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田丸選手
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ふと前を向くと、いつの間にか、バックネットに群がっていたレプリカユニフォーム軍団が一人残らず消えている。
だから気がついた。だからこそ気がつけた。
バックネットに破れ目があるではないか。野球のボールは勿論、体を縮めれば大人も通過可能な大きさの、正方形の破れ目、それがちょうど俺の真正面に。
「なあ、アリスちゃん」
顔をアリスに、利き手の人差し指を破れ目に向ける。
「唐突な質問で恐縮だけども、あの破れ目はなんのためにあるのかな」
「ああ、バックネットの穴のことね」
アリスの物言いは至極悠長だ。
「存在理由は分からないけど、あそこからボールが飛び込んできたら、まず間違いなく観客に直撃するでしょうね」
「なに呑気なこと言ってんの。そうなった場合、位置的に、直撃を食らう羽目になるのは俺だぜ? 直撃はまずいでしょ、直撃は。下手したら死ぬんじゃね?」
「その可能性も大いにあると思うわ」
「大いにあると思うわ、じゃねぇよ。どうすりゃいいんだよ。こんなときの対処法、学校で習ったか?」
「未就学児のわたしに学校のことを訊かないで」
「肝心なときに役に立たないなあ、もう。……いや、マジでどうすんだよ」
破れ目に顔を戻した途端、目が合った。破れ目の先に顔があり、こちらを見ている。男の顔だ。明るい茶色に染めた髪の毛を後頭部に撫でつけている。細く整えられた眉が凛々しい。その下の瞳は穏やかだ。
上半身を乗り出し、バックネットの向こう側に広がる世界を覗き込む。破れ目越しに見えたグラウンドの地面は、観客席の床よりも随分低くなっていて、オールバック氏の両足はそこを踏み締めていた。着ているのは、ラビッツの純白のユニフォーム。
「その子、かわいいね」
微笑ましげに細めた目をアリスに注ぎ、オールバック氏が話しかけてきた。
「あっ、はい! かわいいですよねー」
「こんにちは。お名前は?」
続いてアリスに話しかけたが、話しかけられた方は無反応。檻の中にいる猛獣を眺めているかのような態度だ。
「あっ、すみません。こいつ、人見知りなんです。ていうか、プロ野球選手に話しかけられたから緊張してる的な? ははは……」
緊張という言葉を口にした瞬間、緊張しているのは他ならぬ自分だと気がつく。子供のころは親父に付き合ってプロ野球中継を観ていたし、今でもメジャーリーグの試合はたまに見ている。NPBの方はすっかりご無沙汰になってしまったので、現在話しているのが誰なのかは分からないが。
「気にしないで。僕がこの子の立場だったら、この子と同じだっただろうから」
オールバック氏は俺に視線を合わせてきた。
「その子の名前は?」
「アリスです」
「アリスちゃんか。かわいい子だね。君の妹?」
「いえ、いつの間にか戸棚の中に」
怪訝そうな顔で見返してきたので、慌てて頭を振る。
「いや、違うんです。なんか、なんて言うか……すみません。俺も緊張しちゃって」
「いいんだよ。気にしないでね」
鷹揚に微笑む。気を遣ってくれているのだろうが、あからさまな作り笑いという感じでもない。
「アリスちゃん、うちのチームカラーの服で身を固めてくれているけど、嬉しいね。いいよね、ピンク色。子供が着ると、男の子でも女の子でもとても似合う」
「あれっ? ラビッツのチームカラーって白じゃ……」
えっ、という声。オールバック氏は見開いた目で俺を見つめ、
「ラビッツのビジター用のユニフォームはピンク色だよ。知らなかったのかい?」
ひゃあ、と思った。
バックネット裏席という、いい席に陣取っている。チームカラーの一つであるピンク色の服を子供に着せている。以上の二点から、「こいつはうちのチームの熱烈なファンだな」と判断したからこそ、オールバック氏は俺に話しかけてきたに違いない。だのに俺というやつは……。
悪事を働いたわけでもないのに額に汗が滲む。オールバック氏は沈黙してしまった。気まずい空気が流れたが、それを吹き飛ばすかのように、
「田丸! 客に油売ってる暇があるなら、練習しなさいよ!」
野次が飛んだ。中年女性の声だ。やかましいが、笑いを含んだ、からっとした印象の野次。それに少し遅れて、発言の趣旨に同意を示すかのように、控えめな笑声が複数こぼれた。
「なんにせよ」
野次の主に向けられていた顔が正面に戻された。微苦笑が浮かんでいる。
