幻影の終焉

阿波野治

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ケーキと紅茶と無駄話

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 帰宅してから漸く一時間が経過した。よくぞ耐えたと自賛したいところだが、『戦争の足音』は『エンブリオ』に夜に現れると仮定して、短く見積もっても三時間はある。とてもではないが耐え抜けそうにない。
 心からの疑問なのだが、彼女に出会う以前の僕は、有り余る時間をどうやって消費していたのだろう? 今朝、いざという時のための一万円札を探した際に、有意義に暇を潰すための代物がこの部屋に存在しないことは確認済みだ。不可解だし、今後のことを思うと絶望感を覚えもする。
『戦争の足音』の自宅の場所は把握しているのだから、今すぐに会いに行くこともできる。それなのに、会いに行こうという意欲が湧かない。
 会ったばかりで、間を置きたいから? 昨夜彼女を怒鳴りつけていた家人と顔を合わせたくないから?
 定かではないが、心が向かないならば、無理に選ぶ必要はない。他の方法を模索するまでだ。

 手っ取り早いのは、外部に頼ること。

 遠藤寺の顔が浮かんだ。ほぼ同時に、「時間潰しに付き合ってくれた礼をする」と彼女に約束をしたことを思い出した。
 僕の全財産は三千円。時間潰しのために全財産の三分の一を擲つのは不本意だが、千円で三時間の暇を潰せるとポジティブに考えるとしよう。
 それにしても、彼女くらいの年齢の女性は、異性から何をプレゼントされると喜ぶのだろう?

* * * * *

 駅前の往来を歩いていると、ケーキ屋を見つけた。
 外観からも、硝子越しに覗いた店内からも、特定の性別や年齢の人物を拒む雰囲気は感じられない。自動ドアを潜った。
 硝子ケース内に陳列されたラインナップは、まずまず豊富だ。迷った末、苺が載ったショートケーキを二つ選ぶ。定番中の定番、捻りも何もないが、恋人への贈り物ではないのだし、まあいいだろう。支払いは千円札一枚を差し出せば事足りた。

「お釣りは募金でもしておいてください。ほら、この前もあったじゃないですか、大きな災害が」

 釣り銭を返却しようとしてきたレジの女性店員に一方的に告げ、店を出る。店員はどの災害を念頭に浮かべただろう? 去年の今頃の天気くらいどうでもいいことだ。
『戦争の足音』は甘いものは好きだろうか? 出会った日、ソックリマンチョコに縫い針を刺していた件に関して、ストレス解消のためだと彼女は説明した。チョコレートを僕に勧めたくらいだから、甘いものは好き。きっとそうだ。
 遠藤寺に会いに行っているのに、『戦争の足音』のことばかり考えている。

 アパートの遠藤寺の部屋の前まで来た。インターフォンを押すのに抵抗を覚える。一人暮らしの妙齢の女性の部屋だからか。それとも、遠藤寺桐という存在が待ち受けているからか。
 ケーキの袋をドアノブに引っかけておけば、遠藤寺とは顔を合わせずに済む。
 そう思いつき、実行に移そうとした瞬間、気がつく。遠藤寺のもとを訪れた第一の目的は暇潰しなのだから、彼女に会わなければ意味がない。
 何をやっているんだ、僕は。何をビビっているんだ、たかが遠藤寺ごときに。
 苦笑をこぼし、改めてインターフォンを鳴らそうとした瞬間、ドアがひとりで開いた。
 隙間から顔を出したのは、遠藤寺桐。昨日と同じメイク、髪型、服装。相も変わらず病的に青白い、幽霊じみた顔には、驚きの色が浮かんでいる。

「湯川くん、どうしたの?」
「えっと……」

 いつだって第一声が一番難しい。事前に名目を用意していたので、今回はまだ楽な方だが。

「昨日、ほら、僕がここで人を待っている間、話し相手になってくれたでしょ。そのお礼がしたくて、ケーキを買ってきたんだ」
「本当に? うわー、ありがとう!」

 目的を告げた際の驚きの表情と声も、直後の満面の笑みも、どこか大げさだという印象を受ける。遠藤寺のリアクションが不自然というより、滅多なことでは感情を表に出さない『戦争の足音』と無意識に比較したから、だろうか。
 ……ああ、また彼女のことを考えている。

