はなのなまえ

柚杏

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二章

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 空き教室と準備室の扉を挟んで、その扉に背を預ける。
 準備室は長いこと使われていない為ホコリが棚に積もり、少しかび臭い。
 ここの教室は大学の敷地内の隅に建てられた物で数年前に新しくより利用しやすい場所に建て直されたので、今では一部のサークルが活動する為に一階の教室を使用しているくらいだ。
 二階の端にあるこの教室と準備室は滅多に人が来ない。この場所を見つけてきた藍が永絆を呼んで、お互いが空いた時間に扉越しに一緒に過ごす様になった。
 壁一枚隔てる事で番特有の匂いを藍から感じるのを防げると知ったのは偶然だった。
 ある日、講義を終えて次の場所に移動する為に教室を出るとたまたまそこに藍が通りがかり、慌てた永絆は教室の扉を急いで閉めた。
 扉のすぐそこに藍がいる。藍も気が付いて動揺していた。こんな近くにいた事をお互い全く気が付かなかったからだ。
 ヒートを起こすと怯えた永絆だが、身体は疼く事がなく正常なままだった。
 やがて藍がその場を離れ、微かにその匂いが残る。
 もしかしたら壁一枚隔てたら大丈夫なのではないかと考えた藍がヒートを起こしても人があまり居なくて幾分安全なこの場所に永絆を呼んで、準備室と教室に別れて扉越しに近付いてみた。
 たった少しの厚さの向こうに恋しい番がいる。
 ヒートを起こすことなく普通の状態でその気配を感じる事が出来た。
 それが永絆にとってどれほど嬉しかった事か、藍は知らない。それはホコリやかび臭さなんて気にならないくらい幸せな事だった。
「中根の検査、受けに行かないのか?」
 お互いの講義が空いた時間を利用して、先に永絆が準備室で待つ。少し時間を遅らせてから藍が教室に来る。
 扉の前で藍が座る音を聞くのはこれで三回目。誰にも秘密の逢瀬は永絆の胸を簡単にときめかせた。
「受けても藍に近付けないでしょ? それならモルモットになんかされたくないよ」
 只でさえΩは奇異な目で見られる存在。好きでΩに産まれた訳ではないのにこれ以上晒し者にはされたくない。
「永絆の体質に合ったちゃんとした抑制剤、作って貰えるかもしれないのに?」
「今飲んでるやつで大丈夫だよ。発情期になったら大学は休むし」
 あれから一度、発情期が来た。中根に貰った薬はそれまで服用していた抑制剤よりは効果があった。それでも藍に出逢う前の体質に戻る事はなく、発情期には藍《つがい》を求めて干枯らびそうだった。
 きっとどんな薬でも効かないだろうと永絆は思っていた。藍が番にならない限り、この体質は変わらないと。
「心配しなくても構内で藍に近付いたりしないよ」
「オレは扉なしで永絆と話がしたいだけなんだけど……」
 顔を見て話せたらどれだけいいか。それは何度も考えた。けれど扉がなければヒートでお互い理性を失うだけで話なんて出来ずに欲望だけをぶつけ合って終わりだ。
 そんな事は望んでいないし、それは藍も同じだろう。
 万が一、それで藍が項を噛んでしまったら番が成立してしまう。
 藍が番う事を望んでいないのに、この扉を開けることは出来ない。
「薬なんて簡単には作れないでしょ。副作用だってキツいし。オレはこのままでいいよ」
 これ以上、近付けば後戻り出来なくなる。
 いつか紫之宮を継いでいなくなってしまう藍を諦める時がやって来る。その時は今日かもしれない。いつ来るか分からない。
 それならこの扉一枚隔てた距離から出てはいけない。一度でも出てしまえば、本能のまま藍に縋り付いて離れたくなくなるから。
