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三人一緒に
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廊下は靴音がよく響いた。いくつもの客室の前を通り過ぎたが、人がいる気配は伝わってこない。
「お客さん、今晩は何組くらい泊まっているんですか?」
「一組だけです。つまり、あなただけ」
「それは意外ですね。立地もいいし、ロビーには蜜柑の木だって生えているのに」
「ここ以上に魅力的なホテルはいくらでもありますから。屋内に蜜柑の木があるのは多分ここだけだと思うけど、集客には繋がらないし」
角を三つ曲がったところで古謝さんの足が止まる。目の前にあるのは、非常階段の扉。いかにも重たそうなそれを、古謝さんの両手が開く。片手が塞がった俺のために、閉じないように両手で押さえてくれる。その配慮に会釈で感謝の意を示し、素早く内側に滑り込む。古謝さんもそれに続き、扉が閉まる。
「こっちよ」
古謝さんは上り階段を指差し、上り始めた。あれっ、と思った。ここは最上階だし、ロビーは一階にあるのに。軽い混乱に見舞われたが、従業員である古謝さんが「こっちよ」と言ったのだから、こっちでないはずがない。黙って後ろに従う。
「なぜ『リア』に泊まったんですか? この界隈に宿泊施設は山のようにあるのに」
最初の踊り場を過ぎたところで、古謝さんが尋ねてきた。頭に紙風船を括りつけた少女に追われて――と言いかけたが、一から説明をするのは面倒くさい。凄まじく面倒くさい。
「一口に言えば、観光ですね」
「どちらからお越しに?」
「徳島です。分かります? 徳島」
「ええ、分かります。私、学生時代の一番の得意科目は地理だったから。うどんが名物でしょう」
「それは香川ですね」
「あ、ごめんなさい。うどんじゃなくて、かつおだったわね。あの坂本竜馬を輩出したことでも有名な――」
「高知じゃないですか、それ」
「ごめんなさい。でも、今度こそ分かったわ。蜜柑が特産品の――」
「愛媛ですね。蜜柑が特産品の県はいっぱいありますけど、多分、愛媛のつもりで言ってますよね」
「あら……。ごめんなさいね。私、勘違いしていたみたい」
少し照れたように笑う。わざとなのか天然なのかは分からないが、かわいいのでよしとする。かわいいは正義、これ真理。
「今日はどちらまで行かれたんですか?」
「どこへも行ってないです。移動に時間を食っちゃったんで」
「そうですか。では、明日はどちらまで行かれるご予定ですか?」
「東京ドームへ野球を観に行くつもりです」
「野球、か。もうそんな季節なのね」
「シーズンが開幕したばっかりですし、盛り上がっているんじゃないですか」
「あら。あまり興味がないような口振りね」
「はい、正直言って。なんか、東京駅でチラシ配っていたんですよ。『洩れなくなんでも無料にできます』とかいうチラシを。ドーム球場で野球を観たことは一度もなかったので、いい機会かな、と」
「そうだったの。でも、野球って試合時間が長いし、興味がない人には退屈じゃない?」
「かもしれません。でも、誰か気の置けない人と一緒だったら、長時間でも平気だと思うんです」
立ち止まる。音を立てないように唾を飲み下し、そして、
「そういうわけで、野球、古謝さんも一緒に観に行きません?」
えっ、という声。止まる両足。注がれる眼差し。
俺は古謝さんの顔を見返すことができない。静かなので、心臓が早鐘を打っているのが分かって、うわー、と思う。
「気を遣ってくれたの?」
沈黙を破ったのは、遠慮がちな古謝さんの声。
「私が暇だ暇だと連呼するものだから、気を遣って誘ってくれたの?」
「いえ、そういうわけではないんですけど――なんかすみません。仕事もあるのに、野球観戦だなんて」
「有給を取れば問題ないわ。でも、私なんかと一緒でいいの?」
確認を求めたその声からは、誘いを不快に思っている気配は微塵も感じられない。不快に思ってほしくないという願望がそう錯覚させたのではなく、正真正銘不快に思っていない声だった。古謝さんの顔を見て話す勇気が復活した。
