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第9章「総長様ってのはなぁ、好きなもんを存分に甘やかしてやりてぇもんなんだよ」

夜伽の中の総長様 桜十葉side

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夏ももう、終盤を迎えようとしていた。8月から10月までの3ヶ月という長い夏休みを終えて、今はもう11月。最近は涼しくなる日が増えてきていて、春服から中間服に変えたのだ。



ふふっ。裕翔くん、喜んでくれるかな。ベッドの上にはまだすやすやと気持ち良さそうに眠っている綺麗な顔の裕翔くん。眠っている間も、その綺麗なお人形のように安らかな表情が崩れないなんて、すごく羨ましい。



私は裕翔くんに初めて見せる中間服を早く見てもらいたい一心で、朝から鼻歌まで歌ってしまっていた。



朝ごはんの準備をして、食卓にパパッと作った卵焼きやサンドイッチを並べる。制服に着替えて、学校の準備をしてから、裕翔くんがまだ眠っている部屋に向かった。



お母さんたちが海外旅行に行く時に、私のお守(も)りが裕翔くんに託された。しかしそれは一時的なものではなく、いわゆる、ど、同棲…という風になってしまっていたのだ。



だから、前々から話していた通り、一条はこれを機に柊 はのんさんという恋人の元へ行ってしまった。



やっぱり少し寂しいけれど、一条にだって幸せになって欲しいもん。そして会ってあげていなかった分、はのんさんを存分に甘やかしてあげて欲しいな。



私はそんな呑気なことを思いながら、部屋の扉を開けた。



すると、ニコっと月の光のように優しい笑みを浮かべて、黒いスーツに身を包んでいる最中の裕翔くんが眩しい朝日に照らされて、色気が増したように見えた。



「おはよう、桜十葉」


「う、うん。おはよう」



やっぱりまだ、慣れないなぁ~……。学校がない夏休み中なんか、ずっと裕翔くんが近くにいるから、それを考えただけで、顔が熱くなってしまっていた。



「それ、中間服?」


「う、うん…。どうかな?似合ってる?」


「うん。可愛すぎて、一瞬襲いそうになった」



ええぇぇえ!?裕翔くん!?

裕翔くんは悪い冗談を言ってやったり、というような意地悪い表情をして、首を傾げて笑った。



本物の総長様に言われる迫力は、本当に凄まじい。艶(つや)のあるサラサラな黒髪を掻き分け、軽く髪をセットする裕翔くん。もうさっきからドキドキが止まらないよ~…!