 泥沼にハマるのは嫌だ。誰も幸せになれないのだから。
 この扉があれば今、どんな顔で話をしているか知られる事も無い。
 藍の事が好きで仕方ないという顔や、切なくて泣きそうな顔を見せる事もない。
 手を握ったり、キスしたり、そんな触れ合いも出来ない関係なんてそのうち飽きる。藍の方から去っていくだろう。
「なぁ……オレに出来る事、何かないのか?」
 心配する声に永絆は藍に気付かれない様に息を吐いた。
「藍は……お家を継ぐの?」
 紫之宮というとてつもなく大きなαの一族の長に立つ人間。
 当たり前の様に着こなしている服や身に付けている時計や鞄、靴に小物。同じ大学生が必死でバイトをしても手に入れる事は出来ない高価な物ばかり。
 それを嫌味なく持ち、自分の一部にしている藍はやはり幼い頃からαとしての在り方を徹底的に教育されて育った。人の前に立った時のカリスマ性は自分が只のちっぽけな人間でしかない事を強く意識させた。
「まぁ……いつかは」
「そうだよね……」
 直系の藍以外が跡を継ぐ可能性はゼロに近い。藍が不慮の事故でこの世を去るか再起不能の重体にでもならない限りそれは覆る事は無い。
 紫之宮という一族は直系以外を跡継ぎとは認めず、万が一にでも後継者争いが起こり藍の生命が脅かされる事態になったとしても親戚に跡目が回って来る事はない。
 それはずっと続くα一族である紫之宮家の変わる事のない掟。もし跡継ぎに何かあった場合、紫之宮家はその莫大な財産を全てあらゆる慈善団体に寄付をし、一族を離散する事になっている。
 それが後継者争いを起こさない為の昔からの決まりであり、藍が家を絶対に捨てる事がないという事実だった。
 藍は家を捨てない。それは即ち、Ωである永絆とは番にはならないという事。
「だったら出来る事は一つだけ。今まで通りここでこうやって他愛もないお喋りをする事」
 藍が自分に飽きて離れていくのが先か、家の為に優秀なαの女性と結婚するのが先か。どちらにせよ、藍とは一生を共に出来ない。
 惹かれてしまうのは運命だから。それも離れたら忘れていく。辛いのは今だけでそんなに長くはこの関係は続かない。
 だからこれ以上は距離を縮めたりしない。
「……運命の、番なのに?」
 藍の呟いた問いに押し込めていた感情が一気に沸騰した。
 何でそんな事を藍が言うんだと、叫びたい気持ちを手を握りしめる事で堪えた。
「永絆、オレは永絆を番に……」
「出来るわけない!」
 それ以上の言葉は聞きたくなかった。
 簡単に言ってしまおうとする藍が憎らしかった。
 そんな出来もしない言葉で希望を持ちたくない。縛られたくない。
「藍だって番にするつもりないでしょ!?」
「何でそんな事っ……」
「オレを番にしたいなら、再会した時に噛めば良かったんだ! オレは抵抗しなかった! 藍に項を差し出したんだから!」
 あの時、キスをしようとして制止された。代わりに抑制剤を無理やり飲まされてしまった。
 目が覚めた後でもヒートを起こしていたのに藍は部屋を出て行った。
 番にするつもりがあったなら、二度もチャンスがあったのに逃すはずがない。
 運命の番のフェロモンを感じていたのに、本能より理性が勝ってしまった。それが藍の答えだ。
「再会して直ぐに、そんな事出来るわけないだろ……まだお互いの事なにも知らないのに」
 扉の向こう側で困惑する声が響く。
 少し低音で耳に心地良い声。
 泣きたくなるほど愛しい声。
「……キスも……拒んだくせに……」
 どうしようもなく惹かれて、お互い思いあっていると信じていた。
 初めて逢った時に交わした口付けを何度も思い返して心をときめかせていた。
