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再会と下心
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後ろ姿が曲がり角に消えたのを見届けて、ドアを閉める。トレイをサイドテーブルに、己の尻をベッドの縁に下ろし、アリスの腋の下を持って目の高さにかざす。脱力しているので、四肢は下方にだらりと垂れるが、首はちゃんと座っているので、がっつり目が合う。
「おい、びっくりしたぞ。金沢駅のコインロッカーに預けたはずなのに、どうしてここに?」
「色々あったの」
「色々ってなんだよ。どんなハチャメチャな大冒険を繰り広げたんだ?」
「話せば長くなるけど、構わないかしら」
「話してみろよ。カレーを食いながら聞くから」
「遡ること約百五十億年前、高温・高密度の状態だった初期宇宙は――」
「やっぱりいいです」
アリスをベッドに下ろし、寝かせてやる。全身が弛緩しているのだから、その姿勢が一番楽なはずだ。
「とにかくまあ、無事でよかったよ。カレー食おっと」
トレイをサイドテーブルの手前に引き寄せたとき、驚愕の事実が判明する。スプーンがないのだ。
「おい、アリス。宇宙誕生の秘密じゃなくて、スプーンの在り処を探すのを手伝ってくれ。このホテルのスプーン、どうも透明らしくて、どこにも見当たらないんだ」
「最初からついていなかったのよ。持ってくるよう電話で頼むか、素手で食べるか、そのどちらかね」
「今時インドでもあんまりないぜ、素手でカレーは。いや、インドの最新の食事情には詳しくないんだけども。お前、口からスプーン出せないの? なんなら箸でも可」
「仮に出せたとして、タモツはそのスプーンで食事できるの?」
「いや、タモツじゃねぇし。……ま、いっか」
2050年には日本を抜いて、世界第三位の経済大国になると予想されているインドに敬意を表して、素手でカレーを食べ始める。インド本国でも普通にスプーンで食べている気はするが、ないものは仕方がない。「まずい学食風」の名に恥じない、一種絶妙な不味さだが、空腹だから食べられることは食べられる。
「アリス、お前も食うか? スプーンないけど」
アリスは怠そうに頭を振り、
「わたしは食べなくても平気だから」
「遠慮するなって。晩飯、まだなんだろ?」
「まだだけど、わたしは空気と水さえあれば生きられるから」
「なんじゃそりゃ」
アリスと無駄話をしながら、ひたすらカレーを食う。空腹が解消されるに伴い、不味さに対する苦痛が高まってきたが、機械的に右手を動かして胃の腑に送り込む。偏に、食器を片づけに来た古謝さんを悲しませたくなかったから。
『お気遣いなく。暇で暇で仕方ないので、喜んでかけ持ちしているのです』
古謝さんの声と微笑みが脳裏に甦る。笑顔は時として花に喩えられるが、古謝さんのそれは綿菓子を連想させる。口に入れたらきっと甘いんだろうな、とろけるんだろうな。……なんてね。
なんとか食べ切り、ルウまみれの手を洗う。洗っても、洗っても、カレーくささが消えない。まるで呪いをかけられたかのようだ。
諦めてベッドまで引き返し、仄かにカレーくさい手で受話器を掴む。フロントに電話をかける。
「もしもし、フロントの古謝さんですか」
「はい、フロントの古謝です」
「カレーを食べ終わったので、すみませんけど、食器を片づけに来てください。あ、ちなみに俺が言ったカレーっていうのは、比喩的表現じゃなくて、文字通りの……」
「かしこまりました。すぐに伺います」
通話が切られる。ふう、と息をつき、アリスの方を向く。
「というわけでアリスちゃん、これから古謝さんが部屋に来る。お前も薄々気づいているとは思うが――」
「あのお姉さんとセックスしたいの?」
「オブラートに包みなさい、オブラートに」
「性交したいの?」
「翻訳しただけじゃねぇか。……とにかくまあ、まあとにかく、古謝さんと仲良くなりたいわけですよ」
「それで?」
「邪魔はするなよってこと。できれば積極的にサポートしてほしいところだけど、アリスには難しいでしょ。全身ぐにょぐにょだもん」
