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三日目 その21
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体を洗っているあいだも、再び湯に浸かっているあいだも、甲高い鳴き声は聞こえてこなかった。欲求はすっかり萎んでしまったらしく、姫は大鳥に言及しなくなった。
寝間着に着替え終わり、二人ぶんのオレンジジュースを淹れる。姫はなみなみと注がれた液体に口をつけて少し減らしてから、グラスを手にリビングのソファに座る。わたしはダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、テーブルにグラスを置いて携帯電話を手にとる。快い気分が続いたのは、画面を明転させるまでだった。
入浴中に母親から電話があったようだ。件数は一件。コールは四十一秒間続いていた。
着信回数も、コールの長さも、偏執的な母親にしては淡泊だ。淡泊すぎるといっても過言ではない。
おとといの出来事が影響を及ぼしたのだ。
そうとしか考えられない。
「ふれあい会」の当選メールを確認した直後にかかってきた電話に水を差され、その怒りに任せてわたしが一方的に罵倒したあの一件が、母親の心になんらかの感情なり想念なりを植えつけたのだ。
恐怖? それとも嫌悪感? とにかく、これまでのように、比較的気軽に連絡するのをためらわせるなにかを。
昨日、電話を一度もかけてこなかった事実を考え合わせれば、間違いない。
わたしと母親の力関係が変化しつつあるのだ。
劇的に、ではないにせよ。
姫はテレビを観ながらオレンジジュースを飲んでいる。音量を大きくしすぎることも、視聴に関心を奪われてグラスの中身をおろそかにすることもない。どちらの行為に対しても、わたしが一度注意したことがあり、以降は同じ過ちを犯していない。姫は聞き分けがよく、学習能力がある子なのだ。
わたしも、わたしがやるべきことをやらなければ、という気分になってくる。
こちらから母親に電話をかけてみようか?
強い気持ちで母親と対話に臨めば、あるいは――。
着信履歴を開いて母親の電話番号を画面に表示した。そこまではよかった。
しかし、わたしの人差し指は、通話に必要となる最後のボタンを押せない。
いつの間にか鼓動が速まっている。緊張しているのだ。タップするか、やめておくか。二つに一つを決められずに宙吊りにされた人差し指は、かすかに震えている。男性かも女性かも、老人かも若者かも分からない声が、テレビの中からわたしを嘲笑った。
姫はいつものようにテレビ画面に釘づけで、わたしには見向きもしない。その事実に、急に心細くなってきた。
――やめておこう。
心の中で呟き、携帯電話の画面を暗転させる。
距離を置こう。大鳥と同じだ。確実で明らかなメリットが期待できない存在に、わざわざこちらからコンタクトをとる理由はない。
自分に言い聞かされた自分は、どうやら呆気なく納得したらしい。
しかし、心の片隅に納得しきれない部分をわずかながらも残す、灰色の納得だった。
* * *
夜のしじまはどこまでも深く、大鳥が鳴いたとしても吸いこまれてしまいそうだ。
園芸店、猿焼きの会場、バスルーム。それらの場所での自分自身の振る舞いを振り返って、母親らしい行動をとったと自画自賛したが、母親らしく振る舞う自分に酔っていただけなのかもしれない。
わたしは今夜、わたしの人生を議題に、母親と対話する勇気を持てなかった。
『自らの母親を克服できない人間が、果たして、母親としてやっていけるの?』
いじわるなもう一人のわたしが、わたしに問いかける。
わたしは隣で眠る姫を一瞥し、自答する。
「克服してみせる。今日までの三日間で分かった。わたしは母親としての資質を持ち合わせている。だからあとは、自分の母親を乗り越えるだけ。乗り越えて、わたしは、完璧な母親になる」
言葉を切ったとたん、疲労感とも眠気ともつかないものが体にのしかかってきた。まぶたを閉ざし、眠ることにした。
先のことは、今は考えたくなかった。
寝間着に着替え終わり、二人ぶんのオレンジジュースを淹れる。姫はなみなみと注がれた液体に口をつけて少し減らしてから、グラスを手にリビングのソファに座る。わたしはダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、テーブルにグラスを置いて携帯電話を手にとる。快い気分が続いたのは、画面を明転させるまでだった。
入浴中に母親から電話があったようだ。件数は一件。コールは四十一秒間続いていた。
着信回数も、コールの長さも、偏執的な母親にしては淡泊だ。淡泊すぎるといっても過言ではない。
おとといの出来事が影響を及ぼしたのだ。
そうとしか考えられない。
「ふれあい会」の当選メールを確認した直後にかかってきた電話に水を差され、その怒りに任せてわたしが一方的に罵倒したあの一件が、母親の心になんらかの感情なり想念なりを植えつけたのだ。
恐怖? それとも嫌悪感? とにかく、これまでのように、比較的気軽に連絡するのをためらわせるなにかを。
昨日、電話を一度もかけてこなかった事実を考え合わせれば、間違いない。
わたしと母親の力関係が変化しつつあるのだ。
劇的に、ではないにせよ。
姫はテレビを観ながらオレンジジュースを飲んでいる。音量を大きくしすぎることも、視聴に関心を奪われてグラスの中身をおろそかにすることもない。どちらの行為に対しても、わたしが一度注意したことがあり、以降は同じ過ちを犯していない。姫は聞き分けがよく、学習能力がある子なのだ。
わたしも、わたしがやるべきことをやらなければ、という気分になってくる。
こちらから母親に電話をかけてみようか?
強い気持ちで母親と対話に臨めば、あるいは――。
着信履歴を開いて母親の電話番号を画面に表示した。そこまではよかった。
しかし、わたしの人差し指は、通話に必要となる最後のボタンを押せない。
いつの間にか鼓動が速まっている。緊張しているのだ。タップするか、やめておくか。二つに一つを決められずに宙吊りにされた人差し指は、かすかに震えている。男性かも女性かも、老人かも若者かも分からない声が、テレビの中からわたしを嘲笑った。
姫はいつものようにテレビ画面に釘づけで、わたしには見向きもしない。その事実に、急に心細くなってきた。
――やめておこう。
心の中で呟き、携帯電話の画面を暗転させる。
距離を置こう。大鳥と同じだ。確実で明らかなメリットが期待できない存在に、わざわざこちらからコンタクトをとる理由はない。
自分に言い聞かされた自分は、どうやら呆気なく納得したらしい。
しかし、心の片隅に納得しきれない部分をわずかながらも残す、灰色の納得だった。
* * *
夜のしじまはどこまでも深く、大鳥が鳴いたとしても吸いこまれてしまいそうだ。
園芸店、猿焼きの会場、バスルーム。それらの場所での自分自身の振る舞いを振り返って、母親らしい行動をとったと自画自賛したが、母親らしく振る舞う自分に酔っていただけなのかもしれない。
わたしは今夜、わたしの人生を議題に、母親と対話する勇気を持てなかった。
『自らの母親を克服できない人間が、果たして、母親としてやっていけるの?』
いじわるなもう一人のわたしが、わたしに問いかける。
わたしは隣で眠る姫を一瞥し、自答する。
「克服してみせる。今日までの三日間で分かった。わたしは母親としての資質を持ち合わせている。だからあとは、自分の母親を乗り越えるだけ。乗り越えて、わたしは、完璧な母親になる」
言葉を切ったとたん、疲労感とも眠気ともつかないものが体にのしかかってきた。まぶたを閉ざし、眠ることにした。
先のことは、今は考えたくなかった。
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