はなのなまえ

柚杏

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四章

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 その部屋には大きな窓があって、ベッドに横になっていても外が見える様に造られていた。
 ベッドの上で一日の殆どを過ごす彼にとって、その窓からの景色だけが外との繋がりだった。
「体調はどうです?」
 窓を開けて風通しを良くしながら訊くとベッドの上で彼はニコリと微笑んだ。
「永絆が来てくれたからとても良いよ」
 まだ三十代後半の男とは思えない痩せ細った体と、青白い顔色。
 会いに来る度に弱々しくなる彼に永絆は無理に笑って見せた。
「大学は楽しいかい?」
「はい、新しい友人も出来て何とかやってます」
「それは良かった。永絆は努力家だから僕も将来が楽しみだよ」
 少し長く伸びた髪を窓から入った風が揺らす。
 白い彼の項が露になって、そこに刻まれた噛み跡が見えた。
 彼は永絆が公園で暮らしていた時に声を掛けられ知り合った。何か困っているのではないかと純粋に心配をしてくれた。
 最初は警戒していた永絆だったが、彼の項に噛み跡があるのを見つけて事情を打ち明けた。
「菫《すみれ》さん。やっぱり連絡するつもりはないんですか?」
「ないよ。何度も言ってるけど、僕が死んでも連絡はしないで」
 この人と一緒に生きていくと決めた彼の番は、今、彼の傍にはいない。彼が病床にある事も知らない。
 菫と初めて出会った時には既に番は一緒にはいなかった。菫と番った相手は藍と同じようなαの一族で、周囲の反対を押し切って番になった。
 駆け落ちをしてひっそりと暮らしていた二人は、αの彼が自宅から出なくても出来るデイトレーダーをしながら目立たない様に生きていた。
 最初のうちは上手くいっていた。デイトレードも順調にいき、それなりの貯蓄も出来た。成功していくうちにαの血が疼いたのか、もっと手広く事業をしたいと感じ始めた番に菫は「ダメだ」とは言えなかった。
 上昇志向の高いαにいつまでもひっそり暮らすなんて出来ないと菫は分かっていた。だから彼の仕事を応援する事に撤した。
 直ぐに彼の名前は知れ渡り、彼の両親の耳にも入り、彼はそのまま連れ戻された。
 そうなる事は事業拡大の話をされた時に予想はしていた。反対しなかったのは、残りわずかな二人だけの時間を出来るだけ穏やかに過ごしたかったからだ。
 彼が残していった事業をどうするかで彼の両親と一度だけ会った。彼はその場に来なかった。会うことを知らされていなかった。
 一生、使い切れない額の手切れ金を渡され事業は彼の親が引き継ぐ事で話は纏まった。二度と彼に近付かない、連絡を取らないと誓約書も書かされた。
 番と離れ離れになった菫は程なくして体調不良になり、発情しなくなってしまった。
 それは、番が別の誰かと身体の関係を持った証拠だった。
 番になった後はΩのフェロモンは番にしか効かなくなる。そして番だけしか受け入れられなくなる。万が一、他の誰かに犯されそうになったら拒否反応を起こしてしまう。
 拒否反応には、嘔吐や痙攣、発狂しそうなくらいの激痛、最悪の場合は死んでしまうという。
 一方、αの方にはそこまでの拒否反応は出ない。
 多少の不快感はあるものの、番以外を抱けば番解消とみなされる。その後はまた別の番を作る事も出来る。
 番が解消されると、Ωの中には発情期がなくなる者もいる。また新しい番を作る者もいるし、番が出来る前の発情期のある生活に戻る者もいる。
 発情期がなくなる確率は極めて少ない。そしてそうなったΩは本来の本能を失う為、どんどん衰弱していく。早ければ数ヶ月、長くても数年で息を引き取る。
 菫は今、残りわずかな寿命を手切れ金で買ったこの家で身の回りの世話や介助をしてくれているヘルパーと二人きりで暮らしている。
 残された生命で使い切るには多過ぎる手切れ金を持て余して打ちひしがれていた頃に、永絆と出会った。そして永絆に衣食住の全てを提供し、大学卒業までの学費も出した。