 そんなキスさえも、藍に拒まれた。あの時に何よりも確かめたかったのは番になるかどうかではなくて、永絆というΩを藍が受け入れてくれているかどうかだった。
 一度だけ、再会の口付けを果たす事が出来ていたなら満たされたのに。
「受け入れたら理性が飛びそうだった。永絆、オレはお前を力強くでどうにかしたい訳じゃない」
「じゃあ何時になれば受け入れてくれるの? 藍はオレを番にするつもりあるの!?」
 言ってはいけない言葉だった。
 番になれないと分かっているのに、それを言えば藍を苦しめるだけだ。
 家を捨てる事が出来ない藍を責めるのは自分勝手でみっともない。こんな事を言いたくてこの場所で一緒に過ごしているのではないのに。
「永絆、オレは」
 藍からの答えは携帯の着信音で遮られた。
 微かに感じていた藍の匂いが遠ざかり、教室の扉が開閉する音がした。
 電話に対応する為に教室から出て行ったのだろう。隔てていた扉をそっと開けてみると教室には誰も居らず、藍の匂いが残っていた。
 また置き去りにされてしまった。大切な話をしていたのに。
 余程大事な電話だったのかもしれない。けれど永絆に一言もなく行ってしまった事が哀しかった。
 こうやって一緒に過ごす時間を作る度に自分が藍にとって特別な存在なんかじゃないんだと実感する。運命の番なんて、そんなものは本当はないんだと否定したくなる。
 一番に考えてほしいとは思っていない。だけどここに番がいる事を忘れないでほしい。席を立つ時は一言、声を掛けてほしい。それはそんなに我儘な望みなのだろうか。育ってきた環境が違い過ぎて藍の事が分からない。
 分からないから不安になる。哀しくなる。
 もっと知りたいのに。藍もそう思っているはずなのに。自分一人がそう思っているだけのようで怖くなる。
 電話が終わればここに戻って来るかもしれない。だけど話の途中のままで放置された事がショックでここに居たくない。今はもう話をしたくない。
 荷物を持って準備室から出ると、藍の匂いがない方向を選んで古い校舎を後にした。

***

 あの日から送迎の車は利用していない。
 相変わらず永絆が大学へ行く時間になると家の前に待機している前野には申し訳ないと思いながらも自分の足で大学に行き、帰りも車が待機している場所とは違う出入り口から帰るようにしていた。
 前野は少し哀しそうな顔でいつも見送ってくれる。彼は何も悪くないのに自分と藍の問題に振り回されている。大人しく車に乗れば前野も安心するのだろうけど、藍と関わりのあるもの全てを避けたかった。
 藍には藍の考えや生き方がある。それは理解しているし、そういう事を色々話し合うべきなのも解る。ただのαじゃない、紫之宮家の跡継ぎだ。話も簡単にまとまりはしない。
永絆の言った事が藍を困らせるのは承知している。
 ただ少し、夢を見ていたかった。この先、何の救いもないΩとしての人生を送る事への唯一のいい思い出になれば、と。
 苦労して大学に進学し、卒業しても良い会社に就職する事は無理だろう。発情期のあるΩはその期間は家に閉じ篭り性行為以外の事は何も手につかない。身体だって自由に動かせない。そんなΩに大事な仕事を任せる企業なんてある筈がない。
 中には性差別だと言ってΩを雇う企業もあるが、役職のあるポストに就くことはないし与えられる仕事は備品管理や雑務ばかり。
 この先の長い人生、まともに暮らしていくのはΩには難しい。さっさと諦めて夜の商売を選ぶΩが殆どだ。それが悪い訳ではないがΩでなければ普通の生活が送れたのだと想像すると遣る瀬無くなる。
 番を作って幸せに暮らすΩもいる。殆どのΩならそれを望む。永絆もいつか番を作りたいと思っていた。だけどそれは簡単じゃないと現実を突きつけられ、誰とも番わないと決めた。
