はなのなまえ

柚杏

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三章

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 クルクルと椅子に座ったまま回転する中根が何度も「うーん」と唸るのを黙って見ていた。
 全ての検査の結果が出て、今後の事を話し合う為に診療所を訪ねた永絆はその状態の中根を既に十分は見ていた。
 机の上には検査結果らしき紙の束が置かれ、その内容が気になってチラチラと目がいってしまう。
 早く話をしたいのだが、声を掛けても中根は「ちょっと待って」と返事をしてクルクル回転し続けた。
 目が回らないのかなと心配になり始めた頃、やっと椅子の回転を止めて検査結果の用紙を手にした中根が永絆の方を向いた。
「あのね、永絆くん」
「はい」
 どんな結果でも受け入れると決めて今日はここに来た。けれどいざとなると少し怖気付いてしまい唇を噛んだ。
「君の検査結果は、他のΩと殆ど変わらない数値でした」
「……つまり?」
「つまり、何で藍にだけ過剰に反応するのかはこの検査では解らなかった、って事」
 中根に検査結果の用紙を渡され、内容を確認する。見たところで専門知識のない永絆には理解出来ないけれど、通常のΩの検査数値も比較する為に書かれており、それと永絆の数値は特別な違いはなかった。
「君が急に体質が変わってしまったのは運命の番に出逢ったからだって結論になっちゃうね」
「……そうですか」
 何か普通のΩ性とは違うものが出たならそこからまた調べて対処する方法が見つかったかもしれない。けれど、何も見つからなかった。
 藍との距離は縮むどころか余計に遠くなった気がした。
「研究者としては残念だけど、個人的な仮説を考えたから聞いてくれるかな?」
「仮説、ですか?」
「ホラー映画ってさ、初めて見る時は怖くてビクビクドキドキするじゃない?」
「……はぁ」
 突然、ホラー映画の話をされて永絆は首を傾げた。中根の頭の中は一体どうなっているのか理解不能だ。
「でも同じ映画を何回も見たら慣れるし、何処に怖いシーンが来るか分かるでしょ?」
「……まぁ、そうですね」
「つまりね、藍と永絆くんもそんな状態だと思うんだ」
 ホラー映画と自分達の関係がどう繋がるというのだろう。中根の言葉を理解しようと何度も反芻してみるけれど、永絆には全く意味が分からなかった。
「突然出逢って、また再会して、いつもなら無意識にコントロール出来ているフェロモンがあまりの衝撃で藍をきっかけに狂ってしまうんだ」
「……よく、分からないです」
「つまり、ホラー映画がフェロモン。藍が怖いシーン。何回も見る事で慣れるんじゃないかなって仮説をたてたんだ」
 その例えはとても分かりづらいです、とは言えなかった。けれど中根の言わんとする事は何となく分かってきた。
「藍に何度も近付いていたらそのうちヒートを起こさなくなる、って事ですか?」
「その通り!!」
 永絆は中根にバレない様に小さく溜息を吐いた。
 例え話が無くても、そう説明してくれた方が分かりやすかったのにと。
「もちろん、仮説だから絶対とは言えないけど。どうかな? 試してみない?」
「試すって……藍に近付くのは出来るけどもしヒートでおかしくなったらどうするんですか?」
 藍に触れられたら理性を保っていられる自信はない。きっとはしたなく藍を求めてしまう。
 藍もフェロモンに誘惑されたら、どうなるか。
 番う事も、キスさえも拒まれているのにそんな仮説を試す事を藍が承諾するとも限らない。近付く事はお互い傷付く事になるかもしれない。
「それに関しては僕がきちんと監視して、危険だと判断したら止めに入るよ。必要なら鎮静剤を打ってでも間違いが起きないようにする」
 間違いが起きないように。
 中根が何気なく口にした言葉に胸が痛んだ。
 きっと中根には悪気はない。永絆を気遣っての言葉だ。だけど、何かあったらそれは『間違い』になるのだと思われている。中根にさえも。
