アリス・イン・東京ドーム

阿波野治

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着席したはいいが

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 東京ドームに戻って最初にやったことは、チケットの購入だ。
 洩れなくなんでも無料にできるという凄い効果を持っていても、チラシは所詮チラシ、それを見せてもドームに入ることはできない。ドームに入らないことにはチラシは使えないのだから、嫌でもチケットを買うしかない。東京駅で兎たちにチラシの無料配布を命じたX氏の策略恐るべし、と言うべきだろう。
 チケットの有無を売り場のおばちゃんに尋ねたところ、「ありますよー」とのことだったので、ありがたく購入させてもらう。

「試合開始までまだ一時間近くありますけど、どうします? 極東アラブサミットでも覗いていきます?」
「あら、そんなイベントがあるのね」
「ああっ、違います! 古謝さん、俺が欲しいのはそのツッコミじゃないっ!」

 地域名が二つくっついているからイベントの概要が推測しづらいわね、とか、駱駝がたくさんいるのはそれが理由だったの、とか、そういう返しが欲しかったのだが――小首を傾げてきょとんとしている顔がかわいいので、許した。

「提案しといてなんですけど、また移動するのも面倒だし、早いけど中に入っちゃいません? 駱駝の糞が臭いし」
「そうね。それがいいわ」

 アリスも異論を述べなかったので、ドームの中へ。
 観客席に足を踏み入れての第一印象は、広い、だった。当たり前だ。収容人数五万人のドームなのだから。幅、奥行き、高さ、いずれもたっぷりと確保されていて、閉塞感は全くない。
 グラウンドが見える。人工芝の緑色が眩しい。内外野に人が散っている。選手たちが試合前のウォーミングアップなり練習なりを行っているのだろう。

「私たちの席、ずっと前よ。行きましょう」

 古謝さんの胸に抱かれたアリス、アリスを胸に抱いた古謝さん、俺という順番で、前列へと向かう階段を下りていく。

 ざっと見たところ、座席は半分ほど埋まっている。ラビッツの白いレプリカユニフォームを着ている人もいれば、パンサーズの黒いレプリカユニフォームを着ている人もいる。東京ドームだけあって前者が多数派らしい。変わり種では、青銅の甲冑に身を包んだ人、全身にボディペイントを施した真っ裸のおばさん、侍のコスプレをした兄ちゃん、などもいた。
 試合が始まるまでの時間を有意義に消費するために彼らがしていることは、色々だ。流しそうめんの竹のレールに群がっている若者たちがいれば、ブルーシートに鼠の屍骸を並べて販売している老婆もいるし、魚肉ソーセージでフェンシングの練習をしている頭髪の侘びしい中年男性がいたかと思えば、無表情でただひたすら金ぴかのランプをこすっているがりがりに痩せた年齢不詳の女もいる、といった具合で、挙げればきりがない。

「まだ早い時間なのに、大勢の人が訪れているのね」

 古謝さんが静かに言う。独り言か否か、微妙だったので、「そうですね」と小声で答えておく。
 観客の風貌や様態について丸ごとスルーしたことからも察しがつくように、古謝さんは異常に対する耐性が強い。いつ何時も無表情を崩さないアリスも、まあ似たようなものだろう。センシティブなのは俺一人だけ――と言いたいところだが、昨日から結構なハイペースで珍妙な出来事に遭遇してきたせいで、感覚が麻痺してきた。事実、甲冑男や流しそうめんを見ても、

「なにやってんだ、こいつら」

 という感じで、

「えっ!? なに? なに? 意味分かんないんだけど」

 というような、混乱や恐慌からは程遠い。戸棚の中にアリスを発見したのが昨日の昼過ぎだから、まだ一日と少ししか経っていないのだが。短時間で変わりすぎだろう、小林大気くんよ。
 バックネットに目を転じれば、レプリカユニフォーム姿のファンが大勢へばりついている。グラウンドにいる選手を少しでも近くから見てやろう、という魂胆のもとに集結しているのだろう。
 そのバックネットのすぐ手前、最前列の三つが、俺たちに割り当てられた席だった。

「バックネット裏席じゃないですか。うわー!」

 にわかにテンションが上がった。

「ここ、テレビの野球中継でよく映る席ですよ。アリスの脱力した姿がお茶の間に流れるかもしれないな、これは。凄くない?」

 二人の女の顔を順番に見たが、

「あ、そうなんだ。いい席なのね」

 古謝さんはお茶漬けみたいにさらっと返答し、

「そう」

 本来ならばノーリアクションなところを、やけにハイテンションで話しかけてくるので仕方なく、といったふうにアリスは呟いた。

「……やれやれ」

 微苦笑とともに着席する。右から、俺、アリス、古謝さん、という並びだ。本当は古謝さんの隣がよかったのだが、大人二人子供一人の組み合わせだと、子供をサンドウィッチする形で座らないとなにか不自然な感じになってしまうので、仕方なしにその配置に甘んじた格好だ。 

「……見えないですねぇ」

 俺は呟いた。着席後、三人の口から最初に洩れた言葉がそれだった。

「見えないわね」
「見えないわ」

 古謝さんとアリスも同じらしい。
 そう、見えないのだ。最前列にもかかわらず、俺たちの席からはグラウンドの様子が全く見えないのだ。グラウンドにいる選手たちをなるたけ近い距離から見るべくバックネットに貼りついた熱心なファン、彼らの体によって、我々三名の真正面に一種の壁が築かれているせいで。
 たとえ熱心な野球ファンではなくても、球場を訪れたからには、グラウンドが見えないよりも見えた方がいいに決まっている。とはいえ、試合が既に始まっているならまだしも、プレイボールの合図がかかっていない段階で、彼らに文句を言うのは憚られる。だからといって、熱心な野球ファンでもないのに、わざわざ壁が築かれていない場所に移動してグラウンドを眺めるのもどうなのか。
 三人の中で唯一野球に興味があるらしいアリスが「見たい」と一言訴えてくれれば、アクションを起こす大義名分ができるのだが、なにも言わない。観客席に足を踏み入れてから席に着くまでの間、つまりグラウンドの様子が見えていた間は、無感情なりに真剣な目で、試合前の練習を行う選手たちを眺めていたのだが。

「蜘蛛の子を散らすっ!」

 などと唐突に叫んでみたものの、壁が雲散霧消するはずは勿論なく、古謝さんとアリスに怪訝な目で見られ、誤魔化し笑いを浮かべる結果に終わった。試合開始予定時刻まで、あと半時間少々。
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