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ユニコーンの穴
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少量のホイップクリームを皿に残して、苺のショートケーキが尽きる。
紅茶が尽きる。
話題が尽きる。
遠藤寺は食器をキッチンへ片づけに行く。戻ってくる前に話題を見つけねばと、僕は軽く焦る。
いっそのこと、何もかもが尽きたのを潮に辞去し、『戦争の足音』の家まで行こうか? そうも考えたが、実行に移すとなると抵抗感を覚える。
僕はなぜこうも、彼女の自宅を訪問することを恐れているんだ?
知恵を絞って話題を捻出するのと、『戦争の足音』の自宅のチャイムを鳴らすのと、僕にとってどちらがハードルが低いだろう?
いっそのこと、ユニコーンのぬいぐるみを入手した経緯でも尋ねてみようか。波乱に満ちた、世にも素晴らしい物語が聞けるかもしれない。
投げやりな気持ちでそう思った直後、『戦争の足音』について話す、という選択肢があることに気がつく。
遠藤寺が戻ってきた。元の位置に腰を下ろし、僕を見つめる。僕が何か言いたいことがあると察しているらしい顔つきだ。
「昨夜のことなんだけど」
勿体ぶるのも馬鹿馬鹿しいので、さっさと切り出した。
「昨日、遠藤寺さんと別れた後で『エンブリオ』の前の道を西に進んだんだ。神社とか駅なんかがある方向に。そうしたら、民家から大声が聞こえてきたんだけど」
「大声?」
「うん。男の怒鳴り声。驚いて思わず足を止めたんだけど、そうしたら食器か何かが割れる音が聞こえてきて、それからまた怒鳴り声が聞こえて、静寂、みたいな感じだったんだけど」
遠藤寺は相槌を打たないが、話題に一定以上の関心を抱いているらしい表情を見せている。自宅に近い場所で起きた出来事だから、だろうか。
「考えすぎかもしれないけど、DVとか、児童虐待とか、そういう犯罪の臭いがしたんだ。野次馬根性っていうのかな、そういうのって凄く浅ましいと自分でも思うんだけど、何だか気になって。その家について、知っていることがあったら教えてほしいんだけど」
「それって、後藤っていう人の家じゃない?」
絶句してしまう。いきなりその名前が出てくるとは。
「あ、門札は見なかった? 湯川くんが言及した家は、多分だけど――」
遠藤寺は後藤家の外観の特徴を羅列してみせる。今朝見た後藤家の外観の特徴とことごとく合致していて、驚きが深まった。こうも次々と言い当てられると、却って間違っているような気がしてくるものだが、羅列が終わった頃にはそのフェイズを通過し、遠藤寺が想定している人家と、僕が昨夜怒鳴り声を聞いた人家が同一だと、僕ははっきりと認めた。
「遠藤寺さんも、怒鳴り声を聞いたことがあるの?」
「声はないんだけど、物が壊れたみたいな音なら聞いたことあるよ。夜に前を通ると、結構な音量で物音が聞こえてくることが頻繁にあるから、やばい人が住んでいる家なんだなっていう認識は前々からあったよ」
『戦争の足音』に対する暴力は、あの日の一回だけではなかった。それどころか、日常的に行われている可能性が高い。
見る見る気分が落ち込み、何もかもがどうでもよくなってくる。極限まで飾りを削ぎ落とした表現を用いるならば、疲れた。同時に、僕に対する遠藤寺の役目は終わった、という意識も芽生えた。
「湯川くん。もしかしてその人、昨日言っていた、湯川くんが捜している人と何か関係があるの?」
「いや、全く関係ないよ。たまたま前を通ったら、そういう声が聞こえてきただけだから」
嘘だ。関係ないどころか、本人だ。
ああ、疲れたなぁ……。
「それにしても、どうしてそんなことをするんだろうね。僕は理解できないよ。誰が誰に暴言を吐いているのかは分からないけど」
「そう? 私は見当つくけどな、DVの加害者の正体」
「えっ?」
ローテーブルの天板に向けていた顔を持ち上げる。遠藤寺は僕から顔を背け、何者かに複数の糸で引っ張り上げられているかのような、どこかぎこちない挙動で立ち上がる。
「ごめんなさい、お手洗い」
黒衣に包まれた後ろ姿が遠ざかり、トイレのドアの向こうに消える。内鍵がかかる音が、何かを明確に拒絶するように響いた。
僕が考えている以上に、遠藤寺は後藤家のことを知っている。
遠藤寺はまだ、僕に対して義務を全うしていない。遠藤寺と会話をすることには、暇潰し以上の意味がある。
そんな確信に、思わず居住まいを正した。
――正したのだったが。
「……遅いな」
キャビネットの上の置き時計が狂っていないならば、遠藤寺がトイレに入ってから既に五分が経過した。この時間以内に出てこないということは、あちらの穴を使用しての排泄、ということに必然的になる。生理現象だからやむを得ないとはいえ、文句をつける権利はないとはいえ、何となく嫌な気分だ。
もっとも、原因はそればかりではない。
僕に都合の悪い質問をされるのが嫌で、トイレに逃げ込んだのでは?