「いいに決まってるじゃないですか。ただ、二人きりじゃなくて、アリスと三人でということになるんですけど」
「アリスって、私がカレーライスと一緒にお運びした、アリスちゃんのこと?」
「はい、あのアリスです。……駄目ですかね?」
「そんなことないわ。人数は多い方が楽しいもの」
弾んだ声、小首を傾げての微笑み。俺の全身は温かな薔薇色の光に包まれた。
仕事は明日の午前十時で区切りがつくので、古謝さんが支度を整える時間も考慮して、正午に待ち合わせ。場所は東京ドームの前。合流後、どこか適当な店で昼食をとり、二時から試合を観戦。試合が終わったら夕食。夕食後は、時間が許す限り都内を観光し、遅くならないうちに解散。
階段を上りながら話し合った結果、明日の予定はそのようにまとまった。
ほどなくして、古謝さんは踊り場で足を止めた。壁に穴が空いている。体を縮めれば大人でも通れる大きさの、人為的に穿たれたと思われる真四角の穴だ。
古謝さんは躊躇なく穴を潜った。あとに続くと、潜り抜けた先はロビーだった。
九階から階段を上り続けて、なぜ一階に辿り着けたのだろう? 全くもって不可解だが、とにかくロビーなのは間違いない。なぜならば、片隅の床から蜜柑の木が生えている。
「ここまでで結構です。ありがとうございました」
古謝さんは恭しく頭を下げ、何分かぶりにトレイを取り戻す。
「明日、楽しみにしています。おやすみなさい」
古謝さんはフロントカウンターの奥へと消え、俺は部屋に帰った。
「アリス、朗報だ。古謝さんも一緒に東京ドームに行くことになったよ」
「そう」
「なんだよ、素っ気ないな。美人のお姉さんと一緒に野球観戦だぜ? しかも東京ドーム。最高じゃね?」
「フミヒトがそう思うなら、それが正しいんじゃないかしら」
「誰だよ、フミヒトって」
若干テンションが下がってしまったが、古謝さんの同行に不賛成の意を示したわけではないのだから、腹を立てる理由はない。
以後、日付が変わったのを潮に消灯するまで、室内でだらだらと過ごした。テレビ、オセロ、金沢駅で一旦別れてからどう過ごしたかの報告――まあ、そんなところだ。
「お客さん、今晩は何組くらい泊まっているんですか?」
「一組だけです。つまり、あなただけ」
「それは意外ですね。立地もいいし、ロビーには蜜柑の木だって生えているのに」
「ここ以上に魅力的なホテルはいくらでもありますから。屋内に蜜柑の木があるのは多分ここだけだと思うけど、集客には繋がらないし」
角を三つ曲がったところで古謝さんの足が止まる。目の前にあるのは、非常階段の扉。いかにも重たそうなそれを、古謝さんの両手が開く。片手が塞がった俺のために、閉じないように両手で押さえてくれる。その配慮に会釈で感謝の意を示し、素早く内側に滑り込む。古謝さんもそれに続き、扉が閉まる。
「こっちよ」
古謝さんは上り階段を指差し、上り始めた。あれっ、と思った。ここは最上階だし、ロビーは一階にあるのに。軽い混乱に見舞われたが、従業員である古謝さんが「こっちよ」と言ったのだから、こっちでないはずがない。黙って後ろに従う。
「なぜ『リア』に泊まったんですか? この界隈に宿泊施設は山のようにあるのに」
最初の踊り場を過ぎたところで、古謝さんが尋ねてきた。頭に紙風船を括りつけた少女に追われて――と言いかけたが、一から説明をするのは面倒くさい。凄まじく面倒くさい。
「一口に言えば、観光ですね」
「どちらからお越しに?」
「徳島です。分かります? 徳島」
「ええ、分かります。私、学生時代の一番の得意科目は地理だったから。うどんが名物でしょう」
「それは香川ですね」
「あ、ごめんなさい。うどんじゃなくて、かつおだったわね。あの坂本竜馬を輩出したことでも有名な――」
「高知じゃないですか、それ」
「ごめんなさい。でも、今度こそ分かったわ。蜜柑が特産品の――」
「愛媛ですね。蜜柑が特産品の県はいっぱいありますけど、多分、愛媛のつもりで言ってますよね」
「あら……。ごめんなさいね。私、勘違いしていたみたい」