 決めたのに、藍に出逢ってしまった。
 藍は優しく接してくれた。フェロモンで今にも飛びそうな理性を必死で抑えてくれた。
「噛まないで」と訴えた永絆に「噛まない」と言ってくれた。
 車を降りる最後まで、藍は無理矢理犯そうとはしなかった。
 別れた後から再会するまでの期間、この人なら番になってもいいのではないかと考えては打ち消した。番は作らない。例え運命で繋がっていても。
 それでも再会すればどうしても惹かれてしまう。だからどんどん苦しくなった。
 近くに居れる間だけ、時間が許す間だけ。そう思って誤魔化していた。
 長く一緒に居ればそれだけ別れが辛くなるのに、いつの間にか番を作らないと誓った事さえ忘れて藍と番いたいと願ってしまっていた。
 これは罰だ。そんな事を願った自分への。
 もう藍に近付いてはいけない。藍が追いかけて来ても立ち止まってはいけない。
 番を作りたいだなんて二度と考えてはならない。

「永絆くん、こんにちは」
 大学から帰宅すると家の前にメガネとマスク姿の中根が待っていた。
「中根さん……? どうして家が?」
「永絆くんの事なら藍に訊けばすぐに分かるからね」
 肩を竦めて苦笑いする中根に永絆は思わず溜息を漏らした。
 藍にとって人ひとり調べる事なんて造作もない事なのだろう。永絆のスケジュールを全て把握していてもおかしくはない。
「……中にどうぞ」
「ありがとう、お邪魔します」
 玄関を開けて中根を部屋へ招き入れる。ここに誰かを入れたのは始めてだ。もうずっと一人で暮らしているけれど、友人を家に誘った事はなかった。
 部屋の中をキョロキョロと見渡す中根をリビングに通して二人分のコーヒーを淹れる。
 中根は飾られた絵画や写真、本棚に並べられた本を興味深く見ていた。
「大学生の子供が暮らすには贅沢な部屋だと思ってます?」
 コーヒーをリビングのローテーブルに置くと、自嘲しながら中根に訊ねた。
「うーん……まぁ、君の趣味って感じはしないかなぁ……」
 ソファーに座るように促すと、中根は永絆の対面に腰を掛けた。
 中根はやはり鋭いなと永絆は思った。部屋に飾られている物を見ただけで永絆の趣味ではない事を見破ったのだから。
「間借りしてるんです。大学卒業までの間」
「そうなんだ? 高そうな部屋だよね」
「そうですね。紫之宮家には到底及びませんがお金には不自由してないと思いますよ」
 コーヒーを一口、口に含む。苦味が口内に広がって、何だか責められている気分になった。
「それで、何か話があったんじゃ?」
 何の用もないのに中根が来るとは思えない。藍に頼まれたのか、独断で来たのか、どちらにしても会いたい人物ではなかった。
「うん、そうそう。やっぱり検査しないかなーって思ってね」
「それは断った筈ですけど?」
 猫舌なのか、さっきからコーヒーの入ったカップを持ったまま何度もふぅふぅと息を吹きかけて冷ます中根は、こちらを見る事もなくコーヒーを冷まし続けた。
「うん、でもね? 近寄るだけでヒートを起こすって大変じゃない? 検査して何か判ればその症状、治せるかもしれないよ?」
「別に藍に近付かなければ問題ないです。匂いで近くに居るのは分かるし避けられるんで」
 会いたくなくて避けているのだから、藍の匂いに敏感な方が助かる。近付けない理由にもなる。避け続ければ藍も諦めるだろう。
「ホントにそれでいいの?」
「何でそんなこと訊くんですか? 中根さんは紫之宮家の主治医なんでしょ? オレみたいなΩが藍を誘惑したら問題になるんじゃないですか? それを知ってた中根さんもタダじゃ済まなくなるでしょう?」
 実際、誘惑したって藍の理性が勝ってキスすら受け入れて貰えなかった。ヒートを起こしているのに部屋に一人にされた。藍が永絆の誘惑に負ける事はきっとない。理性を飛ばす前に引き剥がして去ってしまう。
