塵埃抄

阿波野治

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アムステルダムの虎

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 晴天に恵まれた初秋の昼下がり。アムステルダム郊外の田舎道を、一組の老夫婦がのんびりとした歩調で歩いていた。寄り添い、和やかに言葉を交わす姿は、いかにも仲睦まじそうだ。
「ねえ、見て」
 夫人が立ち止まり、右手を指差した。夫も足を止め、連れ合いの人差し指が指す方角に顔を向ける。遥か彼方に見える丘の上に、風車が一基、ぽつんと建っている。十字形の羽根が緩やかに回転している。
「あの風車、なぜ回っているのかしら。風は吹いていないようだけど」
 夫人は真顔で連れ合いに疑問をぶつけた。二人が立っている場所は無風だった。
「丘の上では吹いているんじゃないか」
「でも、回り方が不自然じゃありません? 自然の風は強弱が一定ではないはずなのに、あの風車の羽根はずっと同じスピードで回っているでしょう」
「遠くからだからそう見えるだけだよ。さあ、そろそろ行こう」
 促したが、夫人はその場から動こうとしない。真剣そのものの顔で風車を凝視し続けている。
 もう一度呼びかけようとした時、夫はただならぬ気配を感じた。振り向くと、道に面した芝生の上に、一匹の大きな虎が座っていた。小さな瞳で二人をじっと見ている。
 虎が腰を上げた。二人がいる方にゆっくりと向かってくる。
「おい、虎だ! 虎がいるぞ! 早く逃げないと、食い殺される!」
 夫は夫人の体を激しく揺さぶったが、彼女の視線は風車から外れない。
 虎が早足になった。恐怖に堪えきれなくなり、夫はその場から逃げ出した。数十メートルほど走って振り返ると、虎が夫人を組み伏せ、彼女の頭部をばりばりと噛み砕いていた。悲鳴を上げ、走行速度を上げた。
「妻は食べられてしまった!」
 脇目も振らずに全速力で走りながら、夫は叫ぶ。
「風車に気を奪われたがために、虎に食べられてしまった!」
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