はなのなまえ

柚杏

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五章

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 暖かい腕の中で眠りについた。
 一緒にご飯を食べて、交代でお風呂に入り、着替えに藍の服を借りた。永絆が普段着ているサイズより大きいシャツは洗濯したてなのかいい匂いがした。藍と同じ、花の匂いだった。
 テレビを見ながら温かいミルクティーを隣に並んで飲んだ後、ベッドへと手を引かれ腕枕をされて髪を撫でられた。
 額やこめかみに小さく口付けを落とされ、髪を撫でる手が気持ち良くなってきて次第にうとうとし始めると藍がそっと「おやすみ」と囁いた。
 永絆も返事をしようと口を開いたが睡魔に負けてしまい、声にはならないまま夢の中へと入っていった。
 菫が逝ってから数日、眠れない日々を送っていた。
 胸の中のぽっかりと空いた喪失感に睡眠欲が奪われてしまって、真夜中になっても暗い部屋でポツリと座って朝が来るのをぼんやり待つ。そんな日々がいつまでも続く気がして怖かった。
 けれど、藍の腕の中で久々にぐっすりと眠れた。夢も見ないでスヤスヤと。
 藍の鼓動を感じて、肩の力が自然と抜けた。
 好きな人と共にベッドで眠るというのに不思議と緊張はしなかった。それはここに来てからずっと藍がひたすら永絆を甘やかして、優しく接してくれていたからだ。
 無理に何かを聞こうともしないで、会話といえば大学の講義についてだとか、藍が好きな映画やドラマの話だとか。そんな普通の話題は藍が紫之宮の跡継ぎだということを忘れさせた。会話だけ聞いていると何処にでもいる極普通の大学生にしか思えなかった。
 その時間はαやΩ、運命や跡継ぎの事を忘れさせて穏やかに緩やかに過ぎていった。
 翌日も、そのまた次の日も永絆は藍のマンションに泊まった。一度、着替えや必要な物を取りに自分の部屋に戻ったが、菫の買ってきた物で溢れている部屋はとても寂しくて、藍の温もりに触れた今、この部屋で一人で過ごすのは辛かった。
 藍はその事を分かっているのか、何も言わなかった。当たり前の様に大学へ行き、帰る時間を合わせて一緒に藍の部屋に帰る。二人でスーパーへ寄り食材を買って、二人で一緒に作り食べた。
 料理の腕は永絆の方が上で、藍は一人暮らしをしてはいたけれど定期的に実家から家政婦がやって来て家事をこなし、作り置きの料理を冷蔵庫に入れておくので自分では殆ど作った事がなかったらしい。
 肩を並べて料理をするのは楽しかった。意外と手先が不器用な藍が必死で皮を剥いた野菜を見ると自然と笑いがこみ上げた。こんな風に肩の力を抜いて笑えたのはいつぶりだろうか。
 菫が寝たきりになってからは一緒に出掛ける事もなくなって、楽しく過ごす事もなかった。刻一刻と迫る菫の生命のタイムリミットを感じずにはいられなくて、いつの間に心から笑う事を恐れていた。
 菫の死はまだ哀しくて、不意に泣きたくもなる。
 けれどそんな永絆をふんわりと抱きしめてくれる藍の腕に守られて、永絆は安心しきっていた。
 藍はいつも永絆が眠りにつくまで髪を撫でてくれる。優しくキスをしてくれる。
 それ以上の行為は求めてこない。
 不安になって一度だけ「何故、抱こうとしないの」と訊いたが藍は困った顔をして「まだその時じゃないから」と答えた。
 その時が何なのかを尋ねたかったが、それ以上訊ける雰囲気ではなかった。
 自分とはそういう事がしたくないのかもしれないとも考えたけれど、考えたところで答えは出ない。ぐるぐると悩む事はやめて、一緒に過ごす時間を大切にするようにしようと決めた。
 いつまでこのまま一緒に居られるか分からないから。
 いつか離れさせられて二度と会えなくなるかもしれないから。
 だから今は二人で笑いあって過ごす時間を大切にしようと思った。

 定期検診の為に中根の診療所に訪れた永絆は最近の体調の事を中根に相談した。
