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石橋での出来事
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購入済みの商品が入ったレジ袋を手に再入店し、食材を新たに調達する。四個入りパックの生卵、カット済みの焼き豚、インスタントの白いご飯。昼食にチャーハンを作ろうと思い立ったのだ。
金欠ではあるが、まだガスは止められていないし、調理道具も最低限揃っている。普段の食事を外食とインスタント食品と菓子パンに依存しているが、ごく簡単な料理ならば作れるので、時折は台所に立った。具体的に言えば、天気のいい日、早起きをした日、上機嫌な日などに。
何とまあ、分かりやすい男だろう。
帰り道は、市内を流れる唯一の川に架かる石橋を通ることにした。理由は特にない。何となく、そうしたい気分だったから。その一言に尽きる。
橋の南側の歩道の路面に、一辺が一メートルほどの正方形の青いビニールが貼られた箇所がある。ビニールの四隅には鉄製の鋲が刺さり、路面に固定されている。ブルーシートを真四角に切り取ったものと推察されるが、辺があまりにも直線的なので、あるいは最初からその大きさだったのかもしれない。
僕はこれまでに、何度となくこの石橋を渡ったが、ビニールを踏んだことは一度もない。踏むと何かが起きる、というわけではないのだろうが、踏んでも構わないのか否か不明だし、踏まなければならない理由もないからだ。
ビニールの下の路面は幾らか窪んでいるので、まとまった雨が降ると、降り止んだ後には小さな水溜まりができる。それを目にするたび、僕の心はほのぼのと和む。
ここ数日は終日晴天に恵まれているので、蟻塚を横切るアフリカゾウのような無関心さでビニールの脇を通り過ぎる。
直後、前方に異物を認め、思わず足が止まった。
橋の袂に、人間よりも大きな塊が鎮座している。
引き返せ! もう一人の僕が狂ったように警鐘を打ち鳴らす。
一方で、一度渡ると決めた橋を渡らないのは、禁忌を犯す行為だという気がする。
引き返すのは、塊の正体を把握してからでも遅くない。
勇気を奮い立たせ、数歩進んだところで、塊の正体が判明した。虎だ。
なぜ、こんなところに虎が?
そんなこと、実際に虎に遭遇した人間は考えない。考える余裕などない。
虎の種類は定かではない。ベンガルトラとスマトラトラとアムールトラの相違など、僕に分かるはずもない。
確かなのは、虎は自らの足元に転がった塊を食らっている、ということ。
塊というより、肉塊。
肉塊ではなく、人間。
咀嚼音、血なまぐささ、骨が破砕される音――堰を切ったように情報が流れ込み、質の悪い、それでいて仄かに甘美な眩暈に襲われ、足元がふらついた。
食べられている人物は、俯せなので顔は見えないが、若い男性だ。短く切り揃えた墨色の頭髪をヘアスタイリング剤でセットし、ダークグレイのスーツにマンゴー色のネクタイという服装。スマートフォンを右耳に宛がい、盛んに動く唇は紫色に変色している。
「だから、何度も言っているだろう。交換可能なのだよ、万物は」
男性が喋っている間も、虎は休みなく口を動かす。あっと言う間に両脚を食い尽くし、股間に牙を突き立てた。
「難しいことではない。小学校の理科さ。氷は水になり、水は水蒸気になる。水蒸気は水になり、水は氷になる。その法則を応用すればいいだけの話だ」
性器を噛みちぎられたのを境に、男性の声は苦しげなものに変わった。腹が食い破られ、青黒い腸が溢れ出す。それもすぐに食いちぎられ、噛み砕かれ、嚥下される。
「観念が硬直してしまっているのが諸悪の根源なのだよ。枠を取り払いたまえ。精神を解き放ち、自由に泳ぎ回らせた結果、成った形、それが自ずと意味を」
声が断ち切られた。喉笛が食い破られたのだ。虎は最後まで残った頭部を咥え、顔を天に向けたかと思うと、豪快に丸呑みにした。虎と、男性のスマートフォンと、両手にレジ袋を提げた僕がその場に残された。
