手の届かない君に。

平塚冴子

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3学期

『勉強会』への秒読み開始3

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ウキウキしてた気持ちも束の間だ。
午前の授業を終えて食堂に向かう中、僕は少し落ち着きを取り戻し、『勉強会』の事を考えたり整理する必要性を感じていた。
向こうも準備万端で来るのに、僕が何もせずにただ待つばかりと言うのも失礼な気がしたのだ。

実のところ、母子家庭に育った割に母親とはそれほど仲が良いほどではない。
現在、新しいパートナーと暮らしてる事もあり、あまり密な連絡は取って無かった。
また、記憶が無い事を相談した事もあったが、明から様に嫌な顔をされてから聞く事は無くなった。
だから、余計に記憶が曖昧なのだ。

けれど、もう1度母親に聞いてみよう。
話して貰えなくてもいい。
その反応を知りたい。
母親の反応次第では、事件は闇に葬りたい程の内容か、時間か経てば話せる内容かがわかるだろう。

腕組みして考えながら食堂に入ると、ベストをグッと引っ張られた。
「やめろ!伸びるだろ!」
「やっぱり、反応いいわね先生。」
クスクス笑いながら、田宮 美月がそこに立っていた。
「さっきから声掛けてるのに、無視するんですもの。
不可抗力です。ごめんなさい。」
「あ、いや。考え事をしていて、気が付かなくてすまない。」
「本当、大切なんですねー。ベスト。」
「知ってて言うな!」
こいつは、いちいち!
からかわれて、耳まで赤くなった。
くそっ!
こういうのは全然慣れない。

取り敢えず、きつね蕎麦を頼んで田宮 美月と席に着いた。
僕はソワソワして周りを見回した。
「プッ!真朝ならいないわよ。
食堂に来ないように言ったから。
昨日の今日じゃ話しに集中出来ないでしょ。
先生。」
いやらしい笑いで、からかいながら僕を立て肘で見つめた。
「お気遣いどうも…。」
「せっかく、お膳立てしてあげたのに。
料理に手を付けないなんて。
偏食にも程があると思って。」
昨夜の事を言ってるな…。
「料理にって…こっちの都合も考えてないだろ。
僕は料理は熟成してから食べたいんだ。」
「熟成だなんて。
意外とエッチな表現するのね~。」
「はあ。あのな…。」
僕は蕎麦を食べていた箸を置いて、一息ついてから語り始めた。

「気持ちは、ありがたい。
本当だ。
けど…、僕は焦って相手を傷付けたくはないし、相手の時間の流れに合わせたいと思ってるんだ。
…ゆっくりと、穏やかに。」
「ふふふって、熟年夫婦みたい。」
「以前…2年の塚本にも言われたかな。
でも、そんな感じが合ってる気がするんだ。
僕の場合は…。」

「取られちゃうわよ。」
金井先生か…可能性が無いわけじゃない。
それはわかってる。
「そうなったら、それでも構わない。
君も言ったろ。
幸せに笑う笑顔が見たいって。
僕も同じ気持ちだから。」
「それが、自分じゃなくても構わないの?」
「ああ。そう思えるようになった。」
「随分と自信家ね。」
「別に自信なんかないさ。
優先するのが自分の気持ちじゃないからだよ。」

田宮 美月はいきなり、腹を抱えて笑い出した。
「ふふふっ。ふふふっ。
本当、変わっててお似合いだわ。
私としては、あなたほどお似合いの相手を見た事無いわ。
あの娘も珍しいタイプだし。」
「そりゃ、どうも。
だから…歯がゆい気持ちもわかるけど、遠くで見守ってくれないかな。」
「わかったわ。
勝手にやって頂戴。
…ただし、あの娘を悲しめたり、苦しめたりしないでよ。」
人差し指を僕に突き立てて、キッパリと言い放った。
「わかってるつもりだ。
大丈夫とは言わないけど、出来るだけの努力は惜しまないつもりでいる。」
「私も頑張るわ…世間に負けないように。
自分を見失わないように。
失敗の記憶をしっかりと胸に刻んで。」
「頼むよ。
もう、揉め事はゴメンだ。」
「はーい。」

田宮 美月は肩をすぼめて笑っていた。
爽やかな笑顔も出来るんだな。

「じゃあな。
…ありがとう。
おかげでバレンタインは楽しかった。
ありがとう。」
僕は食べ終えたきつね蕎麦の丼を持って、その場を後にした。

穏やかに世界が変わって行く…まるで君に染められて行くように。

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