 菫が亡くなって三ヶ月が過ぎ、藍の部屋に入り浸るうちに暑い夏は終わりかけていた。
「発情期が来ない? いつから?」
「正確には来てる感じはするけど、フェロモンが薄くなってる気がするんです。藍の家で寝泊まりする様になった頃から」
 発情期じゃない時でも藍に対してあんなに強いフェロモンを出していたのに、中根が処方した薬の効き目が良いのかこの三ヶ月程は強い発情期もなく藍の傍にいてもヒートで理性を失うという事もなかった。
 あれだけ近付けない事に悩まされていたのに、傍にいると決めた途端、また体質が変わってしまった。
「藍とは番ってないんだよね? 性交渉は?」
「……いえ……その……」
 中根は医師として真剣に聞いているだけなのは分かっているが、やはりこういう話は恥ずかしい。
 藍とは殆ど毎日一緒に過ごして同じベッドで眠っているけれど、まだ結ばれてはいない。それだけが目的ではないし、藍の腕に抱かれながらだとぐっすり眠れる。今はまだその時ではないと藍が言うのだから、その時が来るのを大人しく待っている。
「発情期中でも藍は平気なの?」
「一応、発情期になったら自分の部屋に戻って籠ってたんですけど、藍と出逢ってからずっと薬を飲んでも効かなかったのに今は発情期が来たことも気付かないくらい何の変化もないんです」
 酷く疼いて求めていた欲望が嘘のように消えてしまった。
 ただ薬が効いているだけなら問題はないのだけれど、この数ヶ月で体質がどんどん変化している事に永絆は不安を感じていた。
「思い切って発情期中に藍の家に泊まってみたけど、藍はオレが発情期だと気が付いてなかったみたいで……。これって、いい事なんですか?」
 自分の身体の事なのに理解出来ない変化ばかりでどうしたらいいのかわからない。
 このまま発情期が来なくなって、βと同じ様になるのではないか。そうなると運命の番はどうなるのか。項を噛まれても番えなくなるかもしれない。
「はっきりした事は言えないけど、薬が効きすぎているのか若しくは副作用で体質に変化が出たか……。体調が悪くなったりはない? 目眩とか動悸とか。薬か関係しているなら処方をし直した方がいいかもしれないからね」
「体調は悪くないです。むしろ前より良く眠れる様になったし、凄く不安定だった感情も落ち着いてます。藍の傍に居るようになって、今までで一番安らげてます」
 その言葉に嘘は一つも無かった。
 菫を喪った哀しみを癒してくれたのは藍の温もりだったし、藍の家の問題や番になる事の障害が解決した訳ではないけれど、そんな不安を藍からの愛情が和らげてくれる。
 今が一番、幸せだと感じている。
「もう少し様子を診てみよう。発情期が来ている感じはあるみたいだし、それすら感じられなくなったら一度薬をやめて詳しく検査してみよう」
「はい」
「何かおかしいと思ったらいつでも連絡してね。今は藍と一緒にいる事で安定してるみたいだし、それはとてもいい事だと僕は思うよ」
 メガネの奥から目を細めて笑う中根に永絆もホッとして息を吐いた。
 まだ一緒にいれる。まだもう少し、一緒に。
 あとどのくらい一緒に居られるだろう。そんなに沢山の時間はないと思う。
 お願いだからもう少しだけ一緒にいさせてほしい。出来ることなら番わせてほしい。叶わない願いなのはわかっているけれど。
 もう少しだけ、藍の傍で番の真似事をさせてほしい。ほんの少しの時間でいいから。

***

「永絆!」
 駅前で高校時代の同級生と会う約束をしたのは先週。
 お互い別々の大学へ進学したので高校を卒業してからは会う機会がなかなか無かった。
 自分の身体や、藍との事、菫の事もあってタイミングも合わなかった。
「藤、久しぶり」
「久しぶりだねー」
 藤は高校の三年間同じクラスで、Ωである事を隠していた永絆が唯一その事を打ち明けた親友だ。
 爽やかな見た目と物腰の柔らかそうな笑顔。一目見て、優しい性格だとわかる雰囲気を持っている藤は一般家庭育ちのαだった。