「……藍が、良いっていうなら」
「藍はきっと良いって言うよ」
 何でそんな簡単に言えるんだろう。藍に絶対間違いを犯さない様に出来るから言えるのかもしれない。鎮静剤一本注射するだけで止める事が出来るから。
「絶対……藍に無理をさせないで下さい」
「もちろん、そのつもりだよ」
 藍との距離を縮めたくて中根の話に乗ったのに、それなのに何故だろう。
 前向きに考えて行動しているのに、どんどん遠くなっている気がする。藍からも、自分の気持ちからも。
 こんなに好きで仕方ないのに、その好きが揺らいでいる。自分の気持ちなのにぐらついて、逃げ場所がなくなっていく。

 翌日、大学へ行くと携帯が鳴った。藍からの着信に永絆は一瞬迷い、結局出ずに電源を落とした。
 検査をした事はもう中根から聞いて知っているのだろう。藍から電話が来る事なんて今まで殆どなかった。そして藍からの着信に出ると待っている言葉はいつも永絆を哀しくさせるものばかりだった。
 友人同士が巫山戯あって話すような内容なんか一度もした事がない。
 決まって事務的な内容ばかり。送迎されていた時は帰りの車が待っているという連絡だった。扉を挟んで会っていた時は急用で行けなくなったという連絡だった。
 だからきっと今回も良い連絡ではない。それなら最初から聞きたくなんかない。
「永絆っ!」
 大学敷地内を次の講義の為に移動していると藍の声が響いた。思わず足を止めて振り返ると駆け寄ってくる藍の姿が見えた。
 胸が切なく痛んだ。
 このまま藍の方へと駆け寄って抱きつきたい。
 周りの目など気にせず藍の名前を呼んでぎゅっと強く抱き締められたい。
 だけど、それは出来ないから。
「……永絆っ」
 一歩後退るとそのまま背を向けて早足で歩き出す。
 追い風が吹いて藍の匂いが微かに届くのを感じる。
「永絆っ」
 距離を詰める事もないまま、永絆の後を追い掛けてくる藍。
 何度も呼ばれる名前に足を止めてしまいたい衝動を抑え、二人で逢瀬を重ねた古い建物の中へと入って行く。
 階段を急いで駆け上ると息が上がって、心臓のあたりが苦しくなった。
 後ろから足音が聴こえてくるのを確認しながら、永絆は準備室に駆け込んで扉を閉めた。
 乱れた息を整えながら、扉の向こうに藍がやって来る気配を感じていた。
 何故だかとても泣きたい気持ちになって、それをグッと堪えると深呼吸を一つした。
「永絆……?」
「……なに?」
「何で電話に出なかった?」
「藍からの電話でいい報せだった事がないから」
 今だって本当は話を聞くのが怖い。その口からどんな辛い現実を突き付けられるのか。
「……中根から検査の事を聞いた」
 扉に背中を預けて永絆はぎゅっと手を握った。
 藍は中根からの検査結果を聞いてどう思ったのだろう。近付けばヒートを起こす厄介なΩだと、今度こそ見切りをつけたのではないか。
 中根は藍を信じろと言ったが、藍を取り囲む全てがΩである自分を否定しているのにどうやって希望を見い出せばいいのか。
「それから、少しずつ慣らしていくって話も聞いた」
「……うん」
 その話だって中根の仮説であって、絶対にそうだとは限らない。何回試してもヒートを起こす体質は変わらないかもしれない。
 試す度にお互いの神経はすり減っていくのが予想出来た。理性を保つのはΩのフェロモンの前では難しい。藍に負担がかかるし、自分の身体にも良くはない。
 中根が監視すると言っても、間違いが絶対に起こらない保証はどこにも無い。
 それに、そんな姿を何度も中根にも藍にも見られたくなかった。発情した浅ましい姿など、醜いに決まっている。
「永絆……。オレは中根にも誰にも永絆が発情している姿を見せたくない」
「……何を、言ってるの? 最初に中根さんを寄越したのは藍だよ?」
「あの時はそんな体質になってるって知らなかったから。中根は抑制剤に詳しいしフェロモンに反応しないから任せたんだ。中根の仮説を証明する為の実験なんかで永絆を苦しめたくない」
