塵埃抄

阿波野治

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床屋の豚

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 伸び放題に伸びた髪の毛を切るべく、大介は行きつけの理髪店に足を運んだ。だが店のシャッターは降ろされ、臨時休業を報せる貼り紙が貼ってあった。彼は仕方なく、向かいの床屋の扉を押し開けた。
 店内は狭く、雑然としていて、椅子は一脚しか置かれていない。店の奥から、美容師の卵、といった風情の若い女性が現れた。笑顔が可愛らしく、愛想がよかったので、大介は好感を持った。椅子に腰を下ろし、希望する髪型を伝える。女性は戸棚から鋏と櫛を取り出し、大介の髪の毛を切り始めた。腕前はいいようだった。
 二人は談笑しつつ、髪の毛を切り、切られた。大介は向かいの理髪店が臨時休業していたことを話題にした。その途端、女性は表情を曇らせ、口を閉ざした。道具を操る両手だけが動く。
「私の祖父が、父から--つまり私の曾祖父から聞いた話によると、曾祖父は、戦時中は中国に派兵されていたそうです。任務はもっぱら食料調達で、山で野生の豚などを狩っていた、ということでした」
 突然、女性は重々しい口調で話し始めた。
「その話を祖父から伝え聞いた時は、戦争なのに人を殺さなかった曾祖父は偉い、と思いました。でも日本兵の中には、深刻な食料不足のために、人間の肉を食べた者もいたという事実を知った時、こう思ったんです。曾祖父の言った『豚』とは人間のことだったのではないか、と」
 語尾がくぐもった。異常を感じ、大介は振り返った。
 女性は床に四つん這いになっていた。血走った目を見開き、偶蹄類のように口を蠢かせている。ぴたりと合わさった上下の唇の隙間から何本もの髪の毛が飛び出ている。
 視線がぶつかった。
 大介は顔を醜く歪め、鼻孔をひくつかせながら「ぶうぶう」と鳴いて命乞いをした。
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