「……僕はね、これでもαなんだよね」
「そうなんですね」
「でも君がヒートの時に会っても平気だったでしょ?」
「……そういえば、そうですね」
 αがΩのフェロモンに逆らえる筈がない。藍の様に理性が飛ぶ前に目の前から居なくなれば別だが、中根は平気な顔で部屋に入って来て話をしていた。
「小さい頃に大きな病気にかかって何日も生死の狭間をさ迷ったらしいんだけど、そのせいで繁殖機能がダメになったんだよね」
「子供が作れないって事ですか?」
「そう。性欲はあるよ、イけば出るものも出るし。でも肝心の精子は一つもない。だからかな、Ωのヒートにも反応しないんだ」
 そんなαがいるなんて思ってもみなかった。αなのにαらしさがないのはそのせいなのかもしれない。
「αにだって僕みたいな体質がいるんだ。Ωにも色々な違いがあったって不思議じゃない。永絆くんだって藍にだけ近寄れないのは不思議だと思わない?」
「確かに、運命の番だからってだけで近付くだけでヒートを起こすのは変だと思います」
 周りに運命の番に出逢った知り合いがいないから何が正しいのかも分からない。そもそも運命の番なんてものは都市伝説みたいな話で本当にあるとは思っていなかったのだから。
「僕はね、知りたいんだ。何でこの世にαとΩがいるのか。βだけでも世の中は成り立つ筈だ。人口の殆どがβなんだから」
 メガネの奥の瞳がキラキラと輝いて見えた。まるで子供の様に好奇心旺盛な目をしていた。
「Ωだけに発情期があるのにも意味がある筈なんだ。そのΩと番えるのがαだけなのにもきっと意味がある。僕はそれが知りたい。そして発情期で苦しむ事がないように、副作用のない抑制剤や他の方法を見つけたい。紫之宮家は家が代々主治医を務めて来たから僕もその跡を継いだけど、本来は第二性別の研究にもっと力を入れたいんだ」
 そこまで一気に話し終えるととっくに冷めてしまったコーヒーを飲み干して、一つ息を吐いた。
「父親は馬鹿馬鹿しいって貶すけどね、藍が今は協力してくれてるから強く反対は出来ないんだ」
「藍が……?」
「君に初めて逢った後すぐに僕に連絡が来た。研究に力を貸すから自分の番の為に成果を出してくれってね」
 喉の奥が何か詰まったように苦しくなった。
 まだ再会する前から藍は自分の事を色々と考えてくれていた。それも、「自分の番」だと言って。
 それなのに何故、藍は番になるチャンスがあったのに項を噛まなかったのか。やはり再会してから考えが変わってしまったのかもしれない。
「オレは……藍に拒まれてます。だから、番になる事はないです。オレも番を作るつもりは無いので」
「……それは、きちんと藍と話し合ってそう決まったの?」
 永絆は首を横に振った。ちゃんと話をした訳ではない。何となく雰囲気でそう察しただけだ。
「藍と話したくても顔を見る事も出来ない。距離を取らなきゃヒートになる。壁越しの会話じゃ何を考えてるか分からなくて、言いたくもない事を言ってしまう……」
 もっと素直に話したいのに、藍が今どんな表情をしているのかと考えると不安になってしまう。不安になると悪い事ばかり思い浮かぶ。
「だったら尚更、検査してほしい。そして藍の前でヒートを起こさない様になる抑制剤を僕が作るから」
「そんな簡単じゃないでしょ? 抑制剤が高価なのは製法や効き方や副作用……色んな問題があるからなんだし」
「それでも、このまますれ違い続けるよりは試す価値あると僕は思うよ」
 中根の言葉に永絆は藍の顔を思い浮かべた。
 もう長い事、ちゃんと目を見て話してない。あの日、初めて出逢った時に見つめあった彼の表情ばかりが強く印象に残ったままで再会してからどんな顔をして自分を見ていたのかはっきりと思い出せない。