 藍の声は永絆を気遣う様に優しくて、嘘偽りは一切ないと思えた。そう思いたかった。
「永絆がもし、オレとちゃんと話したり触れたりしたいと思うなら」
「……思う、なら?」
「中根なんか居なくたって、今すぐここの扉を開けてしまいたい」
 たった一枚。数センチの幅の扉。
 それを開けるだけで触れたくて狂いそうな相手に手が届く。
「ヒート……起こすよ?」
「そうだな……。でも永絆の嫌がる事はしない。傷付けたくない。無理やりなんかじゃなくて、永絆の気持ちを尊重したい。だから、開けてくれるまで待つよ」
 どうしてそこまで自分の事を気にかけてくれるのか、自惚れてもいいのか、永絆には自信がなかった。
 一度でも受け入れたら終わってしまうかもしれない。
 番だという事実に身体が満足してしまえば、それで藍は自分に興味をなくしてしまうかもと考えると怖かった。
 Ωをペットの様に扱うαがいることをよく知っているから、藍もそうだったら立ち直れない程の傷を心に負いそうで。
「何日でも待つ。永絆がオレと番う覚悟があるなら」
「藍は……家を継いでαと結婚するんでしょ? 番にはなれないよ、反対されるに決まってる」
 藍が紫之宮の産まれでなければまだ微かな望みがあっただろうに、今はそんな希望は僅かにも湧かない。
 例え藍と身体を重ねるようになっても、藍は誰かと結婚をするしその相手との間に子供を作って幸せに暮らすんだ。その頃には運命の番がいた事など忘れてしまっている。
「だから、覚悟が必要なんだよ、永絆」
「何の、覚悟……?」
 藍が幸せならそれでいいと思える強い自分になりたい。
 だけど、今すぐには整理しきれない。
 自分自身、どうしたいのか分からないのだから。
「オレと、何があっても、何もかも捨ててでも、番って一生を共にする覚悟」
「……藍……」
 力強い声に、その言葉の意味に、熱いものが込み上げてきた。
「本気なの……?」
 一時の気の迷いや、ちょっとした好奇心なら今すぐ言った言葉を否定してほしい。
 だってもう、どう足掻いてもこの藍への気持ちは誤魔化せない。膨らむ一方で隠すことも消すことも出来ない。
「オレはずっと、永絆に対して本気で接してきたつもりだ。これからもそれは変わらない」
「……藍は、覚悟があるの……?」
 番ったら後戻りは出来ない。
 藍に全てを捨てさせる事になるかもしれない。もしかしたら自分達が考えてるよりももっと厳しい現実が待っているかも。
 今まで何不自由なく生きてきた藍に一般庶民以下の生活が出来るとは思えない。
「当たり前にしてきた色んなことが出来なくなるかもしれないんだよ? 凄く貧乏になって、ご飯だって服だって送迎の車だって何にもなくなるかも。藍はその生活をする覚悟があるの?」
 やっぱりそんな生活は無理だと、番ってから言っても遅い。周りが反対したのに聞き入れなかった方が悪いんだと笑われてしまう。
 αのプライドがどれだけ高いかを考えたら、そんな生活は藍には絶対に無理だ。
「オレはもうとっくに覚悟は出来てるよ」
 何の迷いもなく放たれた言葉に、涙が溢れた。
 一体いつからそんな覚悟をしていたのか。避けてばかりいたから気付かなかった。
 もっと素直に藍に心を開いていれば、もう少し早くこの扉を開けることが出来ていたのかもしれない。
「永絆……?」
 今、この瞬間の藍の顔を見ないなんて、そんな勿体無いことは無い。
 ちゃんと顔を見て、触れたい。
「藍……」
 ゆっくりと扉の取っ手に手を掛けて少しだけ開くと、藍の甘い花の様な匂いが漂ってきた。
 少しだけ開けた隙間から藍が覗く。その隙間に手を伸ばし、震える指先で藍の頬に触れた。
「永絆」
 頬に触れた指先に、藍の手が重なる。
 身体中の血液が忽ち沸騰するように熱くなる。
 あ、と声を漏らした時には扉は大きく開かれ準備室中は藍の漂わせる花の様な香りでいっぱいになった。
 自分の身体の内からも同じ花の様な香りが溢れてくるのを永絆は感じていた。
 藍の手が永絆の頬に触れ、その輪郭をなぞるように指先が顎を伝う。