 αはだいたいが古くから続く一流の家系だが、稀に藤の様に一般家庭から産まれるαもいる。その為か、藤にはαに付き物の傲慢でプライドの高い性格がなく、性別関係なく親しみやすい人間だった。
 親に捨てられ菫の世話になっていた永絆は高校時代、荒んでいた。
 菫には心配掛けたくなくて高校にはちゃんと通ったし、勉強も人一倍頑張っていたが友人を作る事もなくいつも一人で居た。
 菫以外、誰も信用出来なかった。その頃の永絆は両親への恨みや憤りを胸に抱えて生きていた。
 そこに現れたのが藤だった。
 いつも一人で行動する永絆が気になっていたらしく、何かと声を掛けてきた藤。藤がαだという事は既に周知の事実で、永絆は菫がαの番に捨てられた事を思い出して藤の事も敵視していた。
 αは裏切る。番になっても平気で居なくなる。
 藤の性格の良さはクラスメイトや教師の噂話を耳にしていたから知っていた。けれど簡単に信用出来るほど、その頃の永絆には心に余裕がなかった。
 何かと気にかけてくれるのは有り難いが、正直、一人で居たかった。誰ともつるみたくなかった。
 それでも藤はいつも声を掛けてきて、無視をする永絆にもニコニコと笑顔だった。それがやけにイラついてある日、自分がΩである事を藤に伝えた。
 αが近くにいたら発情期になった時に襲われるから傍に寄るな、と。
 Ωを蔑むαと友人になるつもりはない、と。
 これで自分がΩである事が他の生徒にもバレてしまうだろうと内心ビクビクしていた。けれど何日経っても永絆がΩである事は誰にもバレなかった。
 藤は永絆の秘密を誰にもバラさず、それどころか改めて友人になりたいと言ってきた。
『なんでΩのオレなんかと友達になりたがる?』
 その問いに藤は当然と言った風に笑顔で答えた。
『友達になるのにαとかΩとか、関係ある?』と。
 藤はΩだと知る前からずっと永絆と友達になりたがっていた。一人で居たからという同情なんかではなく、永絆となら良い友人関係が築ける気がするという直感があったのだと説明した。
 頑なに藤を拒んでいた永絆も、あまりの純真さに何だか馬鹿馬鹿しくなって思わず笑ってしまった。
 その日から少しずつ話すようになって、藤の性格の良さを実感した。
 αである事を鼻にかけない、ごく普通の高校生だ。流行りには敏感だし、男子同士で馬鹿な会話もするし、優秀な遺伝子を持つはずなのに歌はお世辞にも上手いと言えない。たまに何もない所で躓いて転ぶ様な抜けている所もあって、知れば知る程憎めない存在になっていった。
「それで、運命の人とはどうなったの?」
 駅の側の小洒落たカフェに入って飲み物を注文した後、徐に藤が聞いてきた。
 高校卒業間近に運命の番に出逢った話を一番最初にしたのは藤だった。
 藍と『再会したら名前を教える』と告げて車から去った後、事の重大さに動揺して藤に相談をした。気が動転していた永絆を落ち着かせてくれ、真剣に話を聞いてくれた。
 運命の番なんてものを藤も信じてはいなかった。そういうのがあれば素敵だね、と深く考えた事もなかった。
 これだけ人間が沢山いる世の中でたった一人の運命の番を見つけるなんて不可能だ。αと番えるだけでもΩにとっては幸運なのに、それが魂をも揺さぶる相手だなんて誰が信じるだろう。
 でも出逢ってしまった。理由なんてない。一目見て、この人だと解ったのだ。
「今は、ほとんど一緒に暮らしてるようなもんかな」
 藤とは久々に会うけれど、近況は連絡していた。入学した大学で藍に再会した事も、菫が亡くなった事も。
 永絆の中で藤はαではなく、一人の信頼出来る親友だった。藤も永絆をΩとしてではなく友人として扱ってくれている。
「じゃあ、番うの?」
 運命の相手に出逢った事を藤は喜んでくれた。菫の事情も話して知っているから、運命の番なら引き離されたりはしないねと安心していた。
 しかし紫之宮の名前を聞いた時、いつも穏和な藤も流石に困惑していた。
「……それはないよ」
「番わないって言われたの?」
 頼んだ飲み物が運ばれてきて目の前に置かれる。
 アイスコーヒーにストローをさしながら永絆は目を伏せた。
「番いたいって言われた」
