はなのなまえ

柚杏

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六章

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 花は、香りを出して虫を呼び、蜜を与え花粉を付着させ遠くへ運ばせる。
 藍はΩのフェロモンを花の様な匂いだと言った。永絆は花の様に甘い匂いがすると。
 永絆も藍から花みたいに甘い匂いを感じた。
 お互いが近付くと永絆からフェロモンが溢れたのは番である藍を呼び寄せる為で、近付く事が出来た今、そのフェロモンを出す理由がなくなったから発情期ごと治まったのかもしれない。
 藍の胸に顔を埋めながら、永絆はそんな事を考えていた。
「ふっ……」
 その思考を妨げる様に服の中に潜ってきた手が永絆の素肌を滑った。擽ったいような、ムズムズするような感覚に思わず息を漏らすと藍の口唇がそれを塞いだ。
 溶けだしそうな熱を舌と舌で分け合いながらお互いの口内を行き来する。身体の芯が痺れて頭の中がぼんやりとしてくる。
 発情期の感覚に似てると感じた。感じてすぐに自分は藍に対して発情期でもないのに発情しているんだと悟った。
 Ωの本能ではなく、藍を深く想って欲情しているのだと。
「んっ」
 藍の口唇と舌が首筋を這って鎖骨へと下りていく。肌全体が敏感になった身体はたったそれだけでむず痒い快楽を拾う。
 捲られたシャツの山を越えて藍の舌は身体の中心を線を描くように舐めていく。鎖骨の間から臍まで一直線に這った生あたたかい舌に永絆の身体はビクリと飛び跳ねた。
 腹のあちこちに小さな痛みのあるキスを施されながらベルトを外されジーンズの前を寛がされると、自分自身が形を成してきているのに気が付き急に恥ずかしくなった。
 藍の手が下着の中へと侵入して来るのを思わず手を掴んで止めると、息を荒くした藍がその手を空いているもう片方の手で解いた。呆気なく下着をジーンズごと足から抜き取られ下半身を無防備な状態にされると羞恥で目を瞑った。
「永絆」
 名前を呼ばれ薄ら目を開けると藍の顔がすぐ傍にあって、吸い付く様に甘いキスを交わす。
 いつの間にか上半身裸になった藍の身体が永絆に重なり、肌同士が触れ合う。
 その温もりにもっと触れたくて藍の背中に腕を回す。広く靱やかな背中と、引き締まった胸や腹を直接感じると欲望は更に強くなる。
 もっとくっつきたいと無意識に腰を揺らし煽るうちに、はあはあと息が上がり自身の先端からは蜜が溢れて糸を引いていた。
「永絆……」
 強く抱き締められ昂りに藍の下半身がぶつかり身体が跳ねる。片手で器用に自らの履いていた服を脱ぎ捨てると藍の半身が露になり、蜜を垂らした永絆自身に重なった。
 それは今までに感じた事のない衝撃だった。
 熱く猛る二つの塊が重なり合い先端からとめどなく蜜を垂らして揺れる。どちらからともなく腰が動き、上下に擦れ合う二つの熱塊は擦り合う度に熱を上昇させ二人の息を弾ませる。
 はぁ、と息を吐いた藍を見上げると切なそうに見つめられたまま蕩けるような口付けをされる。永絆の口内を丁寧に舐め唾液を啜る藍の舌は甘く、永絆はその舌に夢中で貪りついた。
 お互いの昂りから溢れる蜜を指で掬った藍が永絆の秘部に手を伸ばす。そっと触れられた瞬間、思わず藍の背中に回した手で爪を立てた。殆ど無意識に立てた爪は背中に縦に痕を残し、その痛みに藍の顔が少し歪んだ。
 そうとは知らずに後孔を解していく指に翻弄され身を捩る永絆に何度も甘い口付けをしては小さく永絆の名前を呼ぶ藍。
 名前を呼ばれる度に身体が悦びを知り、立てていた爪は力を失くし、ただされるがままに快楽を引き出されていった。
「はっ、あっ」
 解れた後孔に指が入っていくのが分かる。丁寧に解された為に痛みは感じなかったけれど、違和感があった。
 男性のΩの身体はこの場所を使って受け入れる様に出来ている為に欲情したら女性同様に濡れてくる。永絆も気付かぬうちにそこをはしたない程濡らしていた。