「ほら、桜十葉。そんなに俺を見つめてどうしたの?早く下に降りようよ」



裕翔くんが私の肩に腕を回して、優しく押す。部屋を出て、広くて長い赤いカーペットの敷かれた廊下を、螺旋階段のあるところまで歩く。



本当に、大きくて豪華すぎる屋敷だ。さっきも朝ごはんを作ろうとしたら、メイドさんや執事さんのめちゃくちゃ止められたけど、私はそれを押しのけて厨房に入った。



厨房にはコックの帽子と上質なエプロンに見を包んだシェフさんたちがいるのは承知していたが、私は裕翔くんに少しでも何かしてあげたいんだ。



いつも、貰ってばかりだから。せっかくお料理は得意なのだから、ここぞというときに発揮しなくてどうする。



「ん~、何だかすごく美味しい匂いがしてきた」



隣で歩く裕翔くんが、すごく嬉しそうな顔をして笑う。



「ほ、本当?今日も作ってみたんだけど、…迷惑じゃない?」



私は裕翔くんの顔を不安な気持ちで見ながら、そう問うた。するといきなり、裕翔くんの細くて大きな手が私の顔に伸びてきた。



「ふぎゅっ……!?」


「ははっ、ふぎゅってすごい音出すね」



裕翔くんの手が私の鼻をつまんでいる。今すごく、変な顔になっていると思う。



「桜十葉。もう迷惑だなんて、2度と言わないで。そんなんじゃないから。むしろ俺は、桜十葉が作ってくれたものしか、口に入れたくない」


「ふぇっ…?」



真剣な裕翔くんの表情に、思わず怯んでしまう。



「分かった?分かったならこの手を離してキスしてあげるけど」



裕翔くんがそう呟いて、意地悪く私を見つめる。



対する私は、頷く以外に選択肢なんてなくて、ぶんぶんと音が出るくらい、沢山頷いた。



「ふふっ、そんなにキスして欲しかったの?悪いことを言ったばかりなのに、強情だね。桜十葉ちゃん」



あ、これ……私をからかうときの裕翔くんの口調だ。名前をちゃん付けにするのとか。



「ひ、ひどい……!なんでこんなこと、……んっ」



キスをするのは嘘だった、と頭の中で思った瞬間だったからだろうか。裕翔くんとのキスに、今までで一番驚いてドキドキが止まらないのは。



「ごちそーさま。すごいうまかったよ」


「ま、まだ朝ごはん食べてない……っ!」



裕翔くんは、ぺろりと自分の唇を舐めて、私の真っ赤な顔を見て嬉しそうに笑った。



「俺は朝ごはんより桜十葉のこと食べ……」


「裕翔くん、……ほら、ここに私がせっかく作った朝ごはんがあるよ?」



胸の中で、怒りがふつふつと燃え上がる。私は、いわゆる普段怒らない人が怒ったら、すごく怖いの部類に入る人種なのだろう。



「わ、分かったよ。……ちゃんと食べる」



ほら、だって総長様である裕翔くんだって青い顔をして従順に頷いているほどなのだから。私は席に着く裕翔くんを見て、自分も席に座る。



裕翔くんは、今までどんなものを口にしてきたのかな。私の料理を最初に食べてもらった時、裕翔くんは泣いていた。食べながら、涙を流していた。



こんなに温かいご飯は食べたことがない。と。私は、ただの冗談だと思っていたのだ。だけど、違った。それは、冗談なんかではなかった。



裕翔くんは今まで、私とは違う怖くて真っ暗闇の世界で生きてきた人だ。それを、明るい世界で生きてきた私には理解することが出来ない。



でも、私に出来ることなら何だってしてあげたい。裕翔くんは、私にとってすごく、大切な人だから。



きっとあなたは、私の想いの半分も、知らないだろうな。私がこんなにも強い気持ちで裕翔くんを好きだってこと。



それを言ったら、きっとあなたは『俺の方が何千倍も桜十葉のことが好き』と、優しい目をしてそう言うのだろう。



「ん!すげえうまい!朝から奥さんの手料理が食べられるなんて、俺って幸せものだなあ」



裕翔くんが小さな子供のような嬉しい顔をしながら冗談を交えてそう言う。すごく幸せそうに笑うから、私もつい嬉しくなる。



「私、裕翔くんの良い奥さんになれるかな?」


「え、……」



あ、なんか恥ずかしい……。いつもみたいに乗ってきてくれるかと思いきや、裕翔くんはとても驚いた顔をして私を見つめている。



「あ、その…変な意味とかじゃなくて……」


「なれるよ、絶対に。桜十葉は良い奥さんになる」



ごにょごにょと後味悪く喋っていた私の言葉を遮って、裕翔くんは真っ直ぐな瞳をして、そう言った。その瞳が、何だかとても潤んで見えた。



「そ、そうかな?」


「うん。そうだよ」



まるで新婚さんのような会話に、自然と頬が熱くなる。しかも、裕翔くんがいつも以上に真剣な瞳でそういうから、話を逸らすことが出来ない。



でも、……



「桜十葉と結婚できる人はきっとすごく、幸せものだろうなあ……。すごく、羨ましいよ」



裕翔くんの、呟くようにして言ったその言葉が、耳に入ってしまった。聞きたくなかった。聞かなければ、良かった。



裕翔くん自身、私に聞こえるように言ったつもりじゃなかったかもしれない。まるで吐き出すかのような、独り言だったからだ。



「で、でも……私は裕翔くんと結婚、したい……」



裕翔くんの伏せられた瞳は、私の方を向いてはくれない。まるで、聞こえなかったように、何も反応してくれなかった。でも、そう言わないと、裕翔くんがどんどん離れて行ってしまうと思ったから。