さらに五分が経過したが、音沙汰はない。トイレの傍まで行き、中の様子を探ろうかとも考えたが、女性相手にそれは流石に躊躇いを覚える。
ユニコーンのフィギュアが目に留まった。なぜかは分からないが、最初に見た時よりも造形が精巧に見えた。腰を浮かして身を乗り出し、手を伸ばして掴み取る。大きさから想像した通りの重さと、体勢の不安定さから、危うく取り落としそうになったが、咄嗟に指先に力を込めてその事態を回避する。
命の次に大切にしているフィギュアを勝手に触られたことに憤慨して、遠藤寺がトイレから飛び出してくるかもしれない。そう後づけしてみたが、ドアは開かれない。安全地帯の膝の上にユニコーンを置き、一息つく。
改めてその姿を眺める。相変わらず顔立ちは愛らしく、それと比べると、長い角が少し雄々しすぎるような、鋭すぎるような気がしないでもない。見れば見るほど巧みに作られているように感じられるのが不可解だ。
一通り眺めた後、フィギュアの後部に注目したことに深い意味はない。精巧な作りだが、見えにくい部分も手を抜いていないか確かめてやろう、くらいの軽い気持ちだった。
それを目の当たりにした瞬間、僕の体と思考は束の間、完全なる停止を強いられた。
臀部に穴が空いている。
直径は親指が入るほどで、深さは定かではない。内側はボディとは異なる、ボディとほぼ同色の素材でコーティングされている。手触りからゴムだと判明した。
位置的に、肛門を表現しているのだろう。しかし、記号としてではなく、比較的リアルに表現されている理由が腑に落ちない。
突然、慎ましやかなノックの音が聞こえた。
遠藤寺がトイレのドアを叩いたのかと思ったが、方向が違う。窓からだ。
僕のすぐ背後にある窓は、花柄のカーテンに分厚く覆われている。その合わせ目を掴み、左右に開く。
ベランダに馬がいた。成人男性でも乗馬可能と思われる大きな体を横に向け、首から先を室内に向けている。銀色の体毛は、白い体毛が汚れた結果なのか、地毛なのか、判断がつかない。額から斜めに突き出した角の長さは、一メートル弱にもなるだろうか。
その角を使って馬は――いやユニコーンは、窓硝子を二度、弱い力でノックした。
カーテンを閉める。
姿は隠れたとはいえ、今もユニコーンが窓のすぐ外にいるのだと考えると、とてもではないが呑気に座ってなどいられない。フィギュアのユニコーンを元の場所に戻し、玄関へ。
「遠藤寺さん、急用が入ったから帰るね。紅茶、ごちそうさまでした。――また来るから」
トイレのドア越しに言葉をかけ、部屋を飛び出した。返事はなかったが、荒い息遣いが微かに聞こえた気がした。
通路の手すり越しに見た西の空には、夕焼けの気配が滲んでいた。
一階に下り、アパートのベランダ側に回ってみたが、遠藤寺の部屋のベランダには何もいなかった。
紅茶が尽きる。
話題が尽きる。
遠藤寺は食器をキッチンへ片づけに行く。戻ってくる前に話題を見つけねばと、僕は軽く焦る。
いっそのこと、何もかもが尽きたのを潮に辞去し、『戦争の足音』の家まで行こうか? そうも考えたが、実行に移すとなると抵抗感を覚える。
僕はなぜこうも、彼女の自宅を訪問することを恐れているんだ?