 お陰で藍の指は抵抗もなくするりと入って行き、蠢く中を進んでいった。
「あっ、あっ……んっ、は、あっ」
 発情期に自分で慰める事は何度もあった。そこを指で刺激した事も。
 けれど今、永絆の中を探っているのは永絆の指ではなく藍の骨張った男らしい指だ。
 自分でする時とは全く違う刺激に、中が指で抉られる度に視界がチカチカと点滅して意識を手放しそうになった。
 重なる二つの熱から、ぐちゅりと卑猥な水音がする。中を攻める指と前の熱の擦れ合いが永絆を限界へと追い立て、半身が小刻みに震え出す。
「あっ、あいっ……だめ、もっ……」
 知らないうちに二本目の指も入れられ不規則に動かされてぐちゃぐちゃに溶かされていく。もうすぐそこまで欲が出口に向けて迫っている。堪らず足の指に力が入り、ソファを滑っていく。
 それなのに指を急に抜かれ、中に感じていた快感を失ってしまう。
 後少しで達したのにどうして、と虚ろな瞳で藍を恨めしく見ると、ふっと優しく微笑まれ永絆の両足を高く持ち上げ自らの肩に掛けた。
「なっ、やっ……やだっ、こんなっ……」
 足を拡げられ慌てて閉じようとするが、びくともしない。
 真っ赤に顔を染めた永絆の額にキスを一つ落とすと、永絆の手に自分の手を重ね絡ませた。
 それまで指が入っていた場所に熱い塊が宛てがわれた。瞬間、永絆の身体はこれから何が行われるかを察知して緊張で固まってしまった。
 重ねた手を縋るように握ると熱い楔がぬるりと入口を押し広げて入ってきた。
「ふっ、あっ! や、待っ……」
 圧迫されれ感覚が入口付近を支配し、永絆は息を詰めて背中を弓なりにした。じんわりと額に汗が滲む。痛みではなく、違和感だけが腹の下から押しあがって来て内臓が潰れるのではないかと思った。
「永絆、ちゃんと息して」
 言われて自分が息を止めていた事に気付く。慌てて息を吸い込むと、入口付近にいた熱が淫猥な音を立てて中へと進み出した。
「くっ……あ、あいっ……」
 内襞が藍の半身の頭を飲み込もうとして蠢くのが永絆にもわかった。同時にまだ括れの部分までしか入っていないということも。
 その場所で止まったまま、藍が深く息を吐く。既に余裕のない永絆は短い呼吸を何度も繰り返し括れ部分までがじっくり馴染んでいくのを不思議な気持ちで感じていた。
「永絆、酷くしたくなかったけど……ごめん、無理」
「……え」
 唇を噛んだ藍が絡めた手を強く握った瞬間、残りの熱が勢いよく永絆の奥まで貫かれた。
「ああっ!」
 強過ぎる刺激に声が大きくなり、先程直前で我慢させられた欲が勢いよく爆ぜた。
 腹に散る白濁を指で掬って永絆に見せつけるように指を舐めた藍の仕草に強い色気を感じて、欲を出したばかりなのにまた半身が反応し始めた。
 奥の方で存在感を出す藍自身に圧迫感を抱きながらも、自分の中にいる事に悦びを覚え涙が出そうになった。
 このままこうして繋がっていたい。朝も昼も夜も関係なく、誰にも引き剥がされないようにずっと熱に侵されていたい。
「辛くないか?」
 額に滲んだ汗でへばりついた髪を直してくれる指は優しかった。最上級の労りを感じて、幸せに満ち溢れた。
「大丈夫……。藍、藍……」
 首に腕を伸ばし抱きつこうとすると、その腕を首に巻かれ永絆の背中に永絆の腕が回ってきた。そして勢いよく上体を起こされ、向かい合う様に座らされる。
「藍っ……」
 膝の上に乗るような体勢にされ、繋がっていた場所の角度が変わりより深くに藍を感じた。
「く、はっ……」
 藍が少し動くだけで永絆の中は敏感に反応する。それは苦しくもあり、同時に気持ちよくもあった。
 永絆の後頭部に手を回し、押さえつける様に口唇を貪る藍にされるがまま必死にしがみつき、ゆっくりと揺らされる腰の動きに身を捩る。
「ふっ、ん、んん、は、あっ」
 ゆっくりだった動きは次第に速くなり、上下左右に永絆を翻弄する。その動きに置いていかれまいと永絆もまた身体を跳ねさせるうちに圧迫感で苦しかった中は快楽だけを感じるようになった。
