アリス・イン・東京ドーム

阿波野治

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試合中の異変

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 古謝さんの不在に対するスタンスが定まったからといって、はい、腰を据えて試合を観戦、というわけにもいかない事情がある。
 目の前に、大きな破れ目があるバックネットがある座席で、野球を観戦した場合における最大の関心事項は、なんぞや? 言うまでもなく、ファウルボールが自分のところまで飛んでこないか否かだ。

 試合開始当初、俺はびくびくしていた。気が気ではなかった。ピッチャーよ、お前が投じる全てのボールでバッターから空振りを奪え。全員三球三振、都合八十一球で完全試合を達成してしまえ。そう念じたほどだ。
 しかし願いもむなしく、パンサーズの一番バッターは初球に対してコンパクトにスイングし、白球にバットを当てた。

「うっひゃあ!」

 思わず声が出たが、打球は弱い球足でセカンドの真正面に転がり、小柄なセカンドが堅実に捕球そして送球、長身のファーストがしっかりとキャッチ、一塁塁審はアウトのジェスチャーとコール。胸を撫で下ろす結果となった。

 一回の表は、ツーアウトからランナーが出たものの、結局無得点に終わった。先頭バッターを含む四人のバッターは、合計六回ファールを打ったが、バックネット方向には一球も飛んでこなかった。バックネットに破れ目があることを知っている田丸選手がベンチから念を送ってくれた御陰か、単なる偶然か、そもそもその方向にファールボールは滅多に飛ばないものなのか。とにかくこの様子であれば、被害に遭うことなく、試合終了まで座席に座り続けるのも夢物語ではなさそうだ。

 パンサーズの先発ピッチャーは、カリブ海に浮かぶ、経済的には決して豊かではないが平穏な暮らしが営まれている島が生まれ故郷で、MLBに挑戦するもマイナーリーグ暮らしから抜け出せず、活躍の場を求めて遙々極東の島国までやって来た、そんな物語を想像してしまう、巨体の黒人選手。百科事典のドレッドヘアの項目に載せる説明写真の被写体に選びたいような、見事なドレッドヘアだ。
 とにかくストレートが速く、ラビッツの一番バッターを振り遅れ気味の空振り三振に仕留めたが、コントロールに難があるようで、続く二番と三番に連続フォアボール。ピンチを作ってしまったが、ボールに力があるのは確かなようで、四番バッターを速球で詰まらせてダブルプレイに打ち取り、初回にもかかわらず力のこもったガッツポーズ。一回の表裏の攻防が終わった。

 試合はどこか緩慢に進行していった。しかし、その緩慢さに身を委ねる気分にはなれない。古謝さんが戻ってこない限り、なれそうもない。

『なあ、アリス。古謝さんの様子を見に行った方がよくない?』

 そう切り出したいが、

『試合開始までに戻ってこなかったくらいで、大げさよ。子供ではないのだから、放っておけばいいと思うわ』

 冷ややかに反論されるのは分かり切っている。無表情ながらも真剣な面持ちで試合を観ているアリスを邪魔したくない、という思いもあった。
 心配はきっと杞憂に終わる。せっかく東京ドームに足を運んだのだから、野球観戦に集中しよう。楽しもう。
 なんとなくすっきりしない気持ちながらも、そう自らに言い聞かせた。

 グラウンドに異変が起きたのは、二回表の攻撃が終わってすぐのことだ。

「なんだ……?」

 バックネット前に人が集結したのだ。顔ぶれは、小太りで短躯の男、痩躯で眼鏡をかけた男、球審、一塁塁審、二塁塁審、三塁塁審、以上六名。小太り短躯はパンサーズの監督、痩躯眼鏡はラビッツの監督らしい。
 手を伸ばせば全員が全員の尻に触れるほどの近さで固まった彼らは、観客席からは聞こえない声で、なにやら盛んに言葉を交わしている。どの顔も真剣そのものだ。

「なにやってんだろうな、あれ」

 観客席が少しざわつき始めた中、アリスに問いかける。返事はない。野球観戦が初めてなのだから分からなくて当然だ。野球観戦経験が何回もある俺も初めて見る光景なのだから。
 話し合いは五分ほどけりがつき、六名はそれぞれがいるべき場所に戻った。観客には一切説明がないまま、二回裏のラビッツの攻撃が始まった。

 あまりにも何事もなかったかのように試合が再開されたので、新しいイニングになって早々、二監督と四審判による話し合いが行われた事実を俺は綺麗に忘れた。が、アウトカウントが三つになった直後に思い出すこととなる。前回と同じ六名が同じ場所に集まり、またしても立ち話を始めたのだ。

 二回目の話し合いは五分が経っても終わらなかった。六名の顔つきも、真剣を通り越して深刻だ。観客席は大いにざわついている。状況が呑み込めず不安で堪らない、そんなざわつき方だ。
 状況が呑み込めず不安で堪らないのは俺も同じだ。グラウンドで現在行われている六者会談と、古謝さんがトイレから戻ってこないこと、この二つには関連がある気がしてならない。アリスに意見を求める心のゆとりさえなかった。

 話し合いが始まって十分が経過し、六人はやっとのことで散り散りになった。前回と同様、試合は何事もなかったかのように再開されたが、再開後もざわめきは完全には沈静しなかった。

 ラビッツのピッチャーがランナーを出しながらも無得点に抑え、スコアボードに五つめの零が刻まれたのを潮に、俺は決然と腰を上げた。アリスがこちらを向く。古謝さんを捜しに行く旨を伝えようとした、次の瞬間、場内放送が流れた。

「試合を観戦しているお客様にお願いです。田舎者の観戦は試合時間が長引く原因となりますので、できるだけ速やかにドームの外に出てください。また、ドーム内に田舎者がいるのを見かけた方は、直ちに警備員に報せるようお願い申し上げます。繰り返します。田舎者の観戦は――」

 瞬時にして古謝さんの問題が意識の外に追いやられた。俺にとって、場内放送の内容はそれほどまでに不可解だった。

 田舎者の観戦は試合が長引く原因となりますので、できるだけ速やかにドームの外に出てください、だって? わざわざ地方から観戦に訪れた客に向かって、なんという言い草だ。百歩譲って――いや、百歩じゃ到底足りないが、便宜的に百歩譲って、田舎者は試合を長引かせるような行動を取ることは謹んでください、ならまだ分かる。だが、田舎者の観戦は試合が長引く原因となりますので、とはどういうことなのか。まるで田舎者の存在そのものが害悪だと言わんばかりではないか。とんでもない偏見だ。あるまじき差別だ。
 いたいけな田舎者になんの怨みがあるんだ、場内放送の文面を考えたX氏は。田舎者に親でも殺されたのか? んなアホな。

 試合は現在、三回の裏。試合が始まってもうじき一時間半、というところだ。試合展開が遅いのは確かだが、遅すぎるというほどでもない。両軍のピッチャーが毎回ランナーを出しているのに加えて、二度の六者会談による中断があったのが原因であって、田舎者が悪いわけでは断じてない。それなのに、なんなんだ? あのアホな内容の場内放送は。

 馬鹿げたアナウンスが流された理由が気にならないといえば嘘になるが、今はアホの相手をしている場合ではない。古謝さんを見つけ出さねば。移動を開始する。
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