 永絆は衣食住に関しては素直に感謝してくれたが、学費はいらないと言って突っ撥ねた。早く仕事を見つけて世話になった分、お返しをしたいと言う永絆に「学歴はあった方がいい」と説得し、いい企業に務めるためにも大学へ行けと強引に話を進めた。
 渋々納得した永絆は、それでも奨学金制度を利用すると言って有言実行し、ちゃんと大学に受かった。
 菫は彼のそんな努力家で真面目で、あまり融通のきかない性格が好きだった。
 日に日に憔悴していく自分が出来なかった事を永絆にはたくさんして欲しいと思っていた。
「永絆、何かあった? 少し表情が暗い」
「……菫さんは鋭いなぁ」
「永絆が嘘をつけない性格だからだよ」
「……そんなことないよ。オレ……嘘ついたよ」
 ベッドサイドの椅子に座り、永絆は棒のように細くなった菫の手に触れた。出会った頃はまだこんなに痩せていなかった。少しやつれた感じには見えたけれど、死に至る病に罹っているとは思わなかった。
 今はもう自力で立ち上がる事さえ困難で、食事も殆ど喉を通らない。かかりつけ医が来て栄養剤の点滴をしてくれても一時凌ぎにしか過ぎず、治す方法は新しく番を作る事だけだった。
 菫はまだ離れ離れになった番の事を心底、愛している。
 その番が他の誰かを抱いて番が解消された今でも、ずっと思い続けている。
 彼以外の番など考えられない。作る気も無いし、病を治す気もない。
「嘘って、どんな?」
「……オレは愛人に飼われてるから番を作る気はない、って」
 菫は目を丸くして驚いた後、ふふ、と可笑しそうに笑った。彼のそんな笑顔を見るのは久々で永絆は何故か哀しくなった。
「随分、下手くそな嘘だね」
「オレもそう思う……」
 あの時、藍に告げた嘘の話を藍がどこまで信じたかは分からない。
 藍の事だから真実かどうか調べさせているかもしれないし、永絆の嘘を見抜いているかもしれない。
 嘘だとバレていても良かった。嘘をつく意味を藍が理解してくれているのなら。
 周りの反対を押し切って番っても菫の様に離れ離れにされる事は目に見えていた。そしてある日突然、番を解消されてしまうのも。
 その本心を聞きたくても二度と会わせてもらえない。
 それでも次の番を見つける強さがあれば、藍と共に全て捨てて駆け落ちでも何でもする。けれど藍は運命の番だ。彼以外の番など二度と現れる事は無い。
「永絆、僕は君がこの先どうなるか見届ける事は出来ない。だけどずっと祈ってる。永絆にとって一番最良な未来が訪れる事を」
 そう言って、細い指で永絆の髪を撫で梳き微笑む菫に、永絆はただ苦い笑顔を見せるしかなかった。
「僕と永絆は違う人間なんだから、同じ事にはなったりしないよ?」
 永絆の頭を撫でる手は子供をあやすように優しい。
 彼にとって永絆は子供みたいな存在なのだろう。Ωとして産まれ、番を作ったにも関わらず子供を残せなかった彼の短い人生の中で、永絆を保護して成長を見守る事が唯一の楽しみだったのだ。
 もう長くない生命を前にして、もっと沢山、彼に甘えておけば良かったと悔やんだ。まだ体の自由がきくうちに色んな所に出掛けたり、彼が満足するまで自分の物を買ってもらえば良かった。
 住む家を与えて貰っただけでも有り難かったのに、それ以上の事などして貰ったら罰が当たる気がして遠慮ばかりしていたけれど、それが菫の生き甲斐だともっと早くに気が付いていたら。
「それでもオレは怖い。藍を失ったら生きていけない。それなら最初から手に入れちゃいけないんだ」
 もしも藍と番になって、菫の様に離れ離れにされて番を解消されたら。
 それだけならまだ我慢出来る。藍が幸せになっているのだと思って諦めがつく。
 自分がもしも菫と同じ体質で、番解消によって生命が削られる事になったら……。
「菫さんの様に寿命が短くなっても、死ぬのは怖くないよ。藍のいない毎日なんて死んだも同然だもん」
「永絆……」
 そう、死ぬ事が怖いんじゃない。
 一人、死に至るまでベッドの上でそれを待つ日々も辛いだろうけれど耐えられる。
