手の届かない君に。

平塚冴子

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3学期

憂鬱な雨

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委員会を終えて職員室へと向かう途中で窓に雨が当たるのに気が付いた。
雨か…今までなら嫌な感じしかしなかったのに…。
あの雨の日のタクシーの中を思うと、雨の日の憂鬱が和らいで行く。
彼女の膝枕で恥ずかしげもなく、思い切り甘えてしまった…。
そして、彼女は跳ね除ける事なく、僕の頭を撫でた。
その思い出が…あの辛くて苦しい…流れ出る血液の記憶を押し退けて…僕の胸に広がっていた。

職員室に戻った僕はロバ先生とぶつかりそうになった。
「うぁ!すいません。
下見てなかったので。」
「いえ。こちらこそ。
僕は低いのでこんな事、しょっちゅうですし。」
「そういえば…ロバート先生は2年の担任でしたよね。」
「ええ。2年4組です。」
「僕のニックネーム知ってます?」
「プッ!あはは。」
ロバがいきなり笑いやがった。
「すいません。聞いちゃったんですね。
スキャンダル王子!」
「そんなに…広まってるんですか?」
「まぁ、それなりに。
面白がってるだけですよ。生徒は。」
「来週からのスキー体験合宿が思いやられますよ。
2年と合同ですよね。はあ。」
「そうですね。
多分1年にも広まっちゃいますね。
くっ、くっ。」
笑うなよ!ロバのくせに!
「まぁ、僕もロバなんで。
教師にニックネームはつきものと言う事で諦めるしかないですね。」
「ははは。やっぱり…。」

僕は肩を落としながら自席に着いた。
「よっ!スキャンダル王子!にしし!」
ほら、すぐ乗っかるオヤジもいる。
「2年から聞いたんですか?
清水先生はすぐ僕をイジリますね。」
「いやーさすが、学生のセンスは斬新だなぁ。
良かったな。王子だぞ王子!うははは!」
「どうも、今度自己紹介の時に使ってみますよ。
ははは。」
僕は自虐的に返して、自分の授業の資料整理をし始めた。
「で…姫様とは仲良く委員会出来たのか?」
「姫って…わざわざ王子に引っ掛けないで下さいよ。」
「でも、隠語としてはいいんじゃね。
聞かれたくない時あるだろ。
姫の名前を。」
「そりゃ…まぁ。
って言うか清水先生が聞き出そうとしなければ、そんな心配いらないんですけどね。」
「…で?どうだった姫とイチャイチャ出来たのか?」
「…イチャイチャって。
いつもと変わりませんよ。
…帰りに葉月とトラブっただけで。」
「また出たのか?あいつは妖怪か?」
「まぁ、大した事ではありませんよ。」
「お前はいつもそうだな。」
「心配してくれてありがとうございます。」
僕は別の資料を取る為に席を立った。
窓の外の雨は激しさを増していた。

田宮…早めに帰っただろうか。
棚の前で携帯のGPSを確認してみる。
まだいる。

僕は早めに帰宅するよう促す為に旧理科室へと向った。
金井先生がいれば送ってもらえるんだけど…。

いきなり旧理科室に入る訳にもいかず、旧理科準備室に入り、中の様子を中扉の小窓から覗き込んだ。
金井先生はいない…。
僕は身を翻し、旧理科準備室を出た。
旧理科室のドアをノックする。

コンコン。
「…はい。」
ガチャ。
「武本先生。どうしました?」
丸椅子に座り実験台に寄りかかっていた田宮がこちらを向いた。
「外の雨のひどくなってるし、寒いからから早めに帰れ。
金井先生に声を掛けて送って貰おうか?」
「もう少し…もう少し…だけいいですか?」
「えっ…。でも…。」
「雨の音…聞いてるんです。」
「雨の音を…?」
「ええ。心地良くって…。」
そう言って彼女は目を閉じた。
静まり返った室内に外の雨音が響く。

雨の音しか聞こえない…。
周りの雑音も…叫びも…悲鳴も…。
まるで音を失くしたように…。
僕の耳には届かない…。
僕の声も届かない…。
彼の叫びも…思いも…全て…雨が…。
全てが崩れ落ちる音さえも…。
雨音しか聞こえない…。
雨音しか聞こえない…。

「先生!!」
田宮が呆然と立ち尽くしてる僕に駆け寄った。
「えっ…ああ。大丈夫だ。
少し記憶が…。まだ混乱してるかな。」
「頭が痛くはないですか?」
「えっ…ああ、痛くは…。
記憶のフラッシュバックだけみたいだ。」
「そう…ですか。良かった。」

そうだ…今、《勉強会》の事を切り出すチャンスじゃないか?
この流れで行けば多分…。
「田宮…あの《勉強会》の事だけど…。」
「はい…。」

コンコン。
ガチャ。
「雨がひどくなってるから、車で送って行くよ真朝君。」
金井先生が入って来た。

「あ…っと。
この話しは後だ。田宮。」
「…わかりました。」
僕は金井先生を牽制して、《勉強会》の事を聞かれないようにした。

「武本先生もそろそろ帰りますか?
なんなら僕の車で送って行きますよ。」
金井先生の瞳の奥が光った。
そんな事したら、何をされるか、何を聞かれるかわかったもんじゃない。
「いえ、まだスキー体験合宿の打ち合わせがありますので。」
そう言って、僕は金井先生の横を擦り抜けて職員室へと向った。

雨の音がさらに激しさを増す。
やっぱり…雨の日は憂鬱だな。

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