裕翔くんが全国的に有名な、あのKOKUDOの総長様だと知って、…裕翔くんがあの坂口組の組長であるヤクザの息子だと知って、……本当は怖かった。



裕翔くんが初めてそれを打ち明けてくれた時、私は裕翔くんのことを怖いだなんて、一切思わなかった。だって裕翔くんは、すごく優しい人だから。でも今は、……



裕翔くんの優しさが、すごく、怖い。



優しくしてくれて、愛してもらって、すごく幸せなはずなのに、私の心には裕翔くんがいつか、私のもとから離れて行ってしまうのではないかという恐怖が深く根付いている。



裕翔くんのことを、本当は普通の大学生だと信じていた。私と同じ世界を生きていて、同じように親からもらう愛を知っていて、人に優しくされた時の温かさも全部、知っている。そう、思っていたんだ。



だって、そうだったとしたら、裕翔くんと寄り添えることが出来たかもしれないから。でも裕翔くんが普通の人ではないと知ってしまった今は、すごく、すごく、裕翔くんが遠い。



「桜十葉、どうした、……え、なんで泣いて…っ!」


「ふえっ、ふぅっ………うわああああん……っ!、ふっ、……」



急に黙った私を訝しく思ったのか、裕翔くんが顔を上げた、その時。今まで我慢していた涙が、一気に溢れかえってしまった。



裕翔くんは、さっきの自分の言動が私に聞こえていたのか、というように顔を真っ青にさせて、がたんっと席を立った。



恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。

こんな風に泣いてしまうなんて。今までずっと、不安と焦燥を抱いて、裕翔くんと一緒にいた。でもそれは、裕翔くん自身が怖いんじゃなくて、……



「ひろどぐ、ん……は、いつか離れて……ひっく、行っちゃうの……っ?」



私を抱きしめようとした腕を、思わず振り払ってしまう。安心させるだけの、ハグなんていらない。だってそんなの、もっと不安になるだけじゃない……っ。



「桜十、葉……。俺は、どこにも行かない、から……」



私が手を振り払ったことに、ショックを受けている様子の裕翔くん。真っ青だった顔が、さらに青くなっている。



「うそだ……っ!ほんとなら、そんな顔しないよ……っ」



苦虫をかみ潰したような、苦しい表情。



裕翔くんは私とは違うから?
裕翔くんは総長様だから?
裕翔くんは坂口組のヤクザの息子だから?



違う。そんなの、どうだっていい。これは、全部裕翔くんから聞いた言葉たちだ。あの日。裕翔くんが公園で私に、すべてを打ち明けてくれた日。



あの時に、ようやく安心出来たのに…、なのに。



「裕翔くんはまだ、ひっく……、隠しごとを、するんだね」



私の方を、ばっと向いた裕翔くん。今、ようやく目を見てくれた。



「違う、そんなんじゃなくて、……」



こんな重い空気に、するつもりはなかったのに。



「桜十葉、聞いて…。今日、全部、全部、……話すから。でも、今は待っていてほしい。今日の夜、俺のグループの集まりがあるから、そこに桜十葉も連れて行く」



グループ、とはKOKUDOのことだろうか。前に、一度だけ黒堂高校に裕翔くんと一緒に行ったとき、会ったことのある人達だろうか。



でもその時は、みんなしっかりと制服を着ていて、不良と言えば不良なのだろうけど、悪い不良だとは、感じなかった。みんなすごく誠実で、裕翔くんのことを、本当に慕っている人達なんだな、と感じたのだ。



「う、ん……」



私だけが、裕翔くんと一緒にいたいと思っているわけじゃない。裕翔くんだって、私のこと、ちゃんと考えてくれている。裕翔くんだって、私と一緒にいたいと思ってくれている。それは、分かっているんだ。



私はいつから、こんなにも心配性になってしまったのだろう……?



