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八日目
物語の終わり
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どれくらいの時間、二人は口を噤んで向き合っていただろう。
「陽奈子、聞いて。私、今日付でメイド長に就任することになったの」
静寂に包まれていたが故に、ささやくような小さな声は明瞭に聴き取れた。陽奈子は目を丸くして華菜の顔を見返した。相変わらず無表情だったが、嘘をついているわけでも、冗談を言っているわけでもないことが一目で分かった。
「昨夜琴音に部屋に呼ばれて、頼まれたの。事件を引き起こした責任をとりたいから、代わりにみんなをまとめる役目を担ってくれないかって。私は、それなら弥生が適任だと意見したのだけど、彼女は運転手であってメイドではないからと却下されたわ。それで、仕方なく」
琴音が問題を起こしたのは、要職を兼任したことによる精神的負担が原因の一つだったのだから、地位の返上は当然の流れというべきだろう。そして後継者として、小柳家に長く仕えてきて、仕事ぶりも性格も実直な華菜が選ばれるというのも、理に適っている。
「でも、引き受けたからには、全身全霊をかけてその仕事に励みたいと思ってる」
陽奈子はまたもや驚かされた。なにせ華菜が、自分の意思なり感情なりを表に出すことが滅多にない華菜が、決意表明をしたのだから。
「どうすればみんなから信頼されるメイド長になれるのかは分からない。でも、やるからにはそれを目指して、責任をもって働きたい。それがあなたや、辞めていったみんなに対する罪滅ぼしになる。そう私は信じているから」
ああ、そうか、と陽奈子は合点する。
華菜は、悪戯に責任を背負い込もうとしていたわけではなかったのだ。新たな一歩を踏み出すために、これまでの自身の言動を顧み、反省する必要があったのだ。
清々しい喜びが陽奈子の胸裏に広がっていく。華菜のように、なにか新しいことを始めたい。そんな思いに背中を強く押されて口を開いた。
「決めたよ、華菜。あたし、華菜と友達になる!」
底抜けに明るい表情、軽やかな口振りで、陽奈子は宣言した理由を説明する。
「あたし、この家に来たばかりのころから、華菜と仲良くなれたらいいなって思ってた。それで、自分から色々と話しかけたんだけど、華菜の反応はいつも素っ気なくて、すぐに諦めちゃったんだ。華菜は他人と関わることが好きじゃない人だから仕方ないって。でもそれは、自分の努力不足を棚に上げていただけだった。だから今日からは、もっと積極的に華菜と関わろうと思う。罪滅ぼしがしたいからじゃなくて、純粋に華菜と仲良くなりたいから」
肌に感じる風が、耳に聞こえる音が、同時に途絶えた。束の間の沈黙を経て、二人は見つめ合いながら言葉を交わす。
「琴音との関係が正常化したからといって、メイド長に就任したからといって、急に人付き合いがよくなるわけではないわ。分かっているの?」
「分かってる。分かってるけど、何度でもぶつかる。いつか分厚い壁を壊してみせる」
「何度やっても上手くいかなくても、愛想を尽かせたりしない?」
「しないよ。あたしのしつこさに華菜がうんざりすることは、もしかしたらあるかもしれないけど」
「思い通りにならなくても、殴らない?」
「殴らない。もう絶対にそんなことはしない。固く約束するよ」
再び沈黙。それは数秒ののち、華菜の言葉によって破られた。
「陽奈子に、一つしてもらいたいことがあるんだけど」
「してもらいたいこと? なに?」
「私にキスをしてほしいの」
陽奈子は面食らった。鼓動が早鐘を打ち始めた。
「愛情表現、謝意の表明、励まし、祝福、別れの挨拶……。キスは様々な意味を持つ行為だけど、ネガティブな意味での別れの挨拶を除けば、その全てが今の私たちに必要なものではないかって、ふと思ったの。でも、私はキスをした経験がないから、陽奈子のほうからしてもらおうと思って」
無表情に、無感情に、あくまで淡々と華菜は述べる。
陽奈子は人差し指で頬を掻いた。陽奈子だって、与太郎以外の相手にキスをしたことはない。その事実を伝えようかと思ったが、キスという単語を口にすること自体が気恥ずかしく、言い出せない。
華菜はガーゼに手をかけると、テープごと剥がした。露わになった鼻は、事件の前と全く同じ姿形をしていた。その下の唇は、薄いピンク色をしていて瑞々しい。
唐突な申し出にまごつきこそしたが、華菜の体の一部に自身の唇をつけること自体には、さほど抵抗感を持っていないことに気がつく。気がついた瞬間、心は固まった。
華菜の肩に両手を置く。じっと顔を見つめ、唇を触れさせる箇所を最終確認する。おもむろに顔を近づけ、両目を瞑り、薄く開いた自身の唇を華菜の唇に押し当てる。
一、二、三。
心の中で数えて、ゆっくりと唇を離す。顔を遠ざける。
瞼を開くと、華菜は口元を手で覆っていた。頬がうっすらと赤い。
「陽奈子ってば、なにをしているの。唇にしてなんて一言も言っていないのに」
目が合い、華菜は右手を下ろす。
「まるで恋人同士みたいじゃない。……馬鹿ね」
照れたように、それでいて嬉しそうに、華菜は微笑んだ。