 自然と顔を上げて藍を見つめた。むせ返る花の匂いにお互いの視線が交差すると顎をクイと指先で持ち上げられた。
「永絆から、甘い匂いがする」
 藍の鼻先が永絆の耳元を掠め、その匂いを吸い込む。
 甘い囁きに鼓膜が溶けてしまいそうだった。溶けて、蕩けてしまうと思った。
「藍も……甘い……」
 しっかり立っていられないほど、足から力が抜けていく感覚に怖くなって藍の肩に頭を寄せた。
「これは、ヒートなの?」
 今までのヒートとは明らかに違う身体の熱さに自分の身体の状態が分からなくなった。
 ヒートに似ているけれど、それ以上に全身を覆う花の匂いが永絆から不安を取り除き安堵を与える。
 今までのヒートなら一瞬でも気を抜けば身体の疼きに負けてしまっていたのに、今はただもっとこの花の匂いの中でずっと寄り添いあっていたいと強く願うだけ。
 それは藍も同じ様で、理性を飛ばすでも我慢するでもなく、ただひたすら優しく永絆の髪を撫で髪や額に小さく口付けを落とすだけだった。
 後ろ手に藍が扉を閉めると準備室の中は二人の花の匂いで充満した。
 身体は熱く火照っているのにとても心地よくて藍の胸の中で永絆はうっとりとその温もりに酔いしれた。
 永絆を床に座らせると肩を抱いて優しく髪を撫で梳く藍の手。夢見心地の中で甘く蕩ける感覚が全身を包む。
「永絆……オレの番になって欲しい」
 その言葉がどれだけ嬉しいか伝えたかったけれど、永絆は何も言えなかった。
 番になりたいと思えば思うほど、藍のこれからの人生を考えずにはいられない。
 お互いの覚悟だけで全て上手くいく様な、そんな簡単な話ではない。
「時間はかかるかもしれない。だけど必ず説得して認めてもらう。それでもダメならオレは紫之宮を出る」
 説得しても誰も認めてくれないだろう。αの一族にΩの血が入る事を紫之宮と言う名門家は良しとしない。
 だからといって藍が紫之宮を出る事など出来やしない。そんな事をしようとしたら自由に外にも出してもらえなくなる。
 紫之宮家がどれほどαという血を重要視しているか。それは子供でも知っている常識の一つだ。
 藍がそこまで考えてくれた。一緒にいる事を一番に望んでくれた。それだけでもう十分、幸せだと思わなければいけない。
 こうして扉を開けて触れ合えただけで満足しなければ。
「藍……オレの話を聞いてくれる?」
「うん、なに?」
 一つ息を深く吸い込むと甘い匂いが肺をいっぱいにする。
 この甘い匂いすら胸に小さな痛みを刻む。
「オレは中学の時に受けた性別検査でΩだって判定されてすぐ、親に捨てられたんだ」
 それは今も鮮明に残る記憶。
 たった一瞬で今までの生活が失われた瞬間だった。
「元々βの両親で、Ωへの偏見が酷い人達だった」
 Ωへの差別は日常茶飯事。誰彼構わず誘惑するフェロモンを振り撒く厄介な存在。身体を使って取り入る下賎な人種。
 幼い頃からそう言われて育ってきた。そのせいでΩは汚い生き物だと思っていた。
 そのΩだと判定された時、両親の蔑む顔が浮かんだ。
「これからはΩの特技を使って生きていけ。そう言われて家を出された。数日分の着替えと中学の制服、教科書。少しずつ貯めていたお小遣い。オレに残ったのはそれだけだった」
 肩を抱く藍の腕にぎゅっと力が入った。
 決して楽しい話じゃない。だけど藍には教えておかねばならない。
 自分がどうやって生きてきたか。そしてそれでも覚悟は揺るがないか。
「その日から公園で寝泊まりした。学校には普通に通った。両親も周りにバレたくなくて中学卒業までの最低限の費用は出してくれてたからオレが宿無しだって気付く人はいなかった」
 一つの公園に居続けると目立つからあちこちを転々とした。手洗い場の冷たい水でタオルを濡らして体を拭いた。髪もシャンプーなしで水を被って洗っていた。
 週に一度はネットカフェのシャワーを利用して全身綺麗に洗った。貯めていた小遣いの殆どはそれに使って、出来るだけ学校の先生や生徒に不潔に思われない様に気を付けた。