1つの疑問が頭に浮かんだ時、突然ズキッと頭に痛みが走った。



「っ、……痛っ…!」


「桜十葉…っ!どうした!?大丈夫か…っ!?」



裕翔くんの瞳が、限界にまで見開く。



ズキンズキンズキン……っ。



1度感じた痛みは、おさまるどころか、だんだんとひどくなっていく。頭の中に、あの日裕翔くんがすべてを打ち上げてくれた公園が、モノクロの写真のようにして浮かび上がる。



そこにいるのは、───1人の女の子と、そっくりな2人の、男の子たち。



「え、……?」



その映像が頭にフラッシュバックしたかのようにして、一瞬だけ浮かび上がり、すぐに、消えた───。



「大丈夫か……?桜十葉」



裕翔くんの瞳には、溢れんばかりの涙が溜まっている。あれは、一体何だったのだろう……?



不安と焦燥。それと同時に感じたのは、“懐かしさ”だった。



私の心の奥深くに、さっき頭の中でフラッシュバックした光景を懐かしく思うものがある。



「う、ん…。もう、大丈夫だよ。裕翔くん、泣かないで、……綺麗な顔が台無しだよ」



裕翔くんは、私の頬を温かくて大きな手で包み込んでいる。私の涙で濡れた頬を、優しく拭う。でも、裕翔くんだって、……。すごく、すごく泣いているよ。



「あれ、……どうしてだろうね。桜十葉のこと心配しすぎて、泣いちゃったみたい」



ふふっと笑って、目を細める裕翔くん。誤魔化しきれて、ないよ。誤魔化すのなら、私を心配させないくらい完璧に、誤魔化してほしいよ。



私たちは、お互いにお互いの頬に手を添える。私が裕翔くんの涙を優しく拭うと、裕翔くんのもう1つの手が、私の手に添えられる。



「覚悟ならもう、出来ているよ」



私はそう言う。私は、裕翔くんと同じ世界で生きていきたいから。危険だって、ちゃんと理解してる。私の未来は、明るくて幸せな未来とは全く違うものになると分かっている。分かっているんだ。



「どんな覚悟?」


「裕翔くんと一緒に、堕ちる覚悟だよ」



裕翔くんの、涙で潤んだ瞳が驚いたように瞠る。私は、どんな時でも、裕翔くんと一緒にいるから。



「俺も、覚悟してるよ」



私たちはお互いに、強く強く、抱きしめ合った。
裕翔くんからは、優しくて温かい、陽だまりのような匂いがした。



***



裕翔くんとこれでもかってくらい沢山泣いた後、私は裕翔くんと一緒に学校へ向かった。朝から泣いてしまったせいか、目が少し腫れぼったい。



「じゃあ、行ってくるね」


「うん。行ってらっしゃい。また、ラインするね」



裕翔くんの柔らかな唇が私の唇に重なる。大きな電柱の影。誰にも見えない死角になっているところで、こうやってキスをするのは、私のいつもの日常だ。



もし見つかってしまったら、それはそれで大変なことになってしまうだろうな。だって裕翔くんは、みんなから恐れられている総長様なのだから。



その秘密を知っているのは私だけだと思うと、すごく嬉しくなる。私は裕翔くんに手を振って、校門までの道のりを歩いた。



校門をくぐり、また今日も、豪華すぎる校舎にため息を吐く。春が過ぎて、あっという間に夏も過ぎて行った。今はもう、11月だ。未だに、明梨ちゃんという子とも話せていない。