「邪魔なんてしないわ。その代わり、アキラに頼みたいことがあるんだけど」
「俺は小林――まあいいや。言ってみなさい」
「明日、東京ドームでラビッツとパンサーズの試合があるから、それに連れて行ってほしいんだけど」
「東京ドーム? 野球?」
「そう、野球。あなたの家であなたと対面したとき、『頼みたいことがある』と言ったでしょう。あれはこのことだったの」
「そういえば言ってたね、そんなことも。一悶着あったせいですっかり忘れてたっす。それにしても、なんで俺と?」
「一人で行けるものなら一人で行くけど、わたしは全身が弛緩していて、他人の力を借りなければ移動もままならないから」
「ああ、そう。そういうことなら連れて行ってやってもいいぜ。明日は特に予定はないし、連れがいるなら野球観戦も悪くないと思っていたところだし。じゃあ、取引成立ということで」
ドアがノックされた。トレイを手に猛ダッシュ、到着とほぼ同時にドアが開かれ、訪問者は案の定、古謝さん。まずトレイを見、次いで俺の顔を見、
「食器、廊下まで持ってきてくれたんですね。そこまでしていただかなくても結構なのに」
と、心から恐縮したように言う。
「いやあ、手持ち無沙汰だったんで自分で持ってきました」
「ご親切に、ありがとうございます。でも多分、私の方が手持ち無沙汰の度合いが強いと思うわ」
小さく笑ってトレイを受け取り、軽く頭を下げる。立ち去ろうとする古謝さんを俺は呼び止めた。
「一階まで一緒に行きません? お互い、大いに時間に余裕があるようなので。それとも、そこまで暇ではないですか」
古謝さんは困惑の色を顔に浮かべたが、すぐにそれを消して頭を振り、
「ううん、とっても暇。一緒に来てくださると嬉しいわ」
「では、お供させてもらいます。あ、トレイ俺が持ちます」
「そこまでしていただかなくても……」
言葉とは裏腹に、トレイを奪われる古謝さんの両手は一切の抵抗を示さなかった。親しみのこもった微笑みを俺へと投げかけ、静かに歩き出す。
室内に目を転じると、アリスは仰向けの姿勢のまま、右手の親指をぐっと突き立てた。こちらも同じポーズでそれに応え、ドアを閉める。
古謝さんは十歩ほど先で待ってくれている。小走りで追いつき、並んで歩き出した。
「おい、びっくりしたぞ。金沢駅のコインロッカーに預けたはずなのに、どうしてここに?」
「色々あったの」
「色々ってなんだよ。どんなハチャメチャな大冒険を繰り広げたんだ?」
「話せば長くなるけど、構わないかしら」
「話してみろよ。カレーを食いながら聞くから」
「遡ること約百五十億年前、高温・高密度の状態だった初期宇宙は――」
「やっぱりいいです」
アリスをベッドに下ろし、寝かせてやる。全身が弛緩しているのだから、その姿勢が一番楽なはずだ。
「とにかくまあ、無事でよかったよ。カレー食おっと」
トレイをサイドテーブルの手前に引き寄せたとき、驚愕の事実が判明する。スプーンがないのだ。
「おい、アリス。宇宙誕生の秘密じゃなくて、スプーンの在り処を探すのを手伝ってくれ。このホテルのスプーン、どうも透明らしくて、どこにも見当たらないんだ」
「最初からついていなかったのよ。持ってくるよう電話で頼むか、素手で食べるか、そのどちらかね」
「今時インドでもあんまりないぜ、素手でカレーは。いや、インドの最新の食事情には詳しくないんだけども。お前、口からスプーン出せないの? なんなら箸でも可」
「仮に出せたとして、タモツはそのスプーンで食事できるの?」
「いや、タモツじゃねぇし。……ま、いっか」
2050年には日本を抜いて、世界第三位の経済大国になると予想されているインドに敬意を表して、素手でカレーを食べ始める。インド本国でも普通にスプーンで食べている気はするが、ないものは仕方がない。「まずい学食風」の名に恥じない、一種絶妙な不味さだが、空腹だから食べられることは食べられる。
「アリス、お前も食うか? スプーンないけど」
アリスは怠そうに頭を振り、
「わたしは食べなくても平気だから」
「遠慮するなって。晩飯、まだなんだろ?」