知恵を絞って話題を捻出するのと、『戦争の足音』の自宅のチャイムを鳴らすのと、僕にとってどちらがハードルが低いだろう?
いっそのこと、ユニコーンのぬいぐるみを入手した経緯でも尋ねてみようか。波乱に満ちた、世にも素晴らしい物語が聞けるかもしれない。
投げやりな気持ちでそう思った直後、『戦争の足音』について話す、という選択肢があることに気がつく。
遠藤寺が戻ってきた。元の位置に腰を下ろし、僕を見つめる。僕が何か言いたいことがあると察しているらしい顔つきだ。
「昨夜のことなんだけど」
勿体ぶるのも馬鹿馬鹿しいので、さっさと切り出した。
「昨日、遠藤寺さんと別れた後で『エンブリオ』の前の道を西に進んだんだ。神社とか駅なんかがある方向に。そうしたら、民家から大声が聞こえてきたんだけど」
「大声?」
「うん。男の怒鳴り声。驚いて思わず足を止めたんだけど、そうしたら食器か何かが割れる音が聞こえてきて、それからまた怒鳴り声が聞こえて、静寂、みたいな感じだったんだけど」
遠藤寺は相槌を打たないが、話題に一定以上の関心を抱いているらしい表情を見せている。自宅に近い場所で起きた出来事だから、だろうか。
「考えすぎかもしれないけど、DVとか、児童虐待とか、そういう犯罪の臭いがしたんだ。野次馬根性っていうのかな、そういうのって凄く浅ましいと自分でも思うんだけど、何だか気になって。その家について、知っていることがあったら教えてほしいんだけど」
「それって、後藤っていう人の家じゃない?」
絶句してしまう。いきなりその名前が出てくるとは。
「あ、門札は見なかった? 湯川くんが言及した家は、多分だけど――」
遠藤寺は後藤家の外観の特徴を羅列してみせる。今朝見た後藤家の外観の特徴とことごとく合致していて、驚きが深まった。こうも次々と言い当てられると、却って間違っているような気がしてくるものだが、羅列が終わった頃にはそのフェイズを通過し、遠藤寺が想定している人家と、僕が昨夜怒鳴り声を聞いた人家が同一だと、僕ははっきりと認めた。
「遠藤寺さんも、怒鳴り声を聞いたことがあるの?」
「声はないんだけど、物が壊れたみたいな音なら聞いたことあるよ。夜に前を通ると、結構な音量で物音が聞こえてくることが頻繁にあるから、やばい人が住んでいる家なんだなっていう認識は前々からあったよ」
『戦争の足音』に対する暴力は、あの日の一回だけではなかった。それどころか、日常的に行われている可能性が高い。
見る見る気分が落ち込み、何もかもがどうでもよくなってくる。極限まで飾りを削ぎ落とした表現を用いるならば、疲れた。同時に、僕に対する遠藤寺の役目は終わった、という意識も芽生えた。
「湯川くん。もしかしてその人、昨日言っていた、湯川くんが捜している人と何か関係があるの?」
「いや、全く関係ないよ。たまたま前を通ったら、そういう声が聞こえてきただけだから」
嘘だ。関係ないどころか、本人だ。
ああ、疲れたなぁ……。
「それにしても、どうしてそんなことをするんだろうね。僕は理解できないよ。誰が誰に暴言を吐いているのかは分からないけど」
「そう? 私は見当つくけどな、DVの加害者の正体」
「えっ?」
ローテーブルの天板に向けていた顔を持ち上げる。遠藤寺は僕から顔を背け、何者かに複数の糸で引っ張り上げられているかのような、どこかぎこちない挙動で立ち上がる。
「ごめんなさい、お手洗い」
黒衣に包まれた後ろ姿が遠ざかり、トイレのドアの向こうに消える。内鍵がかかる音が、何かを明確に拒絶するように響いた。
僕が考えている以上に、遠藤寺は後藤家のことを知っている。
遠藤寺はまだ、僕に対して義務を全うしていない。遠藤寺と会話をすることには、暇潰し以上の意味がある。
そんな確信に、思わず居住まいを正した。
――正したのだったが。
「……遅いな」
キャビネットの上の置き時計が狂っていないならば、遠藤寺がトイレに入ってから既に五分が経過した。この時間以内に出てこないということは、あちらの穴を使用しての排泄、ということに必然的になる。生理現象だからやむを得ないとはいえ、文句をつける権利はないとはいえ、何となく嫌な気分だ。
もっとも、原因はそればかりではない。
僕に都合の悪い質問をされるのが嫌で、トイレに逃げ込んだのでは?