「今日は話せたら、いいな……」



1人、重たい気持ちになりながらまたもため息を吐いた。



「おーとーはーっ……!!!おっはよーっ!!」



気が緩んでいたせいか、その大きすぎる声にビクリと体が反応した。後ろからすごい勢いで抱き着いてきた朱鳥ちゃんをすごく恨めしく思ってしまう。



「う、うるさいよ。朱鳥ちゃん……、朝からどうしたの?」


「私、ようやく好きな人が出来ましたー!!」


「え、そうなの!?おめでとう。…でも、……あれ?お見合いの話はどうなってたの?」



ちょうど、学校が夏休みに入ろうとしていた前。朱鳥ちゃんはとても暗い表情をして、お見合いがあるのだとかを話していた。それは、なくなったのだろうか。



「私、ちゃんと許嫁の人と会ったの。これまで決められた結婚っていうのが凄く嫌だなって思ってたんだけど何回もその人と会ってくうちに凄い良い人なんだなって思って」



一気にまくしたてるようにして話す朱鳥ちゃん。あははっ、といつもの上品な笑い方とは違う笑い方をした朱鳥ちゃんが今日は一段と輝いて見える。好きな人が出来たからなのかな?



「さすがだねっ!やっぱりすごいよ、朱鳥ちゃんは」



朱鳥ちゃんは、お嬢様でありながらそのことを他人にひけらかしたりすることはない。ここ、条聖学院は御曹司やお嬢様ではない子たちももちろん通っている。



サバサバとした性格で、自分をしっかり持っていて、そして何より、朱鳥ちゃんは困っている人がいれば、迷わずにその人を助けに行く。



だから私は、朱鳥ちゃんのことをすごく尊敬していて、すごく大好きなんだ。



「そーお?そうでもないけどっ!」



ふふっ、と上品に笑う朱鳥ちゃん。やっぱり今日は、一段と可愛く見える。



私が微笑ましく朱鳥ちゃんを見つめていると、急に朱鳥ちゃんは急にニヤニヤとした表情をし始める。



「で?桜十葉はどうなのよ、あのすっごいイケメンさんと!」


「へっ!?あ、う、うん。すごく楽しいよ」


「えー?本当にそれだけー?もっとあるんじゃないの、ほら、キュンとしたエピソードとか!!」



そう言われて、私は今朝のことを思い出した。



『桜十葉、聞いて…。今日、全部、全部、……話すから。でも、今は待っていてほしい。今日の夜、俺のグループの集まりがあるから、そこに桜十葉も連れて行く』



何かを諦めたように、そして、何かを覚悟したかのような表情をして、裕翔くんはそう言った。その時の裕翔くんは、本当に真剣だった。



そう言ってくれた裕翔くんを、私は信じようと思うんだ。



でも、ごめんね……朱鳥ちゃん。

私と裕翔くんの関係は、仲の良い親友にだって話せるくらい、潔白ではないの。だから私は、



「朝からいーっぱい、抱きしめてもらった!」



嘘ではないけれど、すべてを隠した嘘を付く。
本当は、裕翔くんとの関係を朱鳥ちゃんに言いたくて仕方がない。



誰かと恋バナをしたことなんて今までなくて、前の彼氏の話を自分からしていた覚えも、全くないのだ。



「え!?何それ最高じゃんっ!!めっちゃ桜十葉のこと愛してるんだね~、彼氏さん!」



目をキラキラとさせてそう言う朱鳥ちゃん。もし、裕翔くんが凶悪組織の坂口組の組長の息子だと知ったら、どうするのだろう。



絶対に危ないよ、やめた方がいい、と私を守ろうとするだろうか。



でも、私はもう後戻りできないところまで、来てしまった。すべては、私自身が望んで、選んできたこと。



裕翔くんはとても優しくて、すごく私のことを想ってくれているのを私が知っている。



「うん。すっごい大切にしてくれてるよ」



裕翔くんは、怖い人なんかじゃない。優しい人なんだってみんなに知ってもらいたい。そうしたら、裕翔くんの傷ついた顔を、見なくて済むかもしれないから。



キーンコーンカーンコーン、キーンコーンカーンコーン……



あ。やばい。忘れていた。



「ねえ、桜十葉、今日、始業式だったよね……っ!?」


「う、うん…。早く行かなきゃ、まずいかも」



私に恐る恐る尋ねる朱鳥ちゃんの顔が、真っ青だ。



私達はお互い目配せし合った後、お嬢様という自覚のないままに全力疾走をして広すぎる校庭を駆け抜けた。



