手の届かない君に。

平塚冴子

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3学期

王子の待ち侘びた日2

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旧理科準備室に行く前に、余計な労力を使ってしまった。
「はああ。」
僕は廊下で大きくため息をついた。

とにかく旧理科準備室に入り、中扉の小窓を覗いた。
どうか…居て欲しい。
このままじゃ、バレンタイン過ぎるまで2人きりになれない…。

「いた…!」
田宮 真朝がそこにいた。
スケッチブックを取り出して、眺めている。

僕は音を立てないようにしながら急ぎ足で、旧理科準備室を出て、旧理科室のドアをノックした。

コンコン。
ガチャ。

「はい。…あら、武本先生。
どうしました?」
久しぶりに見た優しい労わるような微笑み。
僕だけに向けられた女神の微笑み。

「あ、えっと…ベスト!そうベスト!
ありがとう。
暖かくて、助かるよ。」
「良かったです。
姉が、先生に感謝していたので。
こちらこそ、姉がお世話になったみたいで。」

やっぱり、姉を気遣ってたから、最近ここに来られなかったのか。

ゆっくりと、スケッチブックを閉じて僕の前に歩み寄ってくれた。
「あ、あの…えっ…と。」
嬉しすぎて、もう何を話すべきか混乱して来た。
っていうか、本当なら今すぐ抱きしめたい。
けど…。

「先生…最近、先生よく笑うようになりましたね。」
「えっ…。それはこっちのセリフだ!
この前だって…ずっと授業中笑ってたろ。」
「だって…アレは。
同じ事考えてるんだって思ったら、何だか可笑しくって。」
あ…やっぱり!僕と同じ!
「僕も!僕もそう思った!ほらブレスレットだろ…って、ごめん。
ちょっとイジワルしたみたいだったから。
その…君が僕を気にしてくれてるのか、不安になってつい…試すような事をして…本当にシカトしてごめん。」
僕は本心から頭を下げて謝った。

「ふふふっ。
やだ、いじめっ子に謝られてるみたい。
くすぐったいわ。
悪い事なんてしてないのに。
おかしな先生。」
肩をすぼめて、クスクス笑う君が愛おしくて可愛くて…。
鼓動が…激しく高鳴って来た。

 「おかしいか…そうか。
そうだな、おかしいよなこんなの…。」
本当に君の前だと、普通になれない。
自分でもおかしいよ。

僕は無意識のうちに君の頬に手を伸ばして、触れた。
君の体温が手に伝わる…生きてる…僕の目の前に存在してる。

君は僕の手にそっと、自分の手を重ねた。
「先生…。来週末。
久瀬君を呼んで『勉強会』の続きをしましょう。」
とうとう…来たか…。
「えっ…ああ。そうだな。」
「今の先生なら、きっと大丈夫。
きっと…答えは見つけられます。」
君は潤んだ瞳で真っ直ぐと僕を見つめて言った。

「ああ。大丈夫だ。
どんな事だって乗り越えて見せるさ。」
その先に君との未来が有るのなら…どんな事だって力尽くでも乗り越えて見せる。

僕達は見つめ合っていた。
頬に触れた手だけが、お互いの体温を感じさせた。
時間が止まったような、あの感覚が僕等を包んだ。
幸せで…暖かくて…好きな気持ちが溢れ出て…。

結局、キスをする事も抱きしめる事さえしなかったのに、心は満ち足りていた。
頬に触れただけなのに、1つになれた錯覚に陥る程に幸せだった。
君と僕の心が繋がっていたんだと思う。
満ち足りた気分に浸っていられた。
僕と君の2人だけの時間と世界に。

僕等はそれ以上触れる事はなく、君は坦々とスケッチブックを片付け、僕は戸締りを確認して旧理科室を出た。

ただ無言のまま、合間合間にお互いの視線を交わし微笑み合った。

そして…月の輝く空の下、君の帰宅を見送った。
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