「まだだけど、わたしは空気と水さえあれば生きられるから」
「なんじゃそりゃ」
アリスと無駄話をしながら、ひたすらカレーを食う。空腹が解消されるに伴い、不味さに対する苦痛が高まってきたが、機械的に右手を動かして胃の腑に送り込む。偏に、食器を片づけに来た古謝さんを悲しませたくなかったから。
『お気遣いなく。暇で暇で仕方ないので、喜んでかけ持ちしているのです』
古謝さんの声と微笑みが脳裏に甦る。笑顔は時として花に喩えられるが、古謝さんのそれは綿菓子を連想させる。口に入れたらきっと甘いんだろうな、とろけるんだろうな。……なんてね。
なんとか食べ切り、ルウまみれの手を洗う。洗っても、洗っても、カレーくささが消えない。まるで呪いをかけられたかのようだ。
諦めてベッドまで引き返し、仄かにカレーくさい手で受話器を掴む。フロントに電話をかける。
「もしもし、フロントの古謝さんですか」
「はい、フロントの古謝です」
「カレーを食べ終わったので、すみませんけど、食器を片づけに来てください。あ、ちなみに俺が言ったカレーっていうのは、比喩的表現じゃなくて、文字通りの……」
「かしこまりました。すぐに伺います」
通話が切られる。ふう、と息をつき、アリスの方を向く。
「というわけでアリスちゃん、これから古謝さんが部屋に来る。お前も薄々気づいているとは思うが――」
「あのお姉さんとセックスしたいの?」
「オブラートに包みなさい、オブラートに」
「性交したいの?」
「翻訳しただけじゃねぇか。……とにかくまあ、まあとにかく、古謝さんと仲良くなりたいわけですよ」
「それで?」
「邪魔はするなよってこと。できれば積極的にサポートしてほしいところだけど、アリスには難しいでしょ。全身ぐにょぐにょだもん」
「邪魔なんてしないわ。その代わり、アキラに頼みたいことがあるんだけど」
「俺は小林――まあいいや。言ってみなさい」
「明日、東京ドームでラビッツとパンサーズの試合があるから、それに連れて行ってほしいんだけど」
「東京ドーム? 野球?」
「そう、野球。あなたの家であなたと対面したとき、『頼みたいことがある』と言ったでしょう。あれはこのことだったの」
「そういえば言ってたね、そんなことも。一悶着あったせいですっかり忘れてたっす。それにしても、なんで俺と?」
「一人で行けるものなら一人で行くけど、わたしは全身が弛緩していて、他人の力を借りなければ移動もままならないから」
「ああ、そう。そういうことなら連れて行ってやってもいいぜ。明日は特に予定はないし、連れがいるなら野球観戦も悪くないと思っていたところだし。じゃあ、取引成立ということで」
ドアがノックされた。トレイを手に猛ダッシュ、到着とほぼ同時にドアが開かれ、訪問者は案の定、古謝さん。まずトレイを見、次いで俺の顔を見、
「食器、廊下まで持ってきてくれたんですね。そこまでしていただかなくても結構なのに」
と、心から恐縮したように言う。
「いやあ、手持ち無沙汰だったんで自分で持ってきました」
「ご親切に、ありがとうございます。でも多分、私の方が手持ち無沙汰の度合いが強いと思うわ」
小さく笑ってトレイを受け取り、軽く頭を下げる。立ち去ろうとする古謝さんを俺は呼び止めた。
「一階まで一緒に行きません? お互い、大いに時間に余裕があるようなので。それとも、そこまで暇ではないですか」
古謝さんは困惑の色を顔に浮かべたが、すぐにそれを消して頭を振り、
「ううん、とっても暇。一緒に来てくださると嬉しいわ」
「では、お供させてもらいます。あ、トレイ俺が持ちます」
「そこまでしていただかなくても……」
言葉とは裏腹に、トレイを奪われる古謝さんの両手は一切の抵抗を示さなかった。親しみのこもった微笑みを俺へと投げかけ、静かに歩き出す。
室内に目を転じると、アリスは仰向けの姿勢のまま、右手の親指をぐっと突き立てた。こちらも同じポーズでそれに応え、ドアを閉める。
古謝さんは十歩ほど先で待ってくれている。小走りで追いつき、並んで歩き出した。
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