「はあっ、はぁっ、はあっ……!」



朱鳥ちゃんとすっかり校門の前で話し込んでしまって、時間の方に気を配れていなかった。これが何でもない日ならまだしも、今日は始業式。



条聖学院は、一つ一つのイベントをとても大事にしている学校なのだ。もし遅れでもしたら、お嬢様であろうとも先生方の激怒は目に見えている。



「桜十葉、後もう少しだから、頑張って……っ!」



私の2、3歩手前で走っている朱鳥ちゃんが私の方を向く。



さっきのチャイムは予鈴だから、次のチャイムが鳴るのは5分後。



大丈夫だ、いける……!



そして、私達は無事に始業式に間に合うことが出来た。



「これから、第162回 始業式を始める。全員、礼!!」



この学院の最高管理者である理事が大聖堂に響き渡るほどの大きな声を出した。



幼児、小学生、中学生、高校生、大学生……と沢山の違う年代の人達が集まるこの学院では、始業式の時間をずらして2回行われる。



大聖堂に、人数が収まりきらないからだ。



「皆さんの3ヶ月間というものは、どういういものだったでしょうか。お見合いやお稽古、後継ぎのための学業、芸術や音楽……、と人によって様々なことがあったことでしょう。この今学期をどのように過ごすか……」



やはり、理事の話はどこの学校でも同じだ。眠たくなる。こんなことを思ってはだめだと思うけど、正直、本当につまらなすぎる。



頑張った、お疲れ様、今学期もまた頑張ろう!
という3文で、いいのではないだろうか?



私は、理事の話を聞いている途中で、ウトウトとしていつの間にか眠ってしまっていた……。



だから、私の方にずっと向けられている視線に、気づくことは出来なかった。



条聖学院は、始業式があった今日もみっちり授業。今、やっと4限目の授業が終わる。



しかも、一番お腹が空くお昼の前に私の一番嫌いな数学の授業があった。息絶えて、死んでしまったかのように机にうつ伏せになっている私に、誰かが話しかけてきた。



「桜十、葉…」



何だかとても、心待ちにしていた声が聞こえてきて、私はばっと顔を上げた。そこには、



「えっ……?明梨、ちゃん……?」



あの日、とても不可解な会話を最後に、ずっと話せていなかった子がそこに立っていた。学校、来てたんだ…。



「あの、さ……。良ければお昼食べ終わったら、中庭で話さない?」


「う、うん。私も、もう一度ちゃんと話してみたいって思ってたの」



私がそう言うと、明梨ちゃんは一瞬だけ驚いた顔を見せたが、すぐにまた元の表情に戻る。



「じゃあ、私もお昼食べたら中庭にいるから」



そう言って明梨ちゃんは、教室を出て行った。
思ったより、淡白だったな…。



前に初めて話した時は、明梨ちゃんはもっと感情的だった。でも初めて話した、というのはどうやら私だけのようで……。



ずっと不思議に思っていたこと。実は、色々と考えていたんだ。



もし、明梨ちゃんという子と親友同士だったのだとしたら、なぜ私はそれを忘れてしまっているのか。



明梨ちゃんは幼少期からこの条聖学院に通っている、ということをクラスの人から聞いていたのだ。



それなら私は、少なくとも中等部時代からこの学院に通っているということになる。でも、私がこの条聖学院に入学したのは今年だし、この学院のことを知ったのも今年。



だから絶対に、私と明梨ちゃんが親友だったなんて、普通に考えればありえないことなのだ。



だけど、……。この胸につっかかる複雑な思いが、私の疑問に正解を与えてはくれない。



「桜十葉~、一緒にお昼ごはん食べよっ」



明梨ちゃんのことを考えながら数学の教材を片付けていた私に、朱鳥ちゃんが話しかけに来た。



「うん!」



私達は2つの机をくっつけて、向き合うようにして座る。



「ねぇ桜十葉、さっき話してたのって倉本さんだよね?」


「えっ?そうなの?」



明梨ちゃんの名字、倉本って言うんだ……。名字を知らなかったことに、少し罪悪感を覚える。


「うん。でも、あれ……?桜十葉、倉本さんと仲良かったんでしょ?他のクラスの子が言ってたよ」



え………?



