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第三部
第二章:03
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「――ほのかの容態はどうなんですかッ!?!?」
常になく切迫した様子で、火之夜が医者に詰め寄る。
緑の手術着をその執刀医は、ゴム手袋を丸めながら
難しい顔をして答えた。
「幸い、主要な臓器は傷ついていません。が、動脈が切れて
かなりの出血をしていました。食い込んでいた破片は
取り出して縫合、輸血を行っていますが血栓ができる可能性も
捨て切れません。いましばらくは……」
「……ッッ!!」
なおも言い募ろうとする衝動を抑え、ぎりぎりと両手を握り締める。
そんな火之夜にどう声をかけたものか、ノー・フェイスは躊躇っていた。
(……ここまで動揺した火之夜は、初めて見たな)
常に飄々とした態度で頼りになる彼が、こうも余裕を失うとは。
初めて見る火之夜の一面に、ノー・フェイスは戸惑っていた。
失望した、という話ではない。戦場で悩む彼なら、ノー・フェイスにも
力になれる。だが、こんなとき――彼に対して自分が何をできるのか、
皆目検討がつかないのだ。
「――そういう時はね、少しそっとしておいてあげるのも一つの手だよ」
いつの間にか背後に忍び寄っていた桜田が、いつになく真面目な顔で促す。
今の火之夜を一人にするのにためらいはあるものの、人生の先達の言葉に
従いその場を離れる。
手術室から離れた、一階のロビー。
深夜で人影のないその座席に身を預ける桜田に、たずねる。
「……大丈夫なのか、火之夜は」
「大丈夫。彼は……強いから、ね。
自分の心を制御する術は心得ている。それは時に……悲しいことでもあるけれど」
ふ、と遠くを見る目でさびしそうに桜田が答える。
だが、言葉の意味がわからない。
「……悲しい、とは? 感情を制御できるなら、それに越したことはないだろう」
「そうだね。その方が、間違いは少ない。
でも……悲しいときに、辛いときに、それをぶつけることもできない……
それはやっぱり、悲しいことだよ」
わかるようで、やはりわからない。ただ、この普段はおちゃらけた雰囲気の女性も
相応に修羅場を潜り抜けてきたのだろう、とだけ察する。
「……ひのくんにとって、御厨さんは特別だよ。唯一遺された、
肉親みたいなものだと言ってもいい。その女性が傷つけられて、
それでもあの程度で済ませられるのは……彼が、自制することを
強要されてきたからだよ」
「……」
そういえば、以前に似たようなことを言っていた気がする。
たった一人で戦うことが、恐ろしかった。それを表に出すことができない。
今も、そうなのだろうか。もっとも近しい女性が死に瀕して、
わめき、暴れ、憎しみをぶつけたくてたまらない気持ちを必死に抑えこみ、
己の職分をわきまえ、感情を飲み込まなければならない。
そんな戦いを、孤独に続けているのだろうか。
フェイスには、無関係な話だ。フェイスは感情を完全に制御している。
たとえどれだけ心が乱されようと、目的を見失うことはない。
それは、裏切り者である自分も同じだ。――いや、だった、か。
「……あのアルカーは、ホオリの姉だと――そう、名乗った」
「……聞いたよ」
その事実と彼女の悪意をぶつけられ、ノー・フェイスは戦うことが
できなくなってしまった。フェイスとしてならそれこそ欠陥品だろう。
それ自体はどうでもいいが、自分がどうしたらいいのかわからないのは、
困る。
「……彼女は、本当にホオリの姉なのか」
「いやぁ……さすがに私も、わからないかな、それ……」
「……おそらく、本物だ」
背後から聞こえてきた声に弾かれたように振り向く。そこには、
焦燥しながらもしっかりとした足取りの火之夜が歩いてきていた。
「――いいのか、火之夜。傍に……いてやらなくて」
「……こういう事態になることも、何度も想定してきた。
彼女は、俺がやるべきことをやれと――口をすっぱくして
言っていたよ」
力強い声に反して、その顔には余裕がない。
切羽詰った、あるいは思いつめたような厳しい表情だ。
