鏖の季節

阿波野治

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 手を動かしているあいだは、円盤状の刃が緩慢に回転する映像が脳裏をちらついた。感情の高ぶりと人体の硬さに邪魔され、作業は捗らない。しかし、時間が経てば経つほど熱は冷めていき、平熱に復したころに切断を完了した。長々と息を吐き、生首の髪の毛を鷲掴みにして道に出た。

 平穏に生きたい。
 そんな願いを持つ真理愛にとって、今後の人生は試練の連続となるだろう。川真田家の惨劇も、川真田樹音や森嶋隼人の死も、いずれは露見する。重要参考人として湯田真理愛の名前が挙がるのは間違いない。樹音以外の人間を殺したのは事実なのだから、ひとたび警察の手に落ちたが最後、真理愛は平穏な暮らしから遠ざかる。もしかすると、一生縁がないままかもしれない。

「……嫌だ」
 捕まりたくない。逃げなければ。
 でも、どこへ?

 この町に引っ越してくる前に住んでいた町?
 ――父親が責任を追及された事故のことを考えれば、あの町にはもう戻れない。
 トモノリが住まう小屋?
 ――彼はもう死んだ。
 学校?
 ――加害者と傍観者しかいない場所になど、たとえ加害者が死に絶えたとしても行くのはごめんだ。

 では、どこへ行けばいい? どこへ逃げればいい?

「……家だ」
 自宅。この町の住宅地に建つ、湯田家。
 あそこなら、自分専用のベッドがある。家族も待っている。靖彦は愚痴ばかりだし、無理やりコミュニケーションをとろうとしてくるのが煩わしいが、そろそろ飽きるころだろう。麻子の諦めきった態度は不愉快だが、気にしなければいい。両親となら、どうにか折り合いをつけて共生できる。
 どうしても難しいようなら、鏖にしてしまえばいい。
 思い出したが、そういえば、ダイニングの電球をまだ交換していないのだった。両親は一向に着手しようとしないから、あれはきっと真理愛の仕事なのだろう。仕事が残っているのだから、帰ってはならない理由はない。

 血塗れの包丁を手にしたまま、真理愛は走り出した。
 実際は町の中心地へ向かう下りの山道だが、頭の中では、サツキツツジが植えられた通りを疾駆している。色鮮やかな赤い花は一輪残らず茶色く枯れ、人通りは途絶え、静謐さが空間を領している。
 活気のない、音のない、色のない世界。
 それでも真理愛は希望を手放していない。

 すみれの花言葉をネットで検索したさいについでに調べたから、真理愛は知っている。赤色のサツキツツジの花言葉は「幸福」だということを。開花期は五月から六月にかけてで、今はまだ六月に入ったばかりだから、枯れるにはまだ少し早い季節だということを。

 明るくなったダイニングで、笑いたかった。
 新品のようにまっさらな服、返り血に彩られた服、どちらを着ているのだとしても。
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