 恐れているのは、一度番った相手を失う事だけだ。
 もう二度と会う事が出来ないまま番を解消されてしまう事だ。
「番にならないで、このまま卒業するまでの時間、ほんの少しだけ関わらせて貰えたらそれでいい。藍は家を継いで手の届かない人になるから、だから今だけ」
 近くに居すぎたらきっと番ってしまいたくなるから。運命に惹き寄せられて離れたくなくなるから。
 少しだけでいい。廊下でたまにすれ違うくらいの、ほんの少しだけの関係で。
「永絆は欲がないよね」
 菫がため息を吐きながら眉を下げる。
「欲は……あるよ、凄く。ただ、それは誰の為にもならない欲だから」
 誰にも望まれない欲ならば、欲しては駄目だ。不幸にしかならない。
「欲ってのは、自分の為のものだよ。誰かの為のものじゃないよ」
「……でも」
「永絆」
 ゆっくりと永絆の頭を撫でながら、菫は瞳を閉じてふぅ、と息を吐く。
「君は幸せにならなきゃダメだよ」
「菫さん……」
「大丈夫。僕が祈っててあげる。永絆の幸せをずっと、ずっと」
 魔法をかけるように温かい言葉で、菫は何度も「大丈夫」と繰り返し囁いた。
 菫が疲れて眠りにつくまで、頭を撫でられながら永絆はその魔法の言葉を心に染み渡らせていた。

***

 まだ夏だというのに冷たい風が吹いた。
 中根に言われて受け始めた定期検診の為に診療所へ行った帰り。外は真夏の容赦無い陽射しが照りつけているのに、髪を靡かせた風が一瞬だけ冷たく感じて足を止めた。
 中根が永絆の為に量を調整して処方した抑制剤は前の物よりは効いていた。藍の隣に居ても発情する事はなくなって、それが抑制剤の効果なのか、中根が言った仮説による『慣れ』なのかは分からない。
 相変わらず藍の前では必要以上にフェロモンが出ているのに、藍以外の人間には効いていない様でこれが単純に運命の番にだけ発せられるフェロモンだと答えを出すにはあまりにも情報が少なすぎた。
 菫の体調は日に日に悪くなり、今はもういつ会いに行っても眠っていて目を覚まさない。それでも苦しそうには見えないのは、何か良い夢を見ているのかもしれない。
 きっとこのまま眠り続けて死ぬのだろう。最期の時は静かに逝ってほしい。
 菫が生きているうちは自分の人生は菫のものだと決めていた。菫が望むなら何だってすると。
 彼はそんな事は望んでいなかったし、永絆の自由に生きろといつも言っていたけれど一度失った人生を取り戻せたのは菫が拾ってくれたからだ。
 今こうして藍の事で悩めるのも、菫が居てくれたから。
 だから菫が生きているうちは、菫の為に生きたい。彼が望まなくても、そう自分自身に約束したのだ。
 冷たく感じた風があっという間に湿気を含んだものに変わり、不快感で顔を顰めていると携帯が鳴った。
 画面には菫の家の住み込みのヘルパー兼家政婦からだった。
「もしもし」
 じんわりと汗が額から落ちていく。
 蝉の声が何処か遠くで鳴いている。
 鼓膜の裏にずっと張り付いて消えない鳴き声に目眩を覚えた。
 
 その日、菫は一度大きく息を吸ったかと思うとそのまま二度と呼吸をする事は無かったと後にヘルパーから話を聞いた。
 葬儀はせず、菫はすぐに火葬され自ら建てた小さな墓に納まった。
 永絆は墓前でじっと立ち尽くして線香が短くなっていくのを見ていた。
 菫の死に顔はとても安らかだった。今にも目が覚めて笑ってくれそうな、そんな優しい顔をしていた。
 先が長くない事は分かっていたのに、こうして墓の前にいてもまだ夢を見ている様だった。
 菫が生前に遺した遺言状には、葬儀はしない事や火葬後は早めに墓に納骨する事、住んでいた家の事など細かく指示されていた。
 そのお陰で哀しみに浸る暇もなく、明日からは菫の家にある荷物の片付けが待っている。荷物と言っても元々、菫の部屋には必要な物以外は何も置かれていない。ベッドと窓にかかるカーテン、ベッドサイドの小さなテーブル。
 死んでいく人間だからと自室に物を置かず、その代わりの様に永絆に与えたマンションの一室には菫が買ってきた家具やインテリア雑貨や絵が飾られ、ただの大学生とは思えないような高価な見た目になった。