少し照れたように笑う。わざとなのか天然なのかは分からないが、かわいいのでよしとする。かわいいは正義、これ真理。
「今日はどちらまで行かれたんですか?」
「どこへも行ってないです。移動に時間を食っちゃったんで」
「そうですか。では、明日はどちらまで行かれるご予定ですか?」
「東京ドームへ野球を観に行くつもりです」
「野球、か。もうそんな季節なのね」
「シーズンが開幕したばっかりですし、盛り上がっているんじゃないですか」
「あら。あまり興味がないような口振りね」
「はい、正直言って。なんか、東京駅でチラシ配っていたんですよ。『洩れなくなんでも無料にできます』とかいうチラシを。ドーム球場で野球を観たことは一度もなかったので、いい機会かな、と」
「そうだったの。でも、野球って試合時間が長いし、興味がない人には退屈じゃない?」
「かもしれません。でも、誰か気の置けない人と一緒だったら、長時間でも平気だと思うんです」
立ち止まる。音を立てないように唾を飲み下し、そして、
「そういうわけで、野球、古謝さんも一緒に観に行きません?」
えっ、という声。止まる両足。注がれる眼差し。
俺は古謝さんの顔を見返すことができない。静かなので、心臓が早鐘を打っているのが分かって、うわー、と思う。
「気を遣ってくれたの?」
沈黙を破ったのは、遠慮がちな古謝さんの声。
「私が暇だ暇だと連呼するものだから、気を遣って誘ってくれたの?」
「いえ、そういうわけではないんですけど――なんかすみません。仕事もあるのに、野球観戦だなんて」
「有給を取れば問題ないわ。でも、私なんかと一緒でいいの?」
確認を求めたその声からは、誘いを不快に思っている気配は微塵も感じられない。不快に思ってほしくないという願望がそう錯覚させたのではなく、正真正銘不快に思っていない声だった。古謝さんの顔を見て話す勇気が復活した。
「いいに決まってるじゃないですか。ただ、二人きりじゃなくて、アリスと三人でということになるんですけど」
「アリスって、私がカレーライスと一緒にお運びした、アリスちゃんのこと?」
「はい、あのアリスです。……駄目ですかね?」
「そんなことないわ。人数は多い方が楽しいもの」
弾んだ声、小首を傾げての微笑み。俺の全身は温かな薔薇色の光に包まれた。
仕事は明日の午前十時で区切りがつくので、古謝さんが支度を整える時間も考慮して、正午に待ち合わせ。場所は東京ドームの前。合流後、どこか適当な店で昼食をとり、二時から試合を観戦。試合が終わったら夕食。夕食後は、時間が許す限り都内を観光し、遅くならないうちに解散。
階段を上りながら話し合った結果、明日の予定はそのようにまとまった。
ほどなくして、古謝さんは踊り場で足を止めた。壁に穴が空いている。体を縮めれば大人でも通れる大きさの、人為的に穿たれたと思われる真四角の穴だ。
古謝さんは躊躇なく穴を潜った。あとに続くと、潜り抜けた先はロビーだった。
九階から階段を上り続けて、なぜ一階に辿り着けたのだろう? 全くもって不可解だが、とにかくロビーなのは間違いない。なぜならば、片隅の床から蜜柑の木が生えている。
「ここまでで結構です。ありがとうございました」
古謝さんは恭しく頭を下げ、何分かぶりにトレイを取り戻す。
「明日、楽しみにしています。おやすみなさい」
古謝さんはフロントカウンターの奥へと消え、俺は部屋に帰った。
「アリス、朗報だ。古謝さんも一緒に東京ドームに行くことになったよ」
「そう」
「なんだよ、素っ気ないな。美人のお姉さんと一緒に野球観戦だぜ? しかも東京ドーム。最高じゃね?」
「フミヒトがそう思うなら、それが正しいんじゃないかしら」
「誰だよ、フミヒトって」
若干テンションが下がってしまったが、古謝さんの同行に不賛成の意を示したわけではないのだから、腹を立てる理由はない。
以後、日付が変わったのを潮に消灯するまで、室内でだらだらと過ごした。テレビ、オセロ、金沢駅で一旦別れてからどう過ごしたかの報告――まあ、そんなところだ。
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