。四国地方が描かれた地図を人生で初めてまともに見て、真一は愕然とした。そりゃ人口が少ないはずだよ、とたちどころに納得した。徳島市なんて県庁所在地なのに、俺が生まれ育った加古川くらいの人口しかない。
 真一は四国の地を踏んで以来、山道ばかり歩いてきたといっても過言ではない。セミの鳴き声は常に彼につきまとった。いらいらさせられることも多々あったが、彼がどう感じようとなにを思おうと、どうせ鳴きやまない。どうしようもないものと戦い続ける道を選ぶほど、真一は阿呆ではない。

 水たまりに映る自分の顔を目撃した十五分前から、顔が疲労に歪んでいるのは承知している。すさまじい形相だった。もともとの人相がよろしくないうえに、四国上陸してから一度もひげを剃っていない。

 白衣の上に輪袈裟をつけて、頭には編み笠、手には金剛杖。穿き古したジーンズに履き古したスニーカー、使い古したリュックサックの三点を見て見ぬふりすれば、典型的な四国八十八か所を巡礼する遍路という身なりを真一はしている。四国に向かうにあたって、暑さ対策兼気合いを入れるために頭は丸めているので、菅笠を脱げば、人相の悪い修行僧といった印象を人に与えただろう。

 気合いが入ったコスチュームとはうらはらに、彼は今のところ、一番札所の霊山寺しか立ち寄っていない。遍路を装っている立場上、順路に忠実に歩を進めているが、二番札所以降の札所は全て一顧だにせずに素通りした。御朱印を得ることが目的で始めた四国八十八か所遍路ではないからだ。
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