「でもそんな生活、長くは続かなかった。補導されかけて逃げたり、タチの悪い不良に絡まれそうになったり、安心して眠れる事は一度もなくて冬が来たら寒さで死ぬだろうって予想してた。それでも学校には行った。給食目当てでね」
 一日一食、安眠も出来ない生活は永絆の成長にも害を及ぼした。あっという間にやせ細り周りに心配されたけれど笑って誤魔化し続けた。
「全部オレが悪い。全部Ωだから悪いんだってずっと思ってた。両親がΩ嫌いでそれを聞いて育ったからそう刷り込まれてたんだ。でも両親は悪くない。βの両親なのにΩに産まれてしまって申し訳ないと思ってた」
 両親は永絆がΩだった事で浮気したのではと疑い喧嘩もしていた。かなり低い確率でβの両親からΩやαが産まれる可能性はある。それでもそんな低い確率を簡単に信じられる訳がない。
 両親がその事でその後どうなったか、永絆は知らない。家を出されたその日から今まで一度も会っていないのだから。
「公園での生活に限界を迎えて動くのも億劫になった頃、声を掛けられた。父親より少し年上くらいのおじさんだった。お金をあげるから一晩相手して欲しいって言われたんだ」
 その男は公園で寝泊まりする永絆をよく見掛けていたと言った。詳しい事情は知らないがお金があれば何かと助かるだろうと優しく手を差し出した。
「永絆、もういい」
 話の続きをしようとした永絆の口を藍の手が塞いで遮った。
「永絆が生きてくために頑張った事を否定するつもりも非難するつもりもない。そんな事で嫌いにもならない」
 塞いだ手を離すと永絆の頭をポンポンと優しく叩き、そっと抱き寄せる。
 藍の肩に頭を乗せて永絆は目を閉じた。
「藍はそう言ってくれるって気はしてた。だけどね、言葉ではいくらでも言える。オレが実際どんな事をしてきたか知ったら、藍はきっと軽蔑する」
「しない。絶対しない」
 藍の腕から逃れて、永絆は藍を見据えた。
 言わなければ一生バレない事かもしれない。けれど調べられたら直ぐにバレてしまう。他人の口から聞かされるより自分から話す方が罪悪感も薄まる。
「その人に飼われてるんだ、今もずっと」
「……飼われてる?」
 藍の瞳が一瞬揺らいだのを見逃さなかった。
「大学卒業までの約束で愛人契約をしてる。一晩限りのつもりだったけど気に入ってくれて、住む家も与えてくれた。着るものも食べるものも、大学卒業までのお金も全部出してもらった。代わりにオレは彼の所有物になったんだ」
 生きる為に決断した。
 あのまま公園で寝泊まりを続けていれば行き着く先は身体を売って稼ぐ道だった。その時はまだ発情期を迎えていなかったけれど、やがて来る発情期を公園で過ごせば不特定多数に犯される可能性は高い。
 どうせ身体を売らなければいけないのなら自分を気に入ってくれているこの人の元に居た方が安全だと考えて、彼の申し出を受けた。
 大学卒業までの期間、かかる費用は全て出してもらう代わりに自らの自由は彼のもの。
 卒業した後は自力で生活する事を約束させられた。
 だからどうしても大学を出てちゃんとした職に就かなければいけなかった。そうしないとまた公園へ逆戻りになる。今、住んでいる部屋も出ていく決まりになっている。
「今も……?」
「今もだよ。彼との決まり事で番を作らない事になってる」
 藍と出逢って、こんな事が起こるなんてと悔やんだ。まだ藍が紫之宮家の人間だと知らなかったあの初めて出逢った日。
 自分の人生はもう捨ててしまっていたから、約束事が無くても番を作るつもりはなかった。それなのにあの日、藍に出逢って気持ちが揺れた。この人の番になりたいと思ってしまった。
 そして天秤にかけた。
 これから先の自分の人生を、運命の番に託すか、飼ってくれている彼に託すか。
 それは賭けだった。もう一度逢えたら、その時は番に自分の未来を託そうと。次にいつ逢えるかはわからない。大学を卒業した後、何年も経ってからかもしれない。
 まさかこんなに早く再会するとは思っていなかったけれど、名前を教え合った再会の日、全てを藍に託して番って生きていこうと決めた。