「ちょうどティータイムだし、私の部屋で一緒に食べようよ。その箱のサイズ、二人分以上入っているよね?」
「うん、苺のショートケーキが二つ。でも、二人で一緒に食べるために買ったわけじゃないから、僕は無理に……」
「いいから、食べよう。家の中、ちょっと散らかってるけど、どうぞ。飲み物、紅茶でいいかな?」
「でも、悪いよ。遠藤寺さん、一人暮らしなんだよね。迷惑じゃないかな」
「湯川くんなら、迷惑どころか大歓迎だよ。さあ、入って」

 そういえば僕は暇潰しがしたいのだった、と再び思い出し、苦笑をこぼす。遠藤寺の目には、あるいは照れ笑いに見えたかもしれない。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 笑みの絶えない遠藤寺に続いて、ドアの内側へ。

「散らかってるけど」と謙遜する人間の御多分に漏れず、遠藤寺は部屋をそつなく片づけていた。
 室内には、雌の匂い、としか形容しようがない匂いが充満している。体臭と化粧品の匂いが混在したそれだ。ワキガの人間が、自らの腋の下から悪臭が発せられている自覚に乏しいのと同様、遠藤寺からすればせいぜい「淡く漂っている」程度の認識なのだろうが、部外者の僕の鼻には強烈だ。系統としては、決して不愉快ではない。むしろ快い部類に入るが、その強烈さ故に萎縮を強いられる。

「ケーキをお皿に入れて、紅茶を淹れてくるね。座って待ってて」

 勧められるままに、どんな内装の部屋にもマッチしそうな純白の座布団に腰を下ろす。遠藤寺はケーキの袋を手にキッチンへと消える。
 一人になったところで、室内を観察する。女の子らしいデザインや色調の小物が多く、不自然ではない程度に女らしい、という評価が適当な風景だ。素人目には値が張る代物に見えるオーディオ、整然すぎない程度に整然と書籍が並べられた本棚、中身が僅かに残ったアロマオイルの小瓶。僕の部屋よりも少し広い程度だが、僕の部屋と比べて格段に楽しげだ。

 唯一違和感を覚えたのが、オーディオの右端に置かれたユニコーンのフィギュア。乳幼児が中に入れそうな巨大さで、灰褐色の体毛は古びて薄汚れた結果とも、元々そうだったともつかない。額から突出した角は鋭く、三十センチに達しているだろうか。デフォルメが効いた顔は、女性や子供の嗜好に合致しそうな愛らしさで、一定の年齢までの女性の持ち主としては何ら不自然ではない。
 ただ、根拠は示しづらいのだが、この部屋には調和していない印象を受ける。
 雌の匂いが充満する、女性らしい部屋に置かれた、女性の持ち物らしい巨大なフィギュアが放つ、確かな違和感。これはいったい何なんだ?

 二人分のケーキと紅茶を手に遠藤寺が部屋に戻ってきた。木製のローテーブルに皿とティーカップが置かれ、ティータイムが始まる。

「あ、美味しい」

 一口食べての遠藤寺の感想だ。

「口に合ったみたいで、よかったよ。初めての店で買ったから、不安で」

 まあ、ケーキ自体滅多に買わないんだけど。

「紅茶はどう? インスタントなんだけど」
「うん、美味しい。ケーキにとても合う」

 防がれることを前提にしたジャブをウォーミングアップ代わりに繰り出し合うように、他愛もない話をしながら、ケーキと紅茶の量を減らしていく。昨日別れてから、今日再会するまでの間、何をしたか。それが話題だ。

「今日の昼はファミレスで食事をしたよ」
「あ、そうなんだ。何を食べたの?」
「カレーピラフ」
「カレー味の料理、好きなの?」
「うん。ていうか、カレー料理が嫌いな人って、あんまりいなくない?」
「それもそうだね。日本人は好きだよね、カレー」
「でも、日本のカレーと違って、本場のカレーは凄く辛いんだよね。スパイスが効いていて」
「そうそう。日本人は何でも自国流にアレンジするが得意だから」

 ああ、何という意味に乏しい会話! 遠藤寺が「湯川健次の暇潰し相手」という役目を神から命じられていないのだとすれば、彼女が暇人なのは間違いないだろう。
 空疎。
 中一の時の同級生とケーキを食べて、紅茶を飲んで、くだらない話をして――何なんだ、これは?
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