虎は右の前脚を使って、猫が食後にする要領で口元の掃除を始めた。
口腔に溜まった唾を慎重に飲み下す。
音を立てないようにレジ袋を握り直し、抜き足差し足で歩き出す。虎が顔を洗うのに気を取られている隙に、目の前を通り過ぎようと考えたのだ。引き返すという選択肢も浮かんだが、即刻候補から外した。なぜかは分からない。恐らく、石橋を渡るルートを通って帰ることにしたのと同じ理由なのだろう。
眼前に差しかかった瞬間、虎は前脚を下ろして僕を直視した。視線が重なった。澄んだエメラルドグリーンの瞳に凝視された瞬間、両の靴底が地面に釘づけになった。
宝石のような双眸が揺るぎなく僕を見つめる。体を一ミリも動かせない。尋常ならざる緊張感の中、聞こえるのは虎の規則的な呼吸音のみだ。牙と牙の間から洩れる生温かい呼気が首筋にかかる。唸り声にも似た音が呼吸音に混ざり始めた。
突然、虎が大きく上体を起こし、二本脚で立った。わあっ、という情けない声が口から飛び出し、その場に尻餅をつく。レジ袋が地面に叩きつけられ、無辜の命が巨大怪獣に踏み潰されたかのような音が立った。
予想に反して、虎は襲いかかってこない。
「あの男は、私と一体となることを望んでいた。だから食った」
威厳に満ちた壮年男性の声が聞こえた。声に合わせて虎の口が動いていたので、眼前の猛獣が人声を発しているのだと分かった。
「お前は私に食われることを望んでいない。従って、食わない。さっさと去るがいい」
「望んでいただって? あの男、苦しそうな声を出していたじゃないか」
己の意思とは無関係に喉が動き、言葉を発していた。両手が塞がっていなければ、反射的に口を覆っていたに違いない。
「心の深奥、最も正直な部分でそう望んでいたということだ」
虎が言葉を返す。あたかもその問いを予測していたかのように、間髪を入れずに。
「お前には理解できないだろうが、それが真実なのだ。さあ、とっとと去れ、去れ」
ぎこちなく頷き、両手で地面を押して立ち上がり、駆け出した。
十メートルほど離れたところで振り返ると、虎は二本脚で立ったまま顔を洗っていた。それを見た瞬間、恐怖心は跡形もなく消え去った。走行から歩行に切り替え、真っ直ぐに我が家に帰った。
帰宅後に確認すると、卵は一個も割れていなかった。
金欠ではあるが、まだガスは止められていないし、調理道具も最低限揃っている。普段の食事を外食とインスタント食品と菓子パンに依存しているが、ごく簡単な料理ならば作れるので、時折は台所に立った。具体的に言えば、天気のいい日、早起きをした日、上機嫌な日などに。
何とまあ、分かりやすい男だろう。
帰り道は、市内を流れる唯一の川に架かる石橋を通ることにした。理由は特にない。何となく、そうしたい気分だったから。その一言に尽きる。
橋の南側の歩道の路面に、一辺が一メートルほどの正方形の青いビニールが貼られた箇所がある。ビニールの四隅には鉄製の鋲が刺さり、路面に固定されている。ブルーシートを真四角に切り取ったものと推察されるが、辺があまりにも直線的なので、あるいは最初からその大きさだったのかもしれない。
僕はこれまでに、何度となくこの石橋を渡ったが、ビニールを踏んだことは一度もない。踏むと何かが起きる、というわけではないのだろうが、踏んでも構わないのか否か不明だし、踏まなければならない理由もないからだ。
ビニールの下の路面は幾らか窪んでいるので、まとまった雨が降ると、降り止んだ後には小さな水溜まりができる。それを目にするたび、僕の心はほのぼのと和む。
ここ数日は終日晴天に恵まれているので、蟻塚を横切るアフリカゾウのような無関心さでビニールの脇を通り過ぎる。
直後、前方に異物を認め、思わず足が止まった。
橋の袂に、人間よりも大きな塊が鎮座している。
引き返せ! もう一人の僕が狂ったように警鐘を打ち鳴らす。
一方で、一度渡ると決めた橋を渡らないのは、禁忌を犯す行為だという気がする。
引き返すのは、塊の正体を把握してからでも遅くない。
勇気を奮い立たせ、数歩進んだところで、塊の正体が判明した。虎だ。
なぜ、こんなところに虎が?
