少女と虎といつか終わる嘘

阿波野治

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咲子の自宅で

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 義務感からでも、会話を交わすのが楽しみだからでもなく、確固たる目的を胸に真一は西島宅へ足を運ぶ。そろそろ夕暮れが始まろうかという時間帯だが、八月の暑気は撤退する気配を見せない。木陰を選んで歩いても勝手に汗が滲んでは流れ落ちる。

 虎が鎮虎祭会場を襲撃したとしたら、虎は小毬の住人の中でも特に咲子に恨みがあるようだから、彼女は殺される可能性が高い。
 しかし真一は、襲撃計画のことを咲子に密告しよう、という気持ちにはなれずにいる。
 嬉々として人間を殺す虎への嫌悪感は健在だ。咲子は小毬で知り合った人物の中で、南那に次いで好感を抱いている人物でもある。それにもかかわらず、少なくとも積極的には、咲子の助けになる行動をとろうとは思わない。

 虎の言いなりになって行動しよう。流れに逆らわずに生きよう。真一はそんな方針を心の中で立てていた。

「ああ、こんばんは」

 出迎えた咲子は、昨日から引き続き機嫌がよさそうだ。本日のTシャツの文言は「小毬地区に心臓を捧げよ」。

「今日も相変わらずの暑さですね。お茶を淹れますから、応接間で待っていてください」

 靴を脱いで上がり、真一は応接間へ。咲子は台所へ。この程度の単独行動を許されるくらいに、彼は彼女からの信頼を得ていた。

「おっ」

 クーラーがきいた一室で、幽霊のような女の肖像画を眺めるともなく眺めながら待っていると、甘い香りが鼻孔に届いた。姿を見せた咲子は、チョコレートケーキがのった皿を両手に持っている。

「そのケーキ、ご自分で買われたんですか? それとも誰かからのプレゼント?」
「自分で買った。食べたかったから、自分へのプレゼントとして。どうせ一人だと食べきれないから」

 同じ地区の住人が二十四人も死んだ翌々日にプレゼントというのも、不謹慎だな。そう思いながら、二枚の皿がテーブルに置かれるのを目で追う。咲子は真一に背を向け、

「飲み物、今日は紅茶にするね。ホットとアイス、どっちがいい?」
「アイスをお願いします」
「了解。わたしはビール飲もっかな」

 咲子は鼻歌を歌いながら退室した。

「浮かれてるなぁ」

 真一はつぶやかずにはいられなかった。アルコールにはあまり強くないので特別な場でしか飲まない、という話を咲子は過去にしていた。「特別な場」を広く解釈したならば、やはり浮かれているという評価が妥当なのだろう。

 咲子が上機嫌なのは、ほぼ百パーセント、虎退治の目途がついたからだろう。
 彼女は、真一の虎を殺す力が偽物とは知らずに喜んでいる。そう思うと罪悪感が込み上げてくる。ほのかに頭が痛みはじめたのは、冷房がききすぎているせいだけではないはずだ。とてもではないがケーキを楽しむ気分にはなれない。

 やはり、虎の襲撃計画のことを伝えるべきでは?
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