「だったら何で?」
 藤は自分が頼んだ炭酸飲料を難しい顔をしながら飲んだ。
 ストローでグラスの中の氷をつつきながら永絆は言葉を詰まらせた。それを流し込む様にアイスコーヒーを飲む。
「仮に番えても、引き離されるのは目に見えてる。それならこのまま、時間が許す限り一緒に居たい」
 番ってしまえば後戻りは出来ない。
 引き離されて、菫の様に番を解消されてしまったらきっと耐えられない。
 ただ一人、唯一の相手。それを失えば自分も菫と同じ末路を辿る気がしてならない。
 永絆以外を抱いたりしないと藍は約束してくれたけれど、紫之宮の力を持ってすれば藍の気持ちなどお構い無しに事を進めるなんて簡単に出来る。
 紫之宮という一族は、それほどまでに藍の血を重んじているのだ。
「でも、それってきっと長く一緒に居ればいるほど離れる時辛くなるよ?」
 藤の言う事は尤もだ。藍の優しさに甘えて腕の中で安堵に満たされる度に、別れが怖くなる。深みにハマればハマるほど、失う時の哀しみは大きくなる。
「……それでも、オレには藍だけだから……」
 きっとこの先、藍以上に想える相手とは出会えない。だから今を一生の思い出にする為に大切に過ごしている。
「……その、永絆の相手もね、家を捨ててでも永絆と一緒に居ることを覚悟してるんでしょ?」
「うん、そう言ってる」
「きっと彼はとても良い人なんだね。永絆の事をとても想ってくれてる。だからホントに家を捨てる気でいる。でも永絆は、それを望んでないよね?」
「……望んでも、無理だから」
 藍には紫之宮という一族全ての責任を背負う義務がある。もし義務を放棄してΩと番い、紫之宮を捨てたとなったらどうなるか。
 紫之宮一族を悪く思う者も沢山いる。失墜させたくて仕方ない、他のαの一族達が。
 皆、自分達の一族を守るためなら何だってやるだろう。それが犯罪行為であっても。
「αってさ、知っての通り一度決めたら力強くで押し切る強引な人間ばかりだからね。彼も色んなリスクを分かってて覚悟してる筈だよ。その彼が永絆と引き離されて直ぐに諦めると思う?」
 藤が何を言いたいのか分からず首を傾げた。
 引き離されたら藍は軟禁状態になって二度と会えなくなるとは予想しているけれど、その時点で藍とは終わりになると思っていた。
「諦めたりしないと思うよ。何度も逃げ出そうとするって俺は思う。もし俺が彼だったらそうする。運命で惹かれあった相手を簡単に諦めたりできないよ」
「でも……オレは何も出来ない。藍には藍の相応しい場所があるんだ。どんなに望んでも……諦められなくても、ずっと一緒にはいられない……」
 だから今だけ、なんて都合が良すぎる。藍の優しさに甘えるだけ甘えて、引き離されたら自分はさっさと身を引くだなんて勝手すぎる。
「残酷だね。永絆は彼の事を考えて今だけの関係にしようとしてるけど、それって彼にとっては酷い裏切りだよ」
 何の反論も出来なかった。藤の言葉は正しい。藍の事を考えているつもりで結局は己が傷付きたくなくて簡単に手放そうとしている。
 こんな狡い考えを、いつの間にか正当化しようとしていた。
「二人で行けるとこまで行けばいい。ボロボロになって、後悔して、それでも一緒にいたいと思えるなら彼の覚悟を受け入れるんだ」
 藤の真っ直ぐに射抜くような強い視線を向けられて、永絆は自分の弱さと狡さを痛感した。
「でもね、それでも彼が家を捨てない方がいいと思うなら、彼にこう言うといいよ」
「……何て?」
「他に番いたい人が出来た、って」
「そんなの直ぐにバレるよっ。藍はきっと相手を調べるっ」
 調べるどころか会わせろと言ってくるかもしれない。そんな相手がいない事を徹底的に調べて永絆の感じる不安を取り除こうと躍起になるだろう。
「その時は俺が相手を演じてあげる。永絆の事はよく知ってるから完璧に演じ切るよ」
「……何で? 何で藤がそんな事……」
 下手をしたら紫之宮家を敵に回す事になる。一般家庭出身の藤を潰すなんて容易に出来る。
「俺は永絆に幸せになってほしい。永絆は幸せにならなきゃいけないんだ。菫さんの為にも」