さらに五分が経過したが、音沙汰はない。トイレの傍まで行き、中の様子を探ろうかとも考えたが、女性相手にそれは流石に躊躇いを覚える。
ユニコーンのフィギュアが目に留まった。なぜかは分からないが、最初に見た時よりも造形が精巧に見えた。腰を浮かして身を乗り出し、手を伸ばして掴み取る。大きさから想像した通りの重さと、体勢の不安定さから、危うく取り落としそうになったが、咄嗟に指先に力を込めてその事態を回避する。
命の次に大切にしているフィギュアを勝手に触られたことに憤慨して、遠藤寺がトイレから飛び出してくるかもしれない。そう後づけしてみたが、ドアは開かれない。安全地帯の膝の上にユニコーンを置き、一息つく。
改めてその姿を眺める。相変わらず顔立ちは愛らしく、それと比べると、長い角が少し雄々しすぎるような、鋭すぎるような気がしないでもない。見れば見るほど巧みに作られているように感じられるのが不可解だ。
一通り眺めた後、フィギュアの後部に注目したことに深い意味はない。精巧な作りだが、見えにくい部分も手を抜いていないか確かめてやろう、くらいの軽い気持ちだった。
それを目の当たりにした瞬間、僕の体と思考は束の間、完全なる停止を強いられた。
臀部に穴が空いている。
直径は親指が入るほどで、深さは定かではない。内側はボディとは異なる、ボディとほぼ同色の素材でコーティングされている。手触りからゴムだと判明した。
位置的に、肛門を表現しているのだろう。しかし、記号としてではなく、比較的リアルに表現されている理由が腑に落ちない。
突然、慎ましやかなノックの音が聞こえた。
遠藤寺がトイレのドアを叩いたのかと思ったが、方向が違う。窓からだ。
僕のすぐ背後にある窓は、花柄のカーテンに分厚く覆われている。その合わせ目を掴み、左右に開く。
ベランダに馬がいた。成人男性でも乗馬可能と思われる大きな体を横に向け、首から先を室内に向けている。銀色の体毛は、白い体毛が汚れた結果なのか、地毛なのか、判断がつかない。額から斜めに突き出した角の長さは、一メートル弱にもなるだろうか。
その角を使って馬は――いやユニコーンは、窓硝子を二度、弱い力でノックした。
カーテンを閉める。
姿は隠れたとはいえ、今もユニコーンが窓のすぐ外にいるのだと考えると、とてもではないが呑気に座ってなどいられない。フィギュアのユニコーンを元の場所に戻し、玄関へ。
「遠藤寺さん、急用が入ったから帰るね。紅茶、ごちそうさまでした。――また来るから」
トイレのドア越しに言葉をかけ、部屋を飛び出した。返事はなかったが、荒い息遣いが微かに聞こえた気がした。
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