幻影の終焉

阿波野治

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一つの重大な通過点

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『戦争の足音』を伴ってアパートの自室に戻った時には、外の世界は完全なる闇に包まれていた。
 拘束されていた影響か、彼女は自力で歩くことがままならなかった。肩を貸してやらなければならなかったし、半裸だったため、人通りのない道を帰路に選ぶ必要があった。そのせいで、帰り着くのに時間を要したのだ。

 帰宅すると、直ちに『戦争の足音』を敷き布団の上に座らせ、箪笥から夏物のジャケットを取り出して渡した。彼女はそれに袖を通すのではなく、胸と両脚の間に挟んで膝を抱えた。

 入浴の準備が整うまでの間、僕は部屋の隅に黙然と座り、『戦争の足音』の方を妄りに見ないように、話しかけないように心がけた。あんな目に遭った後だけに、当面はそっとしておくべきだと判断したのだ。
 もっとも、当面というのがいつまでかは分からなかったし、ある程度積極的にコミュニケーションを取った方が望ましいのでは、という思いもあった。要するに、何をするのが正しいのかが分からなかった。
『戦争の足音』も僕と似たような態度を取った。ただし、僕の方を全く見ず、話しかけたそうな素振りを一切見せないという、明確な差異があった。そういう意味でいえば、話しかけないという対応は正しかったのかもしれないが、彼女とコミュニケーションを取りたい気持ちがあるのも確かだし、そっとしておくのを止める最良のタイミングがいつなのかも分からない。

 やがて風呂が沸いた。モスグリーンのパジャマを箪笥から取り出し、差し出す。

「お風呂、入れば」

 彼女は無言で頷き、パジャマを受け取った。立ち上がると、胸と脚の間に挟んでいたジャケットが布団の上に滑り落ちた。四肢や腹回りと比べると肉づきがいい、ショーツに包まれただけの尻が遠ざかり、ドアの向こうに消えた。
 耳を欹てて浴室内の状況を窺ったが、極めて大人しく湯船に浸かっているらしく、水音一つ聞こえてこない。

『戦争の足音』のために何をしてやれるだろう?
 彼女が入浴している間、絶えず考え続けた。
 明快な回答は一向に浮かばなかったが、考えれば考えるほど、彼女のために自らを捧げる覚悟が固まっていくような、そんな感覚があった。この先、僕たちにどんな未来が待ち受けているかは知る由もないが、そんなことは一切関係なく。

 半時間ほどが経って、モスグリーンのパジャマを身にまとった『戦争の足音』が僕の前に姿を見せた。腰を下ろしたのは、入浴前に座っていたのと同じ敷き布団の上。僕と喋らず、僕に顔を向けない方針は、入浴後も貫かれた。
 夕食には、この部屋に置いてある最後の食料であるカップ焼きそばを食べた。麺をすする音を立てることさえ憚られる沈黙の中、食事が進行する。僕は早々に容器を空にしたが、『戦争の足音』は僕の倍の時間をかけて半量を胃の腑に収めるに留まった。

「これからどうするつもりなの?」

 食事が済むなり僕は切り出した。空腹が解消されるに伴い、緊張が多少緩んだことに勇気づけられて、その勢いに乗って「当面」を終わらせた格好だ。
『戦争の足音』は返事をしない。顔は俯いたままだ。

「君はどうしたい? 僕にしてほしいことはある? 何か要望があるなら遠慮なく言ってよ」

 反応はない。出し抜けに問われたことに対する戸惑い以外の理由から俯き、沈黙しているように見える。

「遠い未来の話じゃなくて、今どうしたいかだよ。甘い物が食べたいとか、眠たいから寝たいとか。何でもいいから、心に浮かんだことを言ってみてよ。期待に添えるように努力するから」

『戦争の足音』の唇は固く閉ざされている。
 問い詰めるような真似をしたのがいけなかっただろうか? 密やかに溜息をつき、腰を上げる。洋箪笥からパジャマと下着を取り出す。