 何度も口唇を重ね、永絆の肌を藍の舌が這い、胸の粒を食まれればビクンと背中を弓なりに反らす。嫌ではないのに首を横に振っては、ヤダと掠れた声をあげ啼くと更に下から突き上げられ声さえ出ない快楽に埋め尽くされる。
「はっ、ああっ……!」
 何度も突かれるうちにある箇所を藍の熱が掠めた。その瞬間、電流が永絆の身体を走り抜けビクビクと全身を震わせた。
「やっ、そこっ……」
「……ん」
「あっ、やっ、ダメっ……」
 一度見つけた永絆の敏感な箇所を執拗に突いては、逃げようと身動ぐ永絆を抱き包む。何回も永絆の名前を呼び貫く楔に、永絆の意識が白くチカチカと点滅し始める。
「永絆……永絆……。噛みたい、今すぐ……」
 まるで本に出てくる吸血鬼のように永絆の首筋に歯を立て甘噛みをしては息を荒立てる藍に、飛び飛びになる意識を戻してはその返事を模索する。
 発情期じゃない今、噛んでも番は成立しない。ならば、藍の望むがままにして欲しい。例え、後でその行為に虚しさを感じてもいいから。
「は、あ、あいっ……」
 藍の動きが一際速くなる。お互い限界が近いとわかり、永絆は途切れ途切れになりながらもその答えを何とか告げようと藍を抱きしめる。
「藍っ……んっ、あいっ……」
「永絆っ……もうっ……」
「あっ、待っ……藍っ、かん……噛んでっ……」
 精一杯振り絞った声を聞いた瞬間、藍の歯が思い切り首筋に痕をつけた。
「あ、ああっ……」
 痛みと快楽の両方を与えられ、永絆の欲が吐き出される。その中にドクリと熱いモノを感じて、藍も達した事を知ると意識は真っ白になった。

***

 鏡の前で首の痕を見ながら触れてみた。
 あの日、くっきりとついていた噛み跡は時間が経つにつれて薄れていき、痛みもなくなった。これが発情期での行為だったなら噛み跡だけが残っていつまでも消えない。消えていくという事は番になっていないという事だ。
 そんな事は分かっていた筈なのに痕が消えていくのが哀しい。何故あの日発情期じゃなかったのだろうと思ってしまう。
「発情期だったら抱いてくれなかったかもね……」
 鏡の中の自分に呟く。
 抱いて欲しいと懇願しなければ藍は抱いてはくれなかった。焦れったいキスをするだけの微妙な関係のままだったはずだ。
 身体を繋げたあの日から一週間、藍の箍が外れる事はなく、一緒のベッドで眠っても以前と同じ様にただ包み込む様に抱きしめて眠るだけ。
 藍は後悔しているのかもしれない。運命の番を実際に抱いて興味が薄れてしまったのかも。そんなネガティブな考えばかりが浮かんで、藍の腕の中にいても不安だけが募る。
 好きな人と一緒にいるのに。こんなに近くで触れ合っているのに。
 どうして満足出来ないのだろう。どうして心から笑えないのだろう。
 番になれない事にまだ自分は未練があるのだろうか。諦めると決めたのに。藍の将来の邪魔はしないと誓ったのに。
 こんな気持ちのまま、藍から離れるなんて出来るのだろうか。無理やり引き剥がされでもしない限り、藍の傍でダラダラと過ごして生きていきそうで怖い。藍だけに依存して生きていくなんて、そんな事は出来ないのに。
 菫が生きていたら良かったのに。あの人に話して頭を撫でてほしかった。生きていたら今の自分に何て言葉を掛けるだろう。きっと怒ったりはしない。ただ優しく微笑んでくれる。永絆の思うようにしたらいいよ、と言ってくれる。
 いい加減、誰かに頼らないで生きていかなければいけないのに。まだこんなに弱い。何事にも動じない強さがほしいのに、藍と出逢ってから弱くなる一方だ。それだけ藍の存在が永絆の中で大きくなっている。
 藍がいないと、ダメになってしまっている。藍が自分の全てに。
 ため息を吐きながら藍のマンションを出て大学へ向かう。藍は朝一から講義があるから先に大学へ行っていた。お昼に一緒にご飯を食べる約束をしているから、これから受ける講義が終わったら連絡を入れようと考えながら通い慣れてきた道を歩く。
「ねぇ、そこの貴方!」
 いかにも女の子らしい鈴のような可愛らしい声が道端に響いて永絆は足を止めた。今この付近にいるのは永絆だけで、恐らく自分に声を掛けたのだろうと思ったからだ。