「その目でちゃんと見て。藍の表情や仕草、何を感じて何を思っているのか。触れて、しっかり確かめたいって思わない?」
 壁越しではなくて目の前で。
 藍に触れて、藍に触れられて。
 理性を崩すこと無く、そばにいられたら。
「オレは……藍に触れたい……」
 たった一度だけ交わした優しく切ない口付けが忘れられずにいる。思い出すだけで、唇が熱をもつ拙い口付け。
 ヒートで理性を失った状態ではなく、お互い思い合った状態で彼の熱を感じたい。
 番だからではなく、永絆という存在を認めてほしい。
 その為にはこちらから歩み寄らなければならない。避けてばかりいては藍はすぐに遠くへ行ってしまうから。
「……検査、受けます。よろしくお願いします」
 中根に頭を下げると、初めて会った時の様に頭をポンポンと軽く叩いてくれた。
「こちらこそよろしくね。永絆くんの身体に負担を掛けるつもりはないからね」
「はい……」
 検査で何かがわかればいい。何でもいい。藍に少しでも近付く事が出来るなら。
 何もわからなかったらどうしよう、という不安はあるけれど。
 これが何かのきっかけになればいい。そしていつかは肩を並べて歩きたい。笑い合いたい。触れて、キスをして、抱きしめあって。
 番になんてなれなくていい。ただ、藍が家を継ぐその時までそばに居て手を繋ぐ事が出来たならそれだけで幸せだ。
 その幸せの分だけ、別れは辛いだろうけど。
 誰とも番わないと藍に出逢う前から決めていたから、辛くたって構わない。そのくらいが丁度いい。
 藍を思い続けながら、自分には運命の番がいたのだと思い出しながら後の人生を過ごすのも悪くない。
 一生分の恋を、今しているのだから。

 それから数日してから中根の働く病院へと行った。
 紫之宮家の主治医をしているくらいだから、さぞ大病院だろうと予想していたが行ってみた場所はこじんまりとした小さな診療所だった。
 中根の父親はまだ現役の医師で大きな病院の医院長をしているが、中根自身は研究に時間を取りたい為にこの診療所の持ち主である研修医時代の友人と交代で診療をしているとの事だった。
 検査と言っても難しい検査はなく、採血をした後は問診でこれまでの病歴や発情期を向かえてからの周期、体調の変化などを聞かれた。
 次回は発情期中のデータを取りたいと言われ、その時の姿を見られたくない永絆は渋った。いくら検査の為であっても自分が発情しているのを見られるのは耐えられない。
 渋る永絆に「ヒートを起こしても自分には影響がないから」と哀しげに言われ、複雑な気持ちになった。
 中根にもし運命の番が現れた時、彼はそれに気付くのだろうかと。
 自分と藍は出逢った瞬間、ヒートを起こして自覚したけれど中根にはヒートの影響が出ない。相手がヒートを起こしても中根は気が付かずに通り過ぎてしまうかもしれない。
 そんな考えが過ぎって、藍と出逢えた事は奇跡なんだと実感した。
 元々、本当に存在するのかも分からない都市伝説だったものだ。それがめぐり逢えて、会おうと思えばいつでも会えるのだ。
 それだけで幸せだと思わなければ、他にもどこかに居る発情期に苦しむΩ性に申し訳がない。
 自分をきっかけにΩが生きやすい世の中になれば……。ちっぽけな変化かもしれない。だけどやる価値はあると信じたかった。
 大学では相変わらず藍を避けていた。
 検査を受けることは藍には言わないでくれと中根に頼んでおいたので、藍は一定の距離を保ったまま何かを言ってくる事はなかった。
 もうずっと話していない。番にする気はあるのかと訊いたあの日から。
 その答えを今は聞く気にはなれないし、そんな勇気もなかった。聞いたら全てが終わりそうで聞けなかった。