 紫之宮家と言う名前を聞くまでは。
 藍を選べば藍の将来はダメになる。だったらこのままの方がいい。
「ごめんね、藍。せっかく覚悟してくれたのに、オレはダメなんだ。オレは藍の家を敵に回す覚悟もないし、そのせいで彼の仕事や立場が悪くなるのもイヤだ。だからもう、これで諦めてほしいんだ」
「……せっかく触れ合えたのに、諦めろって言うのか?」
 藍の声は冷たかった。その声に心臓が凍りそうになった。
「せめてちゃんと顔を見て伝えたかったんだ。これでちゃんと話せた。もうこれで終わりにしたい」
 冷たい眼差し。無表情の顔。さっきまで包まれていた甘い匂いも感じなくなってしまった。
 どんどん薄まる花の匂いに、これで終わったのだと永絆は察した。
 強く求めていた時期も確かにあった。どうして置き去りにするのかと嘆いた時も。
 その度に自分の身勝手さに嫌悪して、早く決着をつけなければいけないと解っていた。引き延ばせば延ばすほど、藍を傷付ける。
 藍が紫之宮家を捨てると覚悟してくれたから、これ以上は引き延ばせない。
「ごめんね、ありがとう。少しだけだったけど、藍といた時間は幸せだったよ」
 立ち上がって藍に背中を向けた。もう顔を見るのは怖くて出来なかった。
 藍が今、どんな表情をしているのか。きっと自分に振り回されて腹が立っているに違いない。
「それでも構わないって言ってもか!?」
 準備室を出ようとドアノブに手を掛けた瞬間、その手を掴まれ後ろから抱き締められた。背中越しに伝わる温もりに戸惑う気持ちを押し殺す。
「誰も幸せになれないよ、藍」
「このまま項を噛んでも構わない」
 永絆の項に藍の口唇が触れた。ゾクリと肌が粟立つ。嫌悪ではなく、それは期待だった。
「発情期じゃないのに噛んだって意味無いの、知ってるでしょ」
 番になるには発情期に繋がりあった状態で噛む事。今は発情期ではないから噛まれてもただの傷痕になって数日で治る。
「そいつがいいのか? そいつと番うつもりなのか?」
 項に吸い付きながら藍が苦しそうに囁く。
「……言ったでしょ。誰とも番うつもりはないって」
 言うと、項に痛みが走った。噛まれたんだと直ぐに分かって、泣きそうになった。
 意味のない噛み跡などつけて欲しくなかった。見る度に、痛む度に思い出して辛くなるから。
「永絆……」
 振り向いて、藍を抱き締め返せたなら良かった。
 もう置き去りにしないで、いつでも傍で触れていてと言えたなら。
「ごめん」
 ドアノブを回して無理やり藍の腕から逃れると準備室を出て扉を閉めた。
 藍が追いかけて来ないことを願いながら廊下を走って外に出ると、そのまま大学を後にして自分の部屋に帰った。
 ズキリと項に痛みが走る。思わず手で触れると薄らと血が滲んでいた。
「藍……藍っ……」
 その血を見て我慢していた涙が溢れ出した。
 心が痛い。このまま死んでしまうかのような切り刻まれる痛みだ。
「藍……」
 上手く話せただろうか。藍は納得してくれただろうか。
 藍がこのまま諦めずに自分の事を細かく調べたらさっき話した事も意味がなくなってしまう。
 もっと残酷な話をすれば良かったのかもしれない。
 不特定多数に犯されて酷い目にあったと言えば、藍はそんな番はいらないと言ったかもしれない。
 だけど覚悟を決めたと言っていた。どんな過去があってもいいと。だから、ああ言うしかなかった。
 藍のものにはなれない。他の人がいるから。そう約束したから。
「嘘つきで、ごめんね……」
 本当はもっと早くに伝えるつもりだった。近付く事さえ出来ていれば、こんなに焦がれる前に伝える筈だった。
 触れる事が出来ない事実が藍への思いを余計に膨らませて歯止めがきかなくなった。これ以上は好きになっちゃいけないのに。
「ごめん……藍……」
 貴方と番いたかった。
 ただ一言、そう言えたならどんなに幸せだっただろう。
 もう、その言葉を言うことは二度とないけれど……。
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