右の頬に浮かんだ愛らしいえくぼに、陽奈子はもう一度、華菜にキスをしたくなった。
「陽奈子、聞いて。私、今日付でメイド長に就任することになったの」
静寂に包まれていたが故に、ささやくような小さな声は明瞭に聴き取れた。陽奈子は目を丸くして華菜の顔を見返した。相変わらず無表情だったが、嘘をついているわけでも、冗談を言っているわけでもないことが一目で分かった。
「昨夜琴音に部屋に呼ばれて、頼まれたの。事件を引き起こした責任をとりたいから、代わりにみんなをまとめる役目を担ってくれないかって。私は、それなら弥生が適任だと意見したのだけど、彼女は運転手であってメイドではないからと却下されたわ。それで、仕方なく」
琴音が問題を起こしたのは、要職を兼任したことによる精神的負担が原因の一つだったのだから、地位の返上は当然の流れというべきだろう。そして後継者として、小柳家に長く仕えてきて、仕事ぶりも性格も実直な華菜が選ばれるというのも、理に適っている。
「でも、引き受けたからには、全身全霊をかけてその仕事に励みたいと思ってる」
陽奈子はまたもや驚かされた。なにせ華菜が、自分の意思なり感情なりを表に出すことが滅多にない華菜が、決意表明をしたのだから。
「どうすればみんなから信頼されるメイド長になれるのかは分からない。でも、やるからにはそれを目指して、責任をもって働きたい。それがあなたや、辞めていったみんなに対する罪滅ぼしになる。そう私は信じているから」
ああ、そうか、と陽奈子は合点する。
華菜は、悪戯に責任を背負い込もうとしていたわけではなかったのだ。新たな一歩を踏み出すために、これまでの自身の言動を顧み、反省する必要があったのだ。
清々しい喜びが陽奈子の胸裏に広がっていく。華菜のように、なにか新しいことを始めたい。そんな思いに背中を強く押されて口を開いた。
「決めたよ、華菜。あたし、華菜と友達になる!」
底抜けに明るい表情、軽やかな口振りで、陽奈子は宣言した理由を説明する。
「あたし、この家に来たばかりのころから、華菜と仲良くなれたらいいなって思ってた。それで、自分から色々と話しかけたんだけど、華菜の反応はいつも素っ気なくて、すぐに諦めちゃったんだ。華菜は他人と関わることが好きじゃない人だから仕方ないって。でもそれは、自分の努力不足を棚に上げていただけだった。だから今日からは、もっと積極的に華菜と関わろうと思う。罪滅ぼしがしたいからじゃなくて、純粋に華菜と仲良くなりたいから」
肌に感じる風が、耳に聞こえる音が、同時に途絶えた。束の間の沈黙を経て、二人は見つめ合いながら言葉を交わす。
「琴音との関係が正常化したからといって、メイド長に就任したからといって、急に人付き合いがよくなるわけではないわ。分かっているの?」
「分かってる。分かってるけど、何度でもぶつかる。いつか分厚い壁を壊してみせる」
「何度やっても上手くいかなくても、愛想を尽かせたりしない?」
「しないよ。あたしのしつこさに華菜がうんざりすることは、もしかしたらあるかもしれないけど」
「思い通りにならなくても、殴らない?」
「殴らない。もう絶対にそんなことはしない。固く約束するよ」
再び沈黙。それは数秒ののち、華菜の言葉によって破られた。
「陽奈子に、一つしてもらいたいことがあるんだけど」
「してもらいたいこと? なに?」
「私にキスをしてほしいの」
陽奈子は面食らった。鼓動が早鐘を打ち始めた。
「愛情表現、謝意の表明、励まし、祝福、別れの挨拶……。キスは様々な意味を持つ行為だけど、ネガティブな意味での別れの挨拶を除けば、その全てが今の私たちに必要なものではないかって、ふと思ったの。でも、私はキスをした経験がないから、陽奈子のほうからしてもらおうと思って」
無表情に、無感情に、あくまで淡々と華菜は述べる。
陽奈子は人差し指で頬を掻いた。陽奈子だって、与太郎以外の相手にキスをしたことはない。その事実を伝えようかと思ったが、キスという単語を口にすること自体が気恥ずかしく、言い出せない。
華菜はガーゼに手をかけると、テープごと剥がした。露わになった鼻は、事件の前と全く同じ姿形をしていた。その下の唇は、薄いピンク色をしていて瑞々しい。
唐突な申し出にまごつきこそしたが、華菜の体の一部に自身の唇をつけること自体には、さほど抵抗感を持っていないことに気がつく。気がついた瞬間、心は固まった。
華菜の肩に両手を置く。じっと顔を見つめ、唇を触れさせる箇所を最終確認する。おもむろに顔を近づけ、両目を瞑り、薄く開いた自身の唇を華菜の唇に押し当てる。
一、二、三。
心の中で数えて、ゆっくりと唇を離す。顔を遠ざける。
瞼を開くと、華菜は口元を手で覆っていた。頬がうっすらと赤い。
「陽奈子ってば、なにをしているの。唇にしてなんて一言も言っていないのに」
目が合い、華菜は右手を下ろす。
「まるで恋人同士みたいじゃない。……馬鹿ね」
照れたように、それでいて嬉しそうに、華菜は微笑んだ。
右の頬に浮かんだ愛らしいえくぼに、陽奈子はもう一度、華菜にキスをしたくなった。
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