幻影の終焉

阿波野治

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救出

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 後藤家に辿り着いた時、西の空は橙色に染まり始めていた。
 黒のセダンは停まっていなかった。住宅の中からも外からも、人が活動する気配は感じられなかったが、敷地に足を踏み入れるのは躊躇われた。両足を釘づけにするのは、不法侵入の罪を犯す罪悪感以外の何からしい。
 とはいえ、ここを除けば捜索するべき場所は一つも残っていない。どうせやらなければならないなら、家人が不在のうちに、暗くなってしまわないうちに、という思いもあった。

「……よしっ」

 覚悟を決め、門を潜った。

 飛び石の小道の中間地点で立ち止まり、左右を確認する。右手は以前訪れた時に黒のセダンが駐車されていたスペースで、現在は無機質なコンクリートの地面が白々と広がっている。左手は一面青々とした芝生に覆われた庭。一階の一室の窓が面しているが、カーテンが全域を覆っていて中の様子は窺えない。
 敷地の西端の塀と後藤家の住宅の外壁の間は、大人の肩幅ほど開いている。住宅の裏手に回るための通路になっているのだ。地面には柄の折れた箒や錆びた物干し竿などが雑然と転がっている。体を斜めにして、物音を立てないように注意しながら進む。道はそれほど長くはない。視界が開けた。

 裏庭だ。庭よりも一回り狭く、雑草が生え放題になっている。空間の右端に、全高が三メートルに届こうかという庭木が植わっている。幹回りは成人男性の胴回りほどで、濃緑色の葉を繁らせている。幹の二メートルほどの高さから、幹よりも二回りほど細い枝が分岐し、空間の中央に向かって水平に伸びている。

 その枝の真下に少女がいる。

 地面を踏み締める両足は靴を履いておらず、靴下に包まれてもいない。頼りなげな下腿を辿り、膝を通過し、肉づきの悪い上腿の終点に到達するに至って、漸く衣類が認められる。桜色の、若い女性向けのショーツだ。視線をさらに上に進めると、貧相な腹の中央に無個性な臍が窪んでいる。臍のすぐ上では、純白のトップスの裾が微風に揺れている。なおも上昇させると、胸の膨らみに差しかかる。起伏は険しくも緩やかでもない。乳暈がうっすらと透けているので、生地が薄手だということが分かる。さらに上に向かうと、円く切り取られた襟ぐりが見える。鎖骨の膨らみが見える。剥き出しの両肩が見える。鎖骨の上にはほっそりとした首がある。贅肉がついていない顎がある。さらにその上には口があり、唇から水色の物体が僅かにはみ出している。ハンカチを含まされているらしい。高くも低くもない鼻に異常は認められない。両目はレモン色のタオルで覆われている。肩までの長さの黒髪は少し乱れている。鎖骨まで下降し、上に向かってほぼ垂直に伸びる後腕を辿る。肘を通過し、前腕を突き進むと、右手首、樹枝、白く太いロープ、この三つが交差している。ロープによって手首を樹枝に縛りつけられているのだ。幾重にも巻きつけられているので、ロープは樹枝に生じた白く歪な巨大な瘤に見える。視線を右に移動させると、左手首も同様に固定されている。

 少女の全身を視界に映す。
 縛られているのは、紛れもなく『戦争の足音』だ。

 胸に押し寄せたのは、悲しみでも、怒りでもなく、彼女と再会を果たすことができた安堵だった。
 精査すれば、多くの感情が複雑に絡み合って形成されているのが判明するだろう。しかし、今は一言で充分だ。煎じ詰めた結果の、安堵。それでいい。

『戦争の足音』へと歩み寄る。靴音に反応して、彼女の体は目に見えて強張った。見えていないのを承知の上で微笑みかけ、ロープを外し始める。

「心配しないで。僕だよ、僕。湯川健次だよ。ていうか、僕が湯川健次っていう名前だってこと、覚えてる? 君、僕のこと全然名前で呼んでくれないから」

 ロープは固く結ばれており、容易にはほどけないが、焦りはない。少しずつ着実に外していく。

「僕の部屋まで来なよ。何があったのかを根掘り葉掘り訊いたりしないから。とりあえず、一緒にご飯を食べよう。ちょうど夕食の時間だし」

 その言葉を最後に、ロープをほどく作業に専念した。
『戦争の足音』は何も喋らない。身じろぎ一つせずに、束縛から解放されるその時を待っている。
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