 声がした後方に振り返るとフワリとしたワンピースに身を包み、長い髪をクルクルと器用に巻いて揺らす大きな瞳が印象的な少女が立っていた。
「貴方、永絆さん?」
 ヒールの高い靴をカツカツと小気味よく鳴らしながら近付いてきた少女に永絆は少し躊躇いだ。可愛くていかにも美少女といった顔立ちとそれに見合った可憐な服装にも関わらず、少女の気の強さが滲み出ていた。
「あの……?」
 こんな印象的な少女、一度見たら忘れる筈がない。知り合いでもないのに名前を知っていて顔も認識されている事に警戒して一歩後退った。
「いきなりで申し訳がないんですけど、私、茉莉花と言います」
 永絆の目の前まで来るとピタリと両足を揃えて永絆を見上げてきた。姿勢の良さが育ちの良さを物語っていた。
「紫ノ宮藍さん、知ってますよね?」
 その名前にドキリとした。
 薄々予想はしていたが、やはり彼女は紫ノ宮の関係者なのだろう。着ている服や身に付けているアクセサリー、所作の綺麗さを見れば一般人でないのは分かる。
「貴方が、彼の運命の番と聞きました」
「……誰から?」
 永絆と藍が運命の番である事を知っているのは極少数だ。中根と藤、送迎をしてくれていた運転手、菫。永絆が知る限りはこれだけの筈だった。
「本人から聞きました。紫ノ宮藍様から。先日、紫ノ宮家での顔合わせで運命の番がいるとご両親や私の前で言ってました。事実なのですか?」
 驚いて頭がすぐに回らなかった。先日とは藤とあった日の事だろうか。あの日、実家に行ったと言っていた。その時に藍は両親やこの茉莉花という少女に自分の事を話したということなのか。
「どうなんですか?」
 答えない永絆に痺れを切らして再度問いかける茉莉花の剣幕にこの場から逃げ出したくなった。
「……藍が、嘘をつくと思いますか?」
 藍が本気で自分を番にするつもりなんだとやっと実感が出来た。両親に話をするのにどれほど覚悟がいったか。それを考えると諦めていた番の夢がまた火を灯し始めた。
「そうね……実直な方だから、大事な席でくだらない嘘はつかないと思います」
「大事な席?」
 そういえば彼女は一体、藍の何なのだろうか。
 妹が居るとは聞いていないし、藍の両親と顔を付き合わせる事が出来るのだから只の知り合いではないだろう。
「聞いてません? 先日、正式に婚約をする予定だったと」
「……婚約?」
 視界が真っ暗になった。
 紫ノ宮の跡取りともなればそういう話があってもおかしくはないし、いずれは相応しい相手と結婚するのだろうと予想はしていた。
 けれどまさか、まだ大学在学中に婚約の話が出るとは思っていなかった。
 それに藍はあの日、こんな大事な事を何も言わなかった。言わないまま、永絆を抱いた。
 思わず自分の体を自分で抱き締めた。急に体が震えて寒くて仕方ない。
「番がいるからと言われて正式な話は保留になりましたけど。どんな方なのか見たくて声を掛けました。藍様が番いたいと思う程素晴らしいΩなら私も納得出来ると思って」
 だけど、と彼女は言葉を続けた。
「大した事はないみたいで安心しました。婚約の話も聞かされていないみたいですし、本当に番うつもりなら貴方にちゃんと話すはずですものね?」
 自分が何にショックを受けているのか分からないでいた。
 番になんてなれない事も、いつか藍が誰かと結婚して紫ノ宮を継ぐ事も分かっていたはずなのに。
 ほんの少しだけ、藍が両親に自分の事を話したと知って期待してしまった。それを一瞬で落とされた。その落差に今にも崩れ落ちそうだ。
「貴方も紫ノ宮家に入れるなんて考えてはいないでしょう? 紫ノ宮は代々由緒正しいαの家系。結婚相手も選りすぐりのαの血統なのは知ってますよね? だから、貴方は番にはなれないんです」
 可愛らしい声とは裏腹に、茉莉花の言葉には棘があった。
 その棘は永絆の心を痛めつけるには十分過ぎる程、尖っていた。