 自分では選ばない物ばかりの部屋は最初のうちは落ち着かなかったが、今は慣れてどれも愛着があった。
「永絆」
 聞き覚えのある声にハッとして振り返る。
 黒いスーツに身を包んだ藍が仏花を持って近付いて来て、小さな墓に供えると線香に火をつけ煙を焚いた。
「……知ってたんだね」
 ここに藍が来るという事は菫の事を調べられていたという事だ。つまりは「飼われている」と言った嘘も藍にはバレている。
「飼われてるなんて言われて諦めがつく訳ないだろ」
 墓前に手を合わせ目を閉じた藍の背中を見つめる。
 嘘だと気が付いているかもしれないとは予想していた。調べるかもしれないことも。
 嘘と知っていて藍はあの準備室での別れ以来、何も言っては来なかった。
「金で飼われてるならそれ以上を出してやるつもりでいた」
 立ち上がった藍は永絆へと振り返り、一歩近付いて来た。
「お金でオレをどうにかするつもりでいたの?」
「それは本気で言ってるのか?」
 いつになく声が低く、怒っているようだった。
 藍が自分を金でどうこうするつもりがない事は分かっている。そのつもりだったらとっくにやっていただろう。
 藍はずっと、永絆の気持ちを優先してきた。力強くでどうにかしようとはしなかった。
「……思ってない」
  長い溜息を吐いて、藍がまた一歩、永絆に近付いた。
 もう手を伸ばせば届く距離まで来ると藍から漂う甘い香りに張り詰めていた糸が緩んだ。
 何かに縋り付きたいと一度思ってしまうと我慢が出来なくて、藍に手を伸ばしスーツを握りしめ胸に体を預けた。
 この数日、線香の匂いばかりだったせいか余計に今日の藍の香りは甘く感じる。
 胸いっぱいに吸うと、菫が息を引き取った後も泣かなかったのに急に込み上げてくるものが喉の奥を詰まらせた。
 そっと、回された藍の腕の中で永絆は声を上げて泣いた。
「菫さんっ……」
 とても大切な人だった。
 Ωというだけで実の家族に捨てられ絶望していた永絆を闇から引き上げてくれた光だった。
 同じΩだから何でも相談出来た。藍との出逢いも相談した。
 彼がいたから生きてこれた。頑張って大学まで行って、卒業したら恩返しをするつもりだった。
 運命の番の藍さえも差し置いて、一番に優先してきた。菫はそんな事は望んでいなかったけれど、自分がそうしたかった。
 菫のお陰で自分の意思で人生を選択するという勇気を貰った。
「いい人だったんだな」
 永絆の髪を撫でて、藍が呟く。その優しい声にまた涙が込み上げる。
「……オレは番を解消したりしないよ」
「……藍……それは……」
 紫之宮でいる限り、番う事も無理だし例え番っても引き裂かれてしまう。そうなれば菫の二の舞だ。
「絶対しない。約束する。もし誰かに引き裂かれても、お前以外と番ったり抱いたりしない。絶対だ」
 菫のようにはなりたくなかった。ただ一人の番を思い続けて死んでいくくらいなら、番うこと無く思い続けていたかった。失くした時の痛みが少なく済むと思っていたから。
 だけどもう、そんな事はどうでもいい。
「藍……」
 どんなに否定しても、拒んでも、彼には通じない。それなら傷付くのを承知で全て受け入れ、深みにはまってしまいたい。
「なぁ、うちに住まないか? 部屋は余ってるし、傍に居てくれたらオレも安心するから」
「急すぎるよ……」
 真剣な顔の藍を見上げて、泣きながら苦笑した。
 αの性分なのか、欲しいものがあれば直ぐにでも手元に置こうとする。それだけ求められていると思うと嬉しい反面、飽きてしまえば捨てるのも早そうで不安になる。
「今の部屋は……菫さんが大学卒業までの家賃を払ってるから出るのは無理だよ。それに菫さんとの思い出がいっぱいある部屋なんだ。簡単に手放せない」
 まだ元気だった頃にはよく顔を見せに来てくれた菫。流行りの洋菓子店でケーキを買ってきてくれたり、面白いからと漫画を大量に持ってきたり、彼はまるで子供のように気紛れに遊びに来ては帰って行く。