 検査が終わった後ならちゃんと聞ける気がしていた。検査結果がどうであれ、番になれないと告げられる覚悟がその時には出来ているような気がしていた。
 発情期が来て中根に連絡を取ると、永絆の家までやって来た中根は平気な顔で採血をした。前にヒートの時に会ったけれど、やはり中根にはΩのフェロモンが効かないようだ。
「ホントに……全然何も感じないんですか?」
 マスクをしているせいで鈍いだけなんじゃないかと疑うと、中根はメガネもマスクも外して困った様に笑った。
「童顔だからマスクで隠してるだけで、無くてもフェロモンは効かないよ」
 確かに中根の顔は幼く見えた。永絆より歳上の筈なのに、歳下に見えるくらい童顔だった。
「若く見られると舐められるからね」
 そんな事を気にしているだなんて永絆には意外過ぎて、思わずクスリと笑ってしまった。
 αはもっと傲慢で、プライドが高く、α以外の人間を同格に扱わない嫌な奴ばかりだと思っていた。だけど中根はそうじゃない。その事が永絆を安心させた。
 その安心が気持ちを緩くさせる。発情期中でも中根の前では気丈に振る舞うつもりでいたのに、気を張っていた分強烈に身体が疼き出した。
「永絆くん?」
 息を乱して身悶え始めた永絆の傍に座り背中をさする中根に抱き着いて腕に力を込めた。
「どうしたの? 気分悪い?」
 Ωのフェロモンを感じない中根には永絆の行動の意味を直ぐに察する事は出来なかった。
 目眩がするような感覚の中、永絆は必死に中根にしがみつき自身の疼きを解放したくて堪らなかった。
「熱い……助けて……」
 自らの服のボタンを外し始めた永絆を見て、漸く中根はそれに気が付いた。
 慌てて脱ごうとする永絆の手を握り、肌蹴かけた服を元に戻すとベッドからシーツを取って永絆を包んだ。
「永絆くん、ダメだよ」
 冷静に言うとシーツから抜け出そうと藻掻く永絆が涙目で中根を睨んだ。
「どうしてダメなのっ……こんなっ……辛いのにっ、抱いてほしいのにっ……お願いだから……抱いてよっ……」
 疼く身体が勝手に声になって訴える。
 誰でもいい。何でもいいからめちゃくちゃに抱いてほしい。
 この身体の渇きを潤してほしい。
「それを言いたいのは僕じゃないでしょう?」
「……っ。わかっ……わかんないよっ……」
 言いたい相手に伝えたって抱いてもらえやしない。それなら何も分かりたくない。
「僕や他の誰かじゃ君を満たせない。君は番に出逢ってしまったんだ。今、永絆くんを僕がその場しのぎで抱いたって余計辛くなるだけだよ」
「そんなこと……だって……そんなのっ、藍はオレを抱いたりしないのにっ……」
 一生、番に抱かれる事のないまま発情期を迎えては辛い疼きに耐えていかなければいけないのなら、その場しのぎでも構わないから誰かに抱かれて一瞬でも満たされたい。
 辛いのなんて藍と再会してからずっとだ。これからもずっとそれは続く。
「永絆くん、藍を信じてあげて。藍は君を番にしたいって思っているから」
「思ってたって出来るわけないっ!! そんな事、貴方はよく分かってるでしょ!?」
 紫之宮家がΩを受け入れる訳がない。藍がそうしたくても簡単な事ではない。
 ちゃんと分かっているのにどうやって信じたらいい? 何度も考えたけれど答えは自分が身を引く事以外ない。
「……とにかく、薬飲んで少し休もう。僕は今日はもう帰るけど、また明日様子を見に来るからね」
 渡された抑制剤を投げ捨ててしまいたかった。それでもちゃんと飲んだのはもう何も考えずに眠りたかったから。
 もう辛いと嘆きたくなかったから。
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