アリス・イン・東京ドーム

阿波野治

文字の大きさ
20 / 28

試合中の異変

しおりを挟む
 古謝さんの不在に対するスタンスが定まったからといって、はい、腰を据えて試合を観戦、というわけにもいかない事情がある。
 目の前に、大きな破れ目があるバックネットがある座席で、野球を観戦した場合における最大の関心事項は、なんぞや? 言うまでもなく、ファウルボールが自分のところまで飛んでこないか否かだ。

 試合開始当初、俺はびくびくしていた。気が気ではなかった。ピッチャーよ、お前が投じる全てのボールでバッターから空振りを奪え。全員三球三振、都合八十一球で完全試合を達成してしまえ。そう念じたほどだ。
 しかし願いもむなしく、パンサーズの一番バッターは初球に対してコンパクトにスイングし、白球にバットを当てた。

「うっひゃあ!」

 思わず声が出たが、打球は弱い球足でセカンドの真正面に転がり、小柄なセカンドが堅実に捕球そして送球、長身のファーストがしっかりとキャッチ、一塁塁審はアウトのジェスチャーとコール。胸を撫で下ろす結果となった。

 一回の表は、ツーアウトからランナーが出たものの、結局無得点に終わった。先頭バッターを含む四人のバッターは、合計六回ファールを打ったが、バックネット方向には一球も飛んでこなかった。バックネットに破れ目があることを知っている田丸選手がベンチから念を送ってくれた御陰か、単なる偶然か、そもそもその方向にファールボールは滅多に飛ばないものなのか。とにかくこの様子であれば、被害に遭うことなく、試合終了まで座席に座り続けるのも夢物語ではなさそうだ。

 パンサーズの先発ピッチャーは、カリブ海に浮かぶ、経済的には決して豊かではないが平穏な暮らしが営まれている島が生まれ故郷で、MLBに挑戦するもマイナーリーグ暮らしから抜け出せず、活躍の場を求めて遙々極東の島国までやって来た、そんな物語を想像してしまう、巨体の黒人選手。百科事典のドレッドヘアの項目に載せる説明写真の被写体に選びたいような、見事なドレッドヘアだ。
 とにかくストレートが速く、ラビッツの一番バッターを振り遅れ気味の空振り三振に仕留めたが、コントロールに難があるようで、続く二番と三番に連続フォアボール。ピンチを作ってしまったが、ボールに力があるのは確かなようで、四番バッターを速球で詰まらせてダブルプレイに打ち取り、初回にもかかわらず力のこもったガッツポーズ。一回の表裏の攻防が終わった。

 試合はどこか緩慢に進行していった。しかし、その緩慢さに身を委ねる気分にはなれない。古謝さんが戻ってこない限り、なれそうもない。

『なあ、アリス。古謝さんの様子を見に行った方がよくない?』

 そう切り出したいが、

『試合開始までに戻ってこなかったくらいで、大げさよ。子供ではないのだから、放っておけばいいと思うわ』

 冷ややかに反論されるのは分かり切っている。無表情ながらも真剣な面持ちで試合を観ているアリスを邪魔したくない、という思いもあった。
 心配はきっと杞憂に終わる。せっかく東京ドームに足を運んだのだから、野球観戦に集中しよう。楽しもう。
 なんとなくすっきりしない気持ちながらも、そう自らに言い聞かせた。

 グラウンドに異変が起きたのは、二回表の攻撃が終わってすぐのことだ。

「なんだ……?」

 バックネット前に人が集結したのだ。顔ぶれは、小太りで短躯の男、痩躯で眼鏡をかけた男、球審、一塁塁審、二塁塁審、三塁塁審、以上六名。小太り短躯はパンサーズの監督、痩躯眼鏡はラビッツの監督らしい。
 手を伸ばせば全員が全員の尻に触れるほどの近さで固まった彼らは、観客席からは聞こえない声で、なにやら盛んに言葉を交わしている。どの顔も真剣そのものだ。