仲が、良かった……?明梨ちゃんも、言っていたんだ。私達は、親友だったのだと。でも、だけど、これは何度も頭の中で繰り返したことだけど、私には本当に、その記憶がないのだ。


だから今日の昼休みに、明梨ちゃんから話を聞くしかない。


「え、どうなんだろう……?あはは、記憶がないみたい」

「桜十葉。それ、まじ……?」


笑って誤魔化そうとした私に、朱鳥ちゃんが真剣な顔をして問う。


「う、うん。実は今日の昼休みにね、明梨ちゃんと話すの。入学式の初日に、明梨ちゃんから話しかけられて、……でも、私は明梨ちゃんのことを知らなくて、」

「うん」


凄くたどたどしくて、分かりにくい話なのに、朱鳥ちゃんは真剣に私の話を聞いてくれている。今でも、分からないことだらけで泣きそうなのに、朱鳥ちゃんが聞いてくれているというだけで、とても安心するんだ。


「私と明梨ちゃんは昔から、親友だったって言われたの。本当に、記憶がないの。だからそれが、何だか怖くて、……」

「うん」

「でもね、その理由を知ることよりも、その理由を知らないことの方がよっぽど怖い」



「私にはさ、桜十葉の気持ちを全て分かってあげることなんて出来ないんだけどさ。桜十葉が言ってることは、正しいと思うよ」



こんな暗い話をされたら、きっと朱鳥ちゃんに気を使わせてしまうと思っていた。でも、こんなにも真剣に話を聞いてくれた朱鳥ちゃん。もっと早くに、話していれば良かったな……。



***



朱鳥ちゃんとお昼を一緒に食べた後、私は急ぎ足で中庭に向かっていた。



教室から中庭までが遠すぎて困る。



でも、中庭に近づくに連れて私の心臓のドキドキはどんどん速くなっていく。ずっと、もう一度話したいと思っていた。だけどそれは、何の心の準備もないままに突然やって来たのだ。



「桜十葉、こっち」



広すぎる中庭でキョロキョロと辺りを見回していた私に、明梨ちゃんがここだよ、と手招きしてくれていた。



やばい、……やっぱり緊張してきた。



明梨ちゃんの座っているベンチに少し間を開けて座る。そうしたら明梨ちゃんは、すごく寂しそうな顔をした。



「久しぶり。桜十葉」


「うん。久しぶりだね」



明梨ちゃんは、入学式の日のように取り乱してはいなくて、逆に怖いくらいに落ち着いている。



今、心臓がすごくドキドキしている。



私のことを知っている明梨ちゃんと明梨ちゃんのことを全く知らない私。



正直、すごく怖い。自分の中に明梨ちゃんと親友だったという記憶が全く無くて、それで明梨ちゃんを傷つけてしまったという事実が。



「ねぇ、……私のこと、思い出せ、ない……?」



明梨ちゃんは、すごくすごく泣きそうな顔をして言った。



「う、うん。……ごめんね」



中庭に、静かな空間が流れる。今は昼休みだけど、中庭には生徒たちの喧騒は聞こえてこない。



どうして、私は忘れてしまっているのだろう?



最初は、そんなの嘘だと思った。入学式の日に突然話しかけられて、私達は親友だった、と言われたことが正直信じられなかった。



でも、今は違う。明梨ちゃんの瞳は、表情は、嘘をついてなんかいない。



「でも、思い出してみたいとは思ってる」



私がそう言うと、明梨ちゃんの瞳が大きく揺らいだ。



「だから、私と明梨ちゃんが親友だった時の話、聞かせて欲しい」



✩.*˚side end✩.*˚

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