そんなこと、実際に虎に遭遇した人間は考えない。考える余裕などない。
虎の種類は定かではない。ベンガルトラとスマトラトラとアムールトラの相違など、僕に分かるはずもない。
確かなのは、虎は自らの足元に転がった塊を食らっている、ということ。
塊というより、肉塊。
肉塊ではなく、人間。
咀嚼音、血なまぐささ、骨が破砕される音――堰を切ったように情報が流れ込み、質の悪い、それでいて仄かに甘美な眩暈に襲われ、足元がふらついた。
食べられている人物は、俯せなので顔は見えないが、若い男性だ。短く切り揃えた墨色の頭髪をヘアスタイリング剤でセットし、ダークグレイのスーツにマンゴー色のネクタイという服装。スマートフォンを右耳に宛がい、盛んに動く唇は紫色に変色している。
「だから、何度も言っているだろう。交換可能なのだよ、万物は」
男性が喋っている間も、虎は休みなく口を動かす。あっと言う間に両脚を食い尽くし、股間に牙を突き立てた。
「難しいことではない。小学校の理科さ。氷は水になり、水は水蒸気になる。水蒸気は水になり、水は氷になる。その法則を応用すればいいだけの話だ」
性器を噛みちぎられたのを境に、男性の声は苦しげなものに変わった。腹が食い破られ、青黒い腸が溢れ出す。それもすぐに食いちぎられ、噛み砕かれ、嚥下される。
「観念が硬直してしまっているのが諸悪の根源なのだよ。枠を取り払いたまえ。精神を解き放ち、自由に泳ぎ回らせた結果、成った形、それが自ずと意味を」
声が断ち切られた。喉笛が食い破られたのだ。虎は最後まで残った頭部を咥え、顔を天に向けたかと思うと、豪快に丸呑みにした。虎と、男性のスマートフォンと、両手にレジ袋を提げた僕がその場に残された。
虎は右の前脚を使って、猫が食後にする要領で口元の掃除を始めた。
口腔に溜まった唾を慎重に飲み下す。
音を立てないようにレジ袋を握り直し、抜き足差し足で歩き出す。虎が顔を洗うのに気を取られている隙に、目の前を通り過ぎようと考えたのだ。引き返すという選択肢も浮かんだが、即刻候補から外した。なぜかは分からない。恐らく、石橋を渡るルートを通って帰ることにしたのと同じ理由なのだろう。
眼前に差しかかった瞬間、虎は前脚を下ろして僕を直視した。視線が重なった。澄んだエメラルドグリーンの瞳に凝視された瞬間、両の靴底が地面に釘づけになった。
宝石のような双眸が揺るぎなく僕を見つめる。体を一ミリも動かせない。尋常ならざる緊張感の中、聞こえるのは虎の規則的な呼吸音のみだ。牙と牙の間から洩れる生温かい呼気が首筋にかかる。唸り声にも似た音が呼吸音に混ざり始めた。
突然、虎が大きく上体を起こし、二本脚で立った。わあっ、という情けない声が口から飛び出し、その場に尻餅をつく。レジ袋が地面に叩きつけられ、無辜の命が巨大怪獣に踏み潰されたかのような音が立った。
予想に反して、虎は襲いかかってこない。
「あの男は、私と一体となることを望んでいた。だから食った」
威厳に満ちた壮年男性の声が聞こえた。声に合わせて虎の口が動いていたので、眼前の猛獣が人声を発しているのだと分かった。
「お前は私に食われることを望んでいない。従って、食わない。さっさと去るがいい」
「望んでいただって? あの男、苦しそうな声を出していたじゃないか」
己の意思とは無関係に喉が動き、言葉を発していた。両手が塞がっていなければ、反射的に口を覆っていたに違いない。
「心の深奥、最も正直な部分でそう望んでいたということだ」
虎が言葉を返す。あたかもその問いを予測していたかのように、間髪を入れずに。
「お前には理解できないだろうが、それが真実なのだ。さあ、とっとと去れ、去れ」
ぎこちなく頷き、両手で地面を押して立ち上がり、駆け出した。
十メートルほど離れたところで振り返ると、虎は二本脚で立ったまま顔を洗っていた。それを見た瞬間、恐怖心は跡形もなく消え去った。走行から歩行に切り替え、真っ直ぐに我が家に帰った。
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