「なにやってんだろうな、あれ」

 観客席が少しざわつき始めた中、アリスに問いかける。返事はない。野球観戦が初めてなのだから分からなくて当然だ。野球観戦経験が何回もある俺も初めて見る光景なのだから。
 話し合いは五分ほどけりがつき、六名はそれぞれがいるべき場所に戻った。観客には一切説明がないまま、二回裏のラビッツの攻撃が始まった。

 あまりにも何事もなかったかのように試合が再開されたので、新しいイニングになって早々、二監督と四審判による話し合いが行われた事実を俺は綺麗に忘れた。が、アウトカウントが三つになった直後に思い出すこととなる。前回と同じ六名が同じ場所に集まり、またしても立ち話を始めたのだ。

 二回目の話し合いは五分が経っても終わらなかった。六名の顔つきも、真剣を通り越して深刻だ。観客席は大いにざわついている。状況が呑み込めず不安で堪らない、そんなざわつき方だ。
 状況が呑み込めず不安で堪らないのは俺も同じだ。グラウンドで現在行われている六者会談と、古謝さんがトイレから戻ってこないこと、この二つには関連がある気がしてならない。アリスに意見を求める心のゆとりさえなかった。

 話し合いが始まって十分が経過し、六人はやっとのことで散り散りになった。前回と同様、試合は何事もなかったかのように再開されたが、再開後もざわめきは完全には沈静しなかった。

 ラビッツのピッチャーがランナーを出しながらも無得点に抑え、スコアボードに五つめの零が刻まれたのを潮に、俺は決然と腰を上げた。アリスがこちらを向く。古謝さんを捜しに行く旨を伝えようとした、次の瞬間、場内放送が流れた。

「試合を観戦しているお客様にお願いです。田舎者の観戦は試合時間が長引く原因となりますので、できるだけ速やかにドームの外に出てください。また、ドーム内に田舎者がいるのを見かけた方は、直ちに警備員に報せるようお願い申し上げます。繰り返します。田舎者の観戦は――」

 瞬時にして古謝さんの問題が意識の外に追いやられた。俺にとって、場内放送の内容はそれほどまでに不可解だった。

 田舎者の観戦は試合が長引く原因となりますので、できるだけ速やかにドームの外に出てください、だって? わざわざ地方から観戦に訪れた客に向かって、なんという言い草だ。百歩譲って――いや、百歩じゃ到底足りないが、便宜的に百歩譲って、田舎者は試合を長引かせるような行動を取ることは謹んでください、ならまだ分かる。だが、田舎者の観戦は試合が長引く原因となりますので、とはどういうことなのか。まるで田舎者の存在そのものが害悪だと言わんばかりではないか。とんでもない偏見だ。あるまじき差別だ。
 いたいけな田舎者になんの怨みがあるんだ、場内放送の文面を考えたX氏は。田舎者に親でも殺されたのか? んなアホな。

 試合は現在、三回の裏。試合が始まってもうじき一時間半、というところだ。試合展開が遅いのは確かだが、遅すぎるというほどでもない。両軍のピッチャーが毎回ランナーを出しているのに加えて、二度の六者会談による中断があったのが原因であって、田舎者が悪いわけでは断じてない。それなのに、なんなんだ? あのアホな内容の場内放送は。

 馬鹿げたアナウンスが流された理由が気にならないといえば嘘になるが、今はアホの相手をしている場合ではない。古謝さんを見つけ出さねば。移動を開始する。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

思いを込めてあなたに贈る

あんど もあ
ファンタジー
ファナの母が亡くなった二ヶ月後に、父は新しい妻とその妻との間に生まれた赤ん坊を家に連れて来た。義母は、お前はもうこの家の後継者では無いと母から受け継いだ家宝のネックレスを奪うが、そのネックレスは……。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

聖女の、その後

六つ花えいこ
ファンタジー
私は五年前、この世界に“召喚”された。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

今更……助けてくれと……言われても……

#Daki-Makura
ファンタジー
出奔した息子から手紙が届いた…… 今更……助けてくれと……言われても……

処理中です...