「だからって……」
「俺は番とか正直、よく分からないけど……永絆の事は番にしたいくらい大切な存在なんだよ。大事な親友なんだよ。だからさ、お願いだから幸せになれる選択をして欲しい。その為なら何でも協力するから」
 喉の奥がぎゅうと握りしめられた様に苦しかった。
 大切な親友がこんなにも自分の行く末を案じていた事を今まで知らずにいた。
 ずっと近くで仲良くつるんでいたのに。
 ありがとうも、ごめんも言えないまま時間だけが過ぎていく。
 グラスの中の氷はとっくに溶けていた。

 藤と別れて藍の部屋に帰ってからも考えは纏まらなかった。
 一番正しい道を選んで進みたいのに、何が正しいのかすら分からなくなった。
 どれを選んでも誰かを傷付け、困らせる。誰も傷付けない選択肢なんてものがこの世に存在しない事はとっくに知っている。それでも誰も傷付けたくない。
 けれどそれは、藤にしてみれば裏切り行為。自分を正当化して現実から逃げているだけなのだ。
 ならば感情のままに流されてしまえばいいのか。
 例えば次に発情期が来た時に藍に抱いてもらい、番の印を項に刻んで貰えれば正しい道だと言えるのか。
 運命の番という意味ではそれが正しい答えで、当たり前の選択。
 番になりたいと思っているし、この先もずっと藍と一緒に居たいとも思っている。
 藍が家を捨てることなく、Ωである自分を紫之宮家が受け入れてくれたならそれが一番理想的。そんな事は有り得ないのだけれど。
 行けるとこまで藍と一緒に行けたならどんなに幸せか。
 周りを振り回して沢山迷惑を掛けて、それでも二人でいたいと強く思い合い、周囲の目も気にしないで藍とだけ支え合って生きていけたなら。
 その覚悟もないのにこれ以上、藍と共に同じ時間を同じ部屋で過ごしていてもいいのか。
 堂々巡りの思考に深い溜息を吐いた。
 きっと答えは出ない。正しい答えなんてない。選んだ道が自分にとっての正解になる。
「ただいま」
 考えを巡らせているうちに藍が帰宅して永絆の座るソファの隣に腰を掛けた。
 流れるような動作で永絆の肩に腕を回し、藍の肩へと引き寄せる。永絆はそれを抵抗もせずに受け入れ、肩に頭を預けた。
「何処に行ってたの?」
 朝、永絆が出掛ける前は何の予定もないから家にいると藍は言っていた。
「実家に顔出てきた」
「なんかあったの?」
「……別に、何も。気紛れに呼び出されるんだよ」
「そっか」
 藍の顔をそっと覗くと眉間に皺を寄せて何か考え事をしていた。実家で何かあったのは見ただけで分かった。どこまで踏み込んで訊いていいのか分からず、納得したフリをしたけれど。
「永絆は? 友達に会うって言ってたろ?」
「うん、会ってきたよ。元気にしてた」
「どういう友達なんだ? 前に付き合ってたとか、そういうヤツか?」
 藍の問いに永絆はクスリと笑んだ。
 藤とはそういう関係になった事は一度もないし、意識した事もない。恐らく藤もそうだろう。
 そんな藤を相手にヤキモチを妬く藍が愛おしかった。
「ホントに友達だよ。仲は良かったけど、恋愛感情なんてないよ、今も昔も」
 藤は永絆の為なら番になる芝居を演じると言った。藍をきちんと諦めさせる為に。
 だけど自分は諦める事が出来るだろうか。いつまでも藍を想って生きていくのではないか。きっとそうなる。藍が自分をきっぱり忘れてしまっても。
「……藍」
 名前を呼ぶだけで愛しくて、離れ難い気持ちが押し寄せる。
「ん?」
 どうして彼と出逢ってしまったのだろう。
 どうして番になれない相手が、運命の人なのだろう。
 どうして自分はΩで、彼はαなのだろう。
「オレを抱いて欲しい……」
「え……?」
 不安で押し潰されそうになる。
 藍は本当に自分を番にするつもりなのか。未だにキスをするくらいで身体に触れてこない藍に、どんな考えがあるのかも知らないでいる。
 今はその時じゃないと言われても、発情期になれば必ず最初に思い出すのは藍の事だ。藍に触れられて、その腕の中で淫らに曝け出したい。自分が抱えている欲情の全てを。
