記憶士

阿波野治

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 冷蔵庫とダイニングテーブルの間の空間に立って、わたしたちは笑顔でアイスを頬張った。若いころから記憶士として、大人を相手に仕事をしていた影響なのだろう、お母さんはどちらかというとマナーには厳しい。本来であれば「椅子に座って食べなさい」と注意をする場面だったが、自分が違反したルールやマナーに関しては、他者に関しても全面的に許容することが多かった。
 そんな、度量が広くて柔軟なところが、わたしは好きだった。
 ジュースの空き缶を道端にポイ捨てしたこと。夜中までテレビゲームで遊んだこと。依頼者との約束をすっぽかして駅前に出かけたこと。どれもこれも、幼心にも褒められたものではないと分かる行為だが、お母さんといっしょに規則を破る快感は得も言われぬものがあった。

 家族三人で行動するときの夏也も、わたしほど感情を表には出さなかったが、やはり嬉しそうにしていた。
 しかし、そのころにはもう。

「秋奈。食べ終わったら、お兄ちゃんの部屋までアイスを届けてあげて。汗をかいたあとだから、きっと喜ぶよ」
「うん、分かった」

 わたしはアイスの箱の中身を探って、あることに気がついた。
「チョコ味がない! 一本も!」
 八本入りのアイスの内訳は、バニラ、いちご、チョコ、ソーダ、以上四種類の味が二本ずつ。夏也はチョコ味が好きなので、それを持っていこうと思ったのだが、一本も入っていない。わたしが食べたのはいちご味だから、必然に。

「お母さん、チョコを二本も食べないで、他の味を食べればよかったのに。お兄ちゃんが好きな味なのに」
「ああ、そうなの? 夏也、チョコ味が好きなんだ。ふーん」
 勢いよく水を出して手を洗いながらの、とぼけたような声での返答だ。きゅっと音を立てて蛇口を閉め、

「お兄ちゃんのことをよく知っているんだね、秋奈は。お母さんが持っていってあげるよりも喜ぶと思うな、きっと」
「二階に上がるのが面倒くさいだけでしょ。稽古が終わったあとのお母さん、すっごく怠け者になるもん」
「そうかもね」

 お母さんはすでにわたしに背を向けていたので、どんな表情をしていたのかは分からない。ソーダ味を選んで引き出しを閉め、二階へと駆ける。

 そのころにはすでに、お母さんと夏也の関係は悪化しつつあった。お母さんも夏也も、相手に対する不平不満をそう簡単には口にしないから、二人の間に具体的になにが起きているのかを、まだ幼かったわたしは察知できなかった。お母さんから、あるいは夏也からそれとなく頼まれて、母と息子の橋渡し役を務めることが増え始めていたことにも、全く気がついていなかった。

 母親と二人でアイスを食べて、兄の分のアイスを兄の自室まで届ける。
 そんな些細な出来事が、悲劇の始まりを暗示していたなどとは、当時のわたしは思ってもみなかった。
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