「わざわざ球場に足を運んでくれたんだ。野球、好きなんだろう? いい試合を見せるから、最後まで楽しんでいってくれよ」
軽く手を上げ、オールバック氏――田丸選手は一塁ベンチへ去っていった。
「おい、どうしたんだよ、黙っちゃって」
すぐさま、からかうようにアリスに声をかける。
「選手から話しかけられて、緊張したの? かわいいところあるんだな、お前も」
「わたしが関心を持っているのは、野球選手ではなくて野球だから」
「またまた。お前さ、実は無愛想っていうよりはシャイなだけ――おっ」
ウグイス嬢の声が聞こえてきたと思ったら、本日の両チームのスターティングラインアップの紹介が始まった。一人の名前が呼ばれるたびにスコアボードに選手名が表示され、ラビッツの選手たちが次々とベンチから出てきては己の守備位置へと走っていく。
ラビッツのスタメンの紹介が済み、パンサーズのスタメンの紹介に移ったが、スコアボードに田丸選手の名前はない。
「残念だねー、アリスちゃん。田丸選手、スタメンじゃないみたい」
でも、球場に来ているということはベンチ入りしているということだから、試合を観ていればどこかで出番もあるはずだ。……多分ね。
パンサーズのスタメンの紹介が終わり、地元の少年野球チームに所属しているらしい野球少年がマウンドに上がり、山なりのボールを外角に投じて大役を務め上げた。入れ替わりにラビッツの先発ピッチャーがマウンドに上がり、ピッチング練習を行う。一旦バッターボックスを外していた一番バッターが帰還し、主審がプレイボールを宣告。試合が始まった。
そして、遅まきながら気がつく。
「――古謝さん」
そう、古謝さん。トイレに行った古謝さんがまだ席に戻っていないではないか。
「なあ、アリス。古謝さん、どうしちゃったのかな」
「さあ」
「いや、そこは『大きい方をしているんじゃない』って言うところだろ。で、俺が『デリカシーがないやつだな!』ってブチ切れる」
アリスはノーリアクション。侮蔑の言葉を返されるよりも馬鹿にされている気がする。
「冗談は置いといて、マジでどうしたんだろうな。古謝さんは天然っぽいけど、しっかりしてるところはしっかりしてるから、迷子とかではないと思うんだけど」
「カツミがそう思うなら、信じて待てばいいと思うわ」
「……そうだな」
カツミじゃないけど。
だから気がついた。だからこそ気がつけた。
バックネットに破れ目があるではないか。野球のボールは勿論、体を縮めれば大人も通過可能な大きさの、正方形の破れ目、それがちょうど俺の真正面に。
「なあ、アリスちゃん」
顔をアリスに、利き手の人差し指を破れ目に向ける。
「唐突な質問で恐縮だけども、あの破れ目はなんのためにあるのかな」
「ああ、バックネットの穴のことね」
アリスの物言いは至極悠長だ。
「存在理由は分からないけど、あそこからボールが飛び込んできたら、まず間違いなく観客に直撃するでしょうね」
「なに呑気なこと言ってんの。そうなった場合、位置的に、直撃を食らう羽目になるのは俺だぜ? 直撃はまずいでしょ、直撃は。下手したら死ぬんじゃね?」
「その可能性も大いにあると思うわ」
「大いにあると思うわ、じゃねぇよ。どうすりゃいいんだよ。こんなときの対処法、学校で習ったか?」
「未就学児のわたしに学校のことを訊かないで」
「肝心なときに役に立たないなあ、もう。……いや、マジでどうすんだよ」
破れ目に顔を戻した途端、目が合った。破れ目の先に顔があり、こちらを見ている。男の顔だ。明るい茶色に染めた髪の毛を後頭部に撫でつけている。細く整えられた眉が凛々しい。その下の瞳は穏やかだ。
上半身を乗り出し、バックネットの向こう側に広がる世界を覗き込む。破れ目越しに見えたグラウンドの地面は、観客席の床よりも随分低くなっていて、オールバック氏の両足はそこを踏み締めていた。着ているのは、ラビッツの純白のユニフォーム。
「その子、かわいいね」
微笑ましげに細めた目をアリスに注ぎ、オールバック氏が話しかけてきた。
「あっ、はい! かわいいですよねー」
「こんにちは。お名前は?」
続いてアリスに話しかけたが、話しかけられた方は無反応。檻の中にいる猛獣を眺めているかのような態度だ。
「あっ、すみません。こいつ、人見知りなんです。ていうか、プロ野球選手に話しかけられたから緊張してる的な? ははは……」