 高校、大学と受験する時は勉強も教えてくれたし、塾にも通わせてくれた。
 自分が出来なかったことだからと、とにかく何でも協力してくれた。それに見合う結果を出す事が使命だと思った。
 菫との日々はかけがえのないものだ。彼がいたからΩでも、親に捨てられても、腐らずに生きてこれた。
「そうか……。じゃあ、たまにでいいからうちに遊びに来ないか? オレも遊びに行くから」
「……藍? どういう意味?」
「だから、つまり……」
 あー、うー、と唸る藍に首を傾げると肩をぎゅっと掴まれ、急に深呼吸を始めた。
「ちゃんと付き合いたいって意味」
「……ちゃんと?」
 意味が分からずじっと藍を見ていると、みるみるうちに顔を赤くしていく様子に永絆はとても珍しいものを見た気分になった。
 藍が照れている。今までそれなりに色んな表情を見てはきたけれど、こんなに真っ赤になって落ち着かない藍を見るのは初めてだ。
「αもΩも……運命もとりあえず置いといて、オレと永絆、二人で一緒に始めてみないか?」
「……なに、を……?」
 二人で居ることには常に性別や体質、家の問題が付き纏う。
 その全てを『とりあえず』置いておくだなんて出来るとは思えない。必ず誰かが止めに入るのは予想がつく。
「永絆の考えてる事は分かってる。オレの……紫之宮の事があるからだろ? オレがどんなに大丈夫だって言っても周りが放っておいてくれないのも」
「そう、だよ……。藍は家を継ぐんだから……」
「でも、そんな事言ってたらいつまで経っても何も進まない。オレは永絆にもっと触れたいし、いつでも一緒に居たい。言ったろ? 覚悟は出来てるんだ。反対されても永絆以外は考えられない」
 あまりにも必死に言うから、永絆は何も言えなくなった。
 永絆の肩を掴む手に力が入って指が食い込んで痛い。それだけ真剣なのだと伝わってきて胸が熱くなる。
「オレは今まで欲しいものは全て手に入れてきた。だけど永絆だけは……無理やり手に入れたい訳じゃない。本当は今すぐ掻っ攫って行きたいけど、お前が大切なんだ。二人で納得して一緒に居たいんだ。だから……」
 藍の言葉を永絆は途中で遮った。
 両手で藍の頬を挟み、爪先立ちになって唇を重ねる事で。
 ほんの一瞬のキスに藍は呆然として永絆を見つめた。頬にやった手はそのままに永絆は爪先立ちのまま藍の鼻先にも口付けた。
 暫くお互いを見つめあったまま、永絆の頬に藍の手が触れる。その手に擦り寄ると永絆はゆっくり瞼を閉じた。
「言って、藍」
「何を……?」
「オレの事、好きだって言って。運命だからじゃなくて、オレがΩだからでもなくて、永絆だから好きだって。そしたらオレは、それを信じるから」
 誰からも永絆個人を求められなかった。
 両親は実の子でも永絆を捨てた。菫はΩだから大切にしてくれた。
 でも藍は、αもΩも運命も置いておこうと言った。今まで誰からも言われなかった、求めていた言葉。
「永絆……永絆が好きだ」
 永絆の額に口付けて、優しく囁く声に耳を傾ける。
「永絆が、好きだ」
 鼓膜から浸透していく、藍の嘘のない言葉にひとすじ涙が零れた。
 頑なに閉ざしていた心が溶けていく。複雑に絡まった糸が解けていく。
 真っ更な新しい、素直な感情が藍で満たされていく。
「藍……」
 藍の首に腕を回して、解けた心のままに気持ちを口にした。
「連れてって」
 ここではない所、何処でも構わないから。
 藍を一番近くに感じられる場所へ。
「藍の傍に居たい」
 抱き上げられて菫の墓を後にする。
 藍の腕の中で揺られながら墓を見ると、そこに菫が立っている幻が見えた。
 菫は優しい笑顔を永絆に向けて、小さく手を振っていた。墓が見えなくなるまでずっと。

 藍が運転する車の助手席に乗せられて、墓地を走り去る。
 藍が運転出来る事を知らなかった永絆は、ハンドルを握る藍の横顔をぼんやりと眺めていた。
 送迎で使っていた高級車とは違う、街でよく見かけるタイプの車種。
 こうしていると藍がα一族の生粋のαだという事を忘れてしまいそうだ。
「何処に行くの?」
