幻影の終焉

阿波野治

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終焉の前

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 目を覚まし、真っ先に思ったのは、昨夜は男性の怒鳴り声と女性の悲鳴のセットが聞こえてこなかった、ということだった。
 続いて、遠藤寺の血と涙に汚れた顔が脳裏に甦り、一気に眠気が覚めた。
 遠藤寺はどのような今を過ごしているのだろう。……死んだ? まさか! 額だの、鼻だの、唇だのと、顔には容易く大量に出血する部位がひしめき合っている。見た目の凄惨さと比べれば、負ったダメージは大きくなく、病院で治療を受けて終わり、程度のものだった。きっとそうだ。

 では、加害者である僕に対して、どのような思いを抱いているのだろう。怒り? 恐怖? それとも――。
 あの男は狂人だ。顔を怪我しただけで済むなんて、運がいい。あの男とはもう、金輪際関わり合わないようにしよう。警察に通報されたことを知られて、報復されるのは怖いから、この件は誰にも打ち明けないでおこう。
 そう結論してくれれば、こちらとしては最もありがたいのだが、その推測はいささか都合がよすぎるだろう。然るべき機関に何らかの報告を行った可能性も考えられる。後悔しても後の祭りだが、やりすぎた。

 これから僕はどうなってしまうのだろう。

 意見を、あるいは救いを求めるように隣を向くと、『戦争の足音』の姿がない。
 掛け布団を蹴り飛ばして跳ね起きた。声の限り叫びながら彼女を捜す。そんな自分を脳裏に描いたが、跳ね起きた一秒後、モスグリーンのボトムスに覆われた尻を発見した。
『戦争の足音』は僕の足元に佇み、僕に背を向けて西側の壁を凝視していた。僕の拳から滲み出た血が図らずも描いた抽象画、それを観賞しているらしい。
 彼女の尻をおもむろに両手で鷲掴みすると、無表情が振り向いた。僕の口元はナチュラルに綻んだ。

「おはよう、後藤さん」
「『戦争の足音』って呼んでくれる? それと、できればお尻は触らないで」

 抑揚に乏しい声で要求されたが、無視して膨らみを撫でる。昨夜は存分に触らせてくれたじゃないか。無言のメッセージを送りながらの行為となる。愛撫と呼ぶには荒々しい手つきだが、『戦争の足音』は振り払おうとはしない。

「あと、もう一つ。この絵は何なの?」
「ああ、それ? 何の意味もないよ。殴ったら、たまたまそういう具合に血がついただけで」
「殴った……」
「うん。ファミレスで見せた右手の怪我は、その際に負ったんだ」

 右手を彼女に見せる。包帯代わりにシャツを巻いていたはずだが、昨夜の長きにわたる行為の最中にほどけたらしく、現在は素手だ。
 広いとはいえない領域の皮が剥け、赤く変色しているだけの手を、『戦争の足音』は予想外の真剣さで見つめる。もしかすると、昨夜この手に及ぼされた行為の数々を追憶しているのかもしれない。

「こんなに血が出るまで殴るなんて、何があったの?」
「全然大したことじゃないよ。多分、君が体験したことと比べれば」

 尻を撫で続ける手をやんわりと剥がし、『戦争の足音』は僕に向き直る。

「お腹が空いたから、何か食べたいんだけど」
「ああ、朝食ね。食べるものがもう何もないから、買ってこないと。何が食べたい?」
「アンパン。粒あんじゃなくて、こしあんで」
「了解。他には?」
「コーヒー牛乳。それと、プリンもお願いしたいんだけど」
「甘いものばかりだね。好きなんだ?」
「うん、好き」
「そっか。初めて会った時も、僕にチョコを勧めてくれたもんね」

 立ち上がり、『戦争の足音』の面前で手早く着替えを済ませる。

「寒いでしょ、こんな恰好だと」

 ボタンが上から三つ外れたパジャマの前から右手を差し入れ、右乳房を優しく掴む。掌に感じた温もりに、ただでさえ緩んでいた頬がさらに緩んだ。

「箪笥から適当な服を選んで着替えておくといいよ。じゃあ、買ってくる」

 温もりから手を離し、部屋を後にする。

* * * * *

 朝食の買い出しをしていた時が幸せの絶頂だった。
 セックスをしていた時を含めても、その評価は揺るぎない。

 行為を始める前は、拒まれるかもしれないという不安があった。
 行為の最中は、極度の興奮状態だったため、幸福だという実感を抱く心のゆとりはなかった。
 行為が終わった後は、結果オーライだったとはいえ、強引に関係を結んだ罪悪感と後悔の念が押し寄せた。

 幸福な時間を過ごした実感を抱くまでには、夜を越えて、客観的な目で物事を見られるようになるのを待たなければならなかった。

 しかし、買い物は『戦争の足音』から要請されたことだ。ただ食料品を買うだけだから、激情に支配されて我を忘れることは有り得ない。頼まれた物を買ってくるのだから、目的を達成したのと引き換えに負の感情を抱く余地は皆無だ。

 ああ、何て幸福なのだろう。まるで新婚夫婦みたいだ。いや、一人で買い物をしているのだから、違うかな。まあ、『戦争の足音』は病み上がりみたいなものだからね。次こそは一緒に来よう。
 ずっとずっと、こんな生活が続けばいい。

 ――そう思っていたのだが。
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