緊張という言葉を口にした瞬間、緊張しているのは他ならぬ自分だと気がつく。子供のころは親父に付き合ってプロ野球中継を観ていたし、今でもメジャーリーグの試合はたまに見ている。NPBの方はすっかりご無沙汰になってしまったので、現在話しているのが誰なのかは分からないが。
「気にしないで。僕がこの子の立場だったら、この子と同じだっただろうから」
オールバック氏は俺に視線を合わせてきた。
「その子の名前は?」
「アリスです」
「アリスちゃんか。かわいい子だね。君の妹?」
「いえ、いつの間にか戸棚の中に」
怪訝そうな顔で見返してきたので、慌てて頭を振る。
「いや、違うんです。なんか、なんて言うか……すみません。俺も緊張しちゃって」
「いいんだよ。気にしないでね」
鷹揚に微笑む。気を遣ってくれているのだろうが、あからさまな作り笑いという感じでもない。
「アリスちゃん、うちのチームカラーの服で身を固めてくれているけど、嬉しいね。いいよね、ピンク色。子供が着ると、男の子でも女の子でもとても似合う」
「あれっ? ラビッツのチームカラーって白じゃ……」
えっ、という声。オールバック氏は見開いた目で俺を見つめ、
「ラビッツのビジター用のユニフォームはピンク色だよ。知らなかったのかい?」
ひゃあ、と思った。
バックネット裏席という、いい席に陣取っている。チームカラーの一つであるピンク色の服を子供に着せている。以上の二点から、「こいつはうちのチームの熱烈なファンだな」と判断したからこそ、オールバック氏は俺に話しかけてきたに違いない。だのに俺というやつは……。
悪事を働いたわけでもないのに額に汗が滲む。オールバック氏は沈黙してしまった。気まずい空気が流れたが、それを吹き飛ばすかのように、
「田丸! 客に油売ってる暇があるなら、練習しなさいよ!」
野次が飛んだ。中年女性の声だ。やかましいが、笑いを含んだ、からっとした印象の野次。それに少し遅れて、発言の趣旨に同意を示すかのように、控えめな笑声が複数こぼれた。
「なんにせよ」
野次の主に向けられていた顔が正面に戻された。微苦笑が浮かんでいる。
「わざわざ球場に足を運んでくれたんだ。野球、好きなんだろう? いい試合を見せるから、最後まで楽しんでいってくれよ」
軽く手を上げ、オールバック氏――田丸選手は一塁ベンチへ去っていった。
「おい、どうしたんだよ、黙っちゃって」
すぐさま、からかうようにアリスに声をかける。
「選手から話しかけられて、緊張したの? かわいいところあるんだな、お前も」
「わたしが関心を持っているのは、野球選手ではなくて野球だから」
「またまた。お前さ、実は無愛想っていうよりはシャイなだけ――おっ」
ウグイス嬢の声が聞こえてきたと思ったら、本日の両チームのスターティングラインアップの紹介が始まった。一人の名前が呼ばれるたびにスコアボードに選手名が表示され、ラビッツの選手たちが次々とベンチから出てきては己の守備位置へと走っていく。
ラビッツのスタメンの紹介が済み、パンサーズのスタメンの紹介に移ったが、スコアボードに田丸選手の名前はない。
「残念だねー、アリスちゃん。田丸選手、スタメンじゃないみたい」
でも、球場に来ているということはベンチ入りしているということだから、試合を観ていればどこかで出番もあるはずだ。……多分ね。
パンサーズのスタメンの紹介が終わり、地元の少年野球チームに所属しているらしい野球少年がマウンドに上がり、山なりのボールを外角に投じて大役を務め上げた。入れ替わりにラビッツの先発ピッチャーがマウンドに上がり、ピッチング練習を行う。一旦バッターボックスを外していた一番バッターが帰還し、主審がプレイボールを宣告。試合が始まった。
そして、遅まきながら気がつく。
「――古謝さん」
そう、古謝さん。トイレに行った古謝さんがまだ席に戻っていないではないか。
「なあ、アリス。古謝さん、どうしちゃったのかな」
「さあ」
「いや、そこは『大きい方をしているんじゃない』って言うところだろ。で、俺が『デリカシーがないやつだな!』ってブチ切れる」
アリスはノーリアクション。侮蔑の言葉を返されるよりも馬鹿にされている気がする。
「冗談は置いといて、マジでどうしたんだろうな。古謝さんは天然っぽいけど、しっかりしてるところはしっかりしてるから、迷子とかではないと思うんだけど」
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「……そうだな」
カツミじゃないけど。
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