幻影の終焉

阿波野治

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 右手の動きが止まらない。僕の意思を完全に無視して勝手に前後に動く。それでいて「機械的に」という表現を使いたくないのは、別なる存在の関与を疑っているからか、自分自身が望んでいた展開だからか。
 誰かが空間に足を踏み入れた。小用を足して帰っていくものと思っていたが、隣の個室に入ってきた。
 狭いトイレなのに、何で個室が二つもあるんだ。タイミング悪いな、くそったれ。一つだったら、邪魔者と隣り合う事態を確実に回避できたのに。
 心中で呪詛の言葉を並べている間も、右手は動き続ける。

 中年以上の男性が加齢臭を誤魔化すために振りかける香水の芳香が漂ってきた。オッサンの排便。最悪だ。海外旅行先で迷子になったとしても、こんな気分にはならないだろう。
 平日の午前だというのに、こんな場所でわざわざ糞を捻るんじゃない! てめえが捻った糞を喉に詰まらせて死ね!
 大便並みに汚い言葉を吐きたくなるが、他人のことを言えない立場だと気がつき、下唇を噛みしめて声の出口に蓋をする。願わくは、さっさと済ませてくれ。

 ベルトを外す音。水溜りに細い帯状の水が注ぎ込まれる音。この世で最も汚らしい音だと思う。それでも右手は動くのを止めない。
 ああ、嫌だなあ。これが済んでも、これ以上の嫌なイベントが待ち受けているなんて。
 この世界にというより、この世界の創造主に対して絶望していると、ベルトのバックルが鳴る音が聞こえた。まさか、と思った次の瞬間、水を流す音が聞こえた。便器の蓋が下ろされ、個室のドアが開かれ、閉まる。靴音が遠ざかる。

「……しないのかよ」

 大の方をしないなら、なぜわざわざ個室に入ったのか。小便器の周りに「地雷が埋まっています」と注意書きされた看板でも設置されていたとでもいうのか? 少なくとも、僕が入ってきた時にはそんなものはなかったはずだ。
 いずれにせよ、助かった。
 何だよ、人生。たまには僕の思い通りになるじゃないか。
 さらにありがたいことに、中年男性は洗面台を利用せずに去ったので、早々に妄想の世界に帰還できた。安堵感がエネルギーとなり、性的興奮は加速度的に昂進する。右手の動きは光の速さへと近づく。

「ああ、ああ……」

 自分自身のことは自分自身が一番分かる。ゴールテープは目の前だ。実質的な中断時間を考えると早すぎる気もするが、そんな些事はどうだっていい。なぜならば、

「ああ、せん、せん――」

 結末に無事に到着できた。

「『戦争の足音』ぉおおおっ!」

 声が不可抗力的に裏返り、白亜の闇夜に無数の星が描かれた。
 心と呼吸を整えるのに、通常時の二倍から三倍ほどの時間がかかった。

『戦争の足音』と別れてから『エンブリオ』の男子トイレに辿り着くまでの記憶は、どこへ行ってしまったのだろう。
 終わった後で、最初に思ったことがそれだった。醜悪な剣を露出したまま、先端部を中心に付着した汚れを拭おうともせずに。
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