 今すぐ項を噛めとは言わないから、せめて身体を繋いで確かめたい。藍の心は自分に向いているのだという事を。
 激しい発情期の症状は藍以外の人間も誘惑して、自分でもコントロール出来なくなる。前に中根にも縋ってしまった。
 今は発情期が薄れてしまい、そこまで酷く誰彼求めたりはしないけれど何時また体質が変化するかは予想がつかない。
 今まで守ってきた、まだ綺麗な身体を発情期の衝動のないうちに藍に捧げたいと思うのは女みたいな願望で恥ずかしいけれど、本気でそう思っている。
 理性が飛んで藍以外の人間に身体を拓いてしまわぬうちに、藍の熱を感じたい。
「永絆」
 永絆の両頬を手で挟んで、藍はそっと短い口付けを口唇に落とす。
「何か不安なのか? もしそうなら正直に話してくれ」
 本気で心配するその瞳に永絆は戸惑いを隠せなかった。
 藍はこちらが望んでも直ぐに手を出したりしない。どれだけ理性が強いのか、一緒のベッドで寝ていても不必要には触れてこない。
 もっと触れてほしいのに。体温を感じたいのに。
「藍が……」
 自分を抱こうとしない事が不安なのだと言いたい。
 藍ならばいつだって受け入れる心の準備は出来ている。例えヒートで我を忘れた状態だったとしても、藍だったら構わない。
 そんな風に思っているのが自分だけだったらと思うと、はしたない欲情を抱いている事に恥ずかしくなるし、切なくて哀しくなる。
「オレを抱かないのは……」
 一度だけでいいから抱かれたいと望む事は罪だろうか。
 藍を苦しめてしまうのだろうか。
 何か考えがあって手を出さないというのなら、その考えを知りたい。そうじゃないなら藍の全てで壊れるほどめちゃくちゃにして欲しい。
 一緒に居ることで欲が強くなった。藤が言った言葉が胸に突き刺さる。
 一緒に居れば居るほど、辛くなる。
「番にしたくないから……?」
 大きく目を見開いて驚いた顔で永絆を見つめる藍。
 自分の身体が小さく震えている事に気が付いて手を強く握り締めた。
「永絆……オレがお前を今すぐ抱けばお前の不安は消えるのか? オレの覚悟を信じる事がそれで出来るか?」
 今、ここで藍と繋がれても不安が消える事はないと永絆は気が付いていた。ほんの一時、満たされる事はあってもまたすぐに不安になる。
 藍がこの項を噛んでくれるまでは、どんなに抱かれても不安は押し寄せてくる。
 紫之宮という名前が邪魔をして、一番信じたい相手の覚悟さえ信じきれないのだから。
 けれど、その問題とは別にただ純粋に求めている。
「オレはただ……もうキスだけじゃ足りないんだ」
 もっと求めて、欲してほしい。
 藍の腕の中で守られるだけじゃなく、衝動のままに愛してほしい。
 尽きない欲望に嫌気がさす。こんなふしだらなΩを藍はどう思うのか。
「藍に抱いて欲しい……。番うとか、そんなの考えなくていいから。藍が好きだからもっと藍に触れてほしいんだ」
 問題は山積みで解決策はまだ無くて。
 本当は問題を全てクリアにしてからの方が良いとは分かってはいる。藍もそのつもりでいるんだということも。
 全ての不安を取り除こうとしてくれている藍に、こんな風に求めたら困らせてしまう事も重々承知の上で、それでももっと藍に触れてほしい。
「……永絆……」
 ゆっくりと触れるだけの口付けをした後、ぎゅっと永絆を抱き締めた藍。
 早鐘を打っているのはどちらの心臓なのか区別がつかないくらいに強く抱き締められて、身体が熱くなる。
「永絆……オレだって永絆を抱きたい。毎日我慢してるんだ。一度でも抱いたら歯止めがきかなくなる」
「藍……」
「それでも……オレを」
 その答えの代わりに藍の背中に腕を回して服を掴んだ。
「永絆……」
 そのままソファの上に押し倒され、藍を見上げる体勢になる。
 視線が合った先に居たのは雄の目をした藍。
 高鳴る心臓がやけに響く中、永絆はその鋭い瞳に手を伸ばした。
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