「オレの部屋」
 その答えに返事をしないまま窓の外に視線を移した。
 何処でもいい。藍と一緒に居られるなら。藍が二度と自分を一人で置いていかないなら。
 車は程なく藍の住むマンションに到着して、永絆は藍に手を引かれて部屋に連れて行かれた。
 再会した日に来た以来の藍の部屋に、あの日発情したまま置いていかれた記憶が蘇って胸が詰まるような痛みが走った。
「ここからやり直したい」
「え……?」
 靴を脱いで中に入ると手を引かれたまま寝室に連れて行かれ、躊躇いながらも足を踏み入れた。
「ずっと後悔してた。あの日永絆を一人にした事を。せめて中根が来るまで一緒に居れば良かった」
 永絆から出るΩのフェロモンに理性を保つ自信がなくて逃げ出した。永絆を傷付けたくない一心でした事だった筈なのに、結果的に永絆の心にトラウマを植え付けた。
「初めて会った時、永絆は凄く怖がって噛まないでって震えてた。あの姿が今も目に焼き付いてるんだ」
 永絆をベッドに座らせると一度部屋を出て行った藍はペットボトルを二本持って戻って来た。そのうちの一本を永絆に渡すと、キャップを開けてゴクゴクと豪快に飲む。永絆もペットボトルを開けると二口程飲んでキャップを閉めた。
「オレは、あの時に誓ったんだ。永絆が嫌がる事はしない。傷付けたりしない。怖がらせないって。――でもお前はオレの行動に傷付いてたんだな」
 あっという間に空になったペットボトルをローテーブルに置くと、永絆の隣に腰を掛ける。二人の距離は、少しだけ空いていてそれが今の二人の心の距離なんだと永絆は思った。
 準備室の扉の様にお互いの姿が見えない訳ではない分、その距離が切なく感じた。
「永絆、触れてもいいか?」
 永絆の前に差し出された手は宙で居場所を求めて彷徨う。
 コクリと頷くと躊躇いがちに指先が永絆の頬に触れる。髪を柔らかく撫で、また頬に触れてそのまま顎へと流れる指先。
 口唇を藍の親指がなぞれば、引き結んでいた口が小さく開く。
 あの日、キスを拒まれ打ちひしがれた。藍は番うつもりはないのだとショックを受けた。
 藍の行動、全てが初めて逢ったあの時、永絆が震えて怯えた事を配慮しての事だと知った。
 いつも、藍は自分の気持ちを優先して行動してくれていたんだと思うと今まで不安定だった気持ちがどこかに消えてしまった。
 今はただ、優しい口付けを交わしてすれ違っていた時間を埋めたかった。
「永絆……」
 どこまでも優しいキスに瞳を閉じた。
 温かい涙が流れてきて、それを藍の指が拭う。
 啄む様な短いキスと、熱を伝え合う様な長いキスを繰り返しながらやがてどちらからとも無く深い口付けを交わす。
 口唇全てを食む様にして、何度も息を荒らげながら交わすキスに頭の中が痺れていく。
 口内に入ってきた藍の舌に一瞬肩を震わせると、呆気なく舌は出ていってしまい口唇も離れていった。
 もっとキスが欲しいのに何故離れていくのかと藍を見れば、心配そうに見つめ返される。
 ああ、そうか。藍は肩を震わせた事を拒否だと思ったから離れたんだ。そんな事ないのにと、永絆は笑みを浮かべて藍に口付けた。
「怖くないよ。傷付いてもいない。だからやめないで」
 キスを、やめないで。
「永絆……」
 また重ね合った口唇は柔らかくて、しっとりとしていた。
 おずおずと入ってきた藍の舌がまた離れていかない様に自らの舌も差し出して、遠慮がちに絡め合った。
 唾液がぐちょぐちょと水音をたてる。いつの間にか夢中で絡め合った舌は、吸い上げられて藍の口内へと移動していた。
「ん……」
 どのくらいの時間、そうやって口付けを交わしていたかわからない。
 息が切れて、酸欠でフワフワした感覚のままゆっくり名残惜しがりながら離れた口唇は腫れ上がって痛いくらいだ。
 コツンと額を藍の肩に乗せて体を預けると髪を撫でてくれる大きな手のひら。
 愛しさが溢れてしまいそうで藍の服をぎゅっと握り締めた。
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