「悪いけど、風呂に入らせてもらうよ。したいこと、僕が風呂から上がるまでの間に浮かんだら、僕に教えて」

 無反応なのは相変わらずだ。再び出かかった溜息を押し殺し、風呂場へ向かった。

* * * * *

『戦争の足音』の体臭が淡く充満した浴室内で、落ち着かないながらも湯船に体を浸していると、過去に彼女に言われた一言が忽然と脳裏に甦った。

『干渉しないでよ』

 僕は悟る。昨日今日と、後藤家の敷地に足を踏み入れるのが躊躇われたのは、彼女からそう非難されるのが怖かったからだったのだと。
 裏庭に現れた人間が僕だと知った瞬間から、彼女は心の中でそう叫び続けているのかもしれない。今だって、敷き布団の上に無表情で座りながら、こう思っているかもしれない。

『どうしてあなたの部屋に連れてきたの? 家に帰らせて。わたし、一人になりたい』

 それが彼女の当座の望みなのだとしても、叶えてやるわけにはいかない。
『戦争の足音』を帰したくない、一人にさせたくないと思うこと。躊躇ったものの、最終的には干渉することに決めたこと。その二つが何を意味するかが理解できないほど、僕は初心でも鈍感でもない。

 考え事をしながらも、聴覚は絶えず研ぎ澄ませていたので、僕が入浴している隙に忍び足で部屋を抜け出したわけではないのは分かっていた。分かってはいたが、不安は拭えないし、長時間湯に浸かるのは性分ではない。湯船から上がり、濡れた体を手早く拭いてパジャマに着替え、脱衣場から出る。

 ドアを開けると、部屋は真っ暗だった。
 頭が真っ白になった。
 停電だろうか? そんなはずはない。風呂場の明かりは先程まで確かに灯っていた。
 シャンプーの微かな香りが漂ってくる。疲労、あるいは眠気に抗えなくなり、眠ってしまったのだろうか?
 慎重な足取りで闇の中へと入っていく。寝ていても寝ていなくても、どちらでも構わないから、『戦争の足音』が部屋に存在する事実を確かめておきたかった。
 右足が敷き布団の一端を踏んだ。その場に腰を屈め、目を凝らす。闇の中に人らしき塊が横たわっている。

「……寝ているの?」

 小声で呼びかけたが、反応はない。
 恐る恐る右手を伸ばすと、指先に柔らかいものが触れた。ほんの軽く二度ばかり押してみて、パジャマに包まれた尻だと分かった。
 右掌で尻を一撫ですると、『戦争の足音』は小さく身じろぎをした。彼女のボトムスの上縁に手をかけ、一思いに膝まで下ろすと、白い臀部が闇の中に出現した。
 口腔に溜まった唾を嚥下する。
 両手を伸ばし、膨らみを鷲掴みする。若々しく引き締まった、和毛一本生えていない尻。割れ目に両の親指を半ば差し込み、膨らみを左右に開く。闇と一体化して見分けられないが、『戦争の足音』の肛門は今、確かにさらけ出されている。その認識が心を昂ぶらせる。
 指頭に込めた力はそのままに、顔をゆっくりと臀部に近づける。
 突然、『戦争の足音』が寝返りを打ったので、反射的に手を引っ込めた。仰向けの姿勢になり、顔を少し持ち上げて僕を見つめる。チョコレート色の瞳は闇と同化しているが、宿った感情は読み取れる。
『戦争の足音』は僕を誘っている。求めている。

 パジャマの前側に両手をかける。力任せに左右に引っ張ると、ボタンが暗闇の中で弾けた。露わになったのは、尻に負けずとも劣らない白さを持つ、一対の膨らみ。
 薄手の衣服に包まれていた、大きくも小さくもない乳房が、今、目の前にある。そして乳房の所有者は、それを隠そうとする素振りを微塵も見せない。
 両手を伸ばし、指先で膨らみに触れた。『戦争の足音』の唇から微かに声がこぼれた。再会を果たして初めて聞いた彼女の声は官能の色調を帯びていて――。

「『戦争の足音』っ!」

 猛然と覆い被さる。『戦争の足音』の両腕が僕の頭を抱きかかえた。

「『戦争の足音』! ああっ、『戦争の足音』っ! 好きだ! 君が好きだ! 僕は君が――ああっ、『戦争の足音』! 好きなんだ! 僕は君が好きだ! ああ! 大好きだよ、『戦争の足音』! 好きだ好きだ好きだ……っ!」

 巨大すぎる想いは満足に言葉にならない。僕は想いを肉体で表現し、『戦争の足音』は全身全霊でそれに応える。二人の心と体は調和し、溶け合い、一体と化し、それから先は言葉も打算もない。
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