「……以前、雷久保博士からほのめかされたことがある。
フェイスダウンには、まだ取り返さなければならないものが
ある、と。……はっきりと教えてくれはしなかったが……
今日、確信した。あの少女がそれだ」
その言葉を口にするときだけ、一瞬顔を歪ませる。
複雑な思いがあるのだろう。
ほのかを狙い、傷つけた相手としては憎しみをぶつけたい。
だが――フェイスダウンの被害者としては、救いたい。
そんな板ばさみの苦悩が、透けて見えるようだった。
ノー・フェイスは――
「……おまえこそ、どうなんだ?」
「……何?」
火之夜が、椅子に腰掛けて缶コーヒーを開けながら問う。
内心狼狽しながら、彼の言葉に耳を傾ける。
「彼女の――ホデリの言い分は、支離滅裂だ。彼女の境遇を鑑みれば
責める気にもならないが、かといっておまえが気を病む必要はないと、
俺は思う。――だが、おまえはそうじゃないようだな」
「……」
図星ではあった。
ノー・フェイス自身、火之夜の言うことももっともだとは思う。
確かに、彼は彼女の存在さえ知らなかったのだ。見捨てたと言われても、
助けようがなかった。
だが、だからこそ――
(……オレは、彼女に恨まれても、仕方がない)
そう、思ってしまう。
「……前にも言ったが、悩むのはお前の力で、お前の美点だとも思う。
――だが、それに押しつぶされては、意味が無いぞ」
珍しく厳しい忠告を、火之夜がしてくる。ぐっとつまり、
何も答えられなくなる。
「――はいはい、ひのくんもあんまりノーちゃんいじめないいじめない。
ほら、ちょっと寝たほうがいいって」
「いや、俺は――いや、そうだな。すまん、ノー・フェイス。
確かに……疲れているようだな」
こめかみをもみながら謝罪する火之夜。声のかけ方がわからずに
ただ見つめるだけになってしまうが。
「少し――眠らせてもらう。
ただ、できるだけ彼女のそばに居たい。
無理をいうようで悪いが、仮眠室を使わせてもらえないか
聞いてくるよ」
「じゃ、私はいつでもひのくんと連絡がつくようにするから。
ノーちゃんのほうで何かあったら、私にコンタクトしてね?」
二人が立ち上がり、それぞれに動き始める。
入れ替わるように、ノー・フェイスはベンチに腰をおろした。
(雷久保――ホデリ。ホオリの姉……)
おそらくは、ホオリも知らないはずだ。そんなそぶりを見せたことは一度もない。
彼女が知ったら、どんな顔をするのだろう。
自分の姉が、ああも昏い情念に取り付かれていると知ったら――
どんな思いになるのだろう。
家族と呼べる者がいないノー・フェイスには、想像もつかない。
ただひたすらに、悲しいのだろうか。
それとも、それ以外の何かを感じるものなのだろうか。
(……伝えるべきか、否か)
そんなことから悩んでしまう。
……いや。それは、嘘だ。
本当はもっと、考えなければならないことがある。それから
目をそらそうとしただけだ。
(オレは、彼女に対して何をしてやればいい)
ノー・フェイスに彼女は救えなかった。救いようが無かった。
だがそれは――彼女の苦しみをやわらげることにならない。
ノー・フェイスはフェイスダウンの一員だったのだ。
彼女を救い出せる可能性があったのは、雷久保夫妻を除けば彼一人。
その自分に見捨てられたのだ。彼女が恨むのも……道理ではある。
ノー・フェイスの心は決まっている。救いたい。
彼女も、救ってやりたい。そう決めている。
不完全にでも、ホオリを救うことはできたのだ。ならば
その姉である彼女を救ってやらねばならない。
だが――いったい、どうすれば彼女を救える?
ただフェイスダウンから引き離せばいいというものではないと、
ノー・フェイスも理解していた。
彼女には悪意がある。底知れない、世界に対する悪意が。
その悪意が、自分自身にさえ向いていることが途方もなくおそろしく、
そして悲しい。
悪意で自分を焼き焦がしてしまいそうな彼女を、どうにか
その悪意そのものから引き離してやりたい。
だが、それにはどうすればいいのだ?
ノー・フェイスは誰もいなくなった病棟の暗闇に向け、
何度も何度も問いかけ続けた――。
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