「でも、私は純粋なαの血筋に産まれた正真正銘のαです。紫ノ宮家に嫁ぐのに一番相応しい相手。だから私は紫ノ宮藍様と結婚してαの子供を産むんです。昔から決められていたようなものなんです。わかりますよね?」
 今すぐ誰か、ここから連れ出してくれと願った。
 もうこれ以上聞いていたくない。逃げ出したい。けれど足が動いてくれない。まるで根が張った様に微動打にしない。
「貴方が運命の相手だと言うのは聞きました。でも、番えなければ運命なんて意味は無いでしょう? 貴方も番えない相手といるより、他に探した方がいいんじゃないですか?」
 そんなことは言われなくても分かっている。運命だろうが何だろうが、藍とは番にはなれない事は何度も自分に言い聞かせたから身に染みている。
 だけどいざ、他人に言われるとこんなにも痛い。何も言い返せなくなるくらいショックが大きい。
「それでも、藍様がいいと言うのなら、構いませんよ?」
「……え?」
「男性の浮気の一つや二つ、寛容に受け入れて許す心持ちでいろと教えられてきましたから。貴方を囲うくらい何とも思いません」
 下唇を、グッと噛み締めた。
 酷い侮辱だと思った。悔しくて、女性じゃなければ殴ってしまいたかった。
「けれど、番うのはダメです。子供を作ることも。それでもいいと言うのなら、私は構いません。紫ノ宮家の跡継ぎは私が産むんですから」
 口唇から血が滲んで鉄の味が口に広がった。噛みすぎて切れてしまったらしい。
 痛みは感じない。口唇の傷より心に受けた傷の方が痛かった。ドロドロと内側から汚れた血が流れ出して来そうな感覚に吐き気がした。
 茉莉花には茉莉花の言い分があって、彼女もαの家系としてのプライドや立場があるのだろう。そう簡単に紫ノ宮家の跡取りの嫁という立場を捨てたりはしない。例え相手が運命で惹かれ合う番だったとしても。
 茉莉花の言葉の節々にそんな強さが垣間見えて永絆は言い返す言葉が何一つ浮かんで来なかった。言い負かされたというよりは、自分の存在意義を全否定されて居た堪れなくなってしまったのだ。
 彼女と結婚した後もΩの一人くらい囲う経済的余裕は藍にはある。茉莉花の言う通り、番わずに子供も作らなければ離れなくて済むかもしれない。
 けれどそれは、永絆を人間として扱っていない。ペットと同じ扱いだ。
「私の言いたいことはとりあえず伝えました。よく考えて、これからの事を決めてくださいね。Ωにだって、プライドはあるでしょう?」
 踵を返して停まっていた車に乗り込んで、茉莉花は車内から永絆に一礼して去って行った。
 永絆はしばらくそこから動けなかった。
 頭の中がグチャグチャで、今まで夢の中に居るみたいに藍と幸せに過ごしてきた日々が音もなく崩れていくのをぼんやりと見ていた。

 大学に行く気になれず、部屋へ戻った永絆はリビングのソファに腰掛けたままグチャグチャの思考回路を修復しようと必死だった。
 昼食を一緒に摂る約束をしていた事も忘れて、藍に連絡も入れなかった。そのせいか藍からの着信が何度もあったが出る気にはなれなかった。
 このソファの上で身体を繋げて一時の幸せを感じていたのが随分と昔に思える。
 けれどその日、藍は実家で茉莉花と会っていた。正式な婚約を交わすために。
 藍は拒否したと茉莉花が言っていたが、彼女が永絆に会いに来てまで忠告をしたのだから藍がどんなに拒んでも婚約の話はなくなりはしないのだろう。
 いつか来ると思っていた現実がもう目の前に来ていた。心構えをしっかりと出来ないまま、自分の立場がどれだけ弱いのかを知らされた。
 藍とこれからも一緒に居るには、自分は日陰の身で在り続けなければならない。簡単に言えば愛人。いや、ただのペットだ。
 Ωにだってプライドはある。誰彼構わず足を開く訳じゃない。好いた相手と一緒に生きていきたいと願うのはΩもαも変わらない。
「永絆、いるのか?」
 玄関のドアの開く音がして藍の声が響いた。
 まだ考えがまとまっていないのにどんな顔をして藍に会えばいいのか分からない。上手く笑えそうにない。
 リビングのドアが開いて藍が入ってくる。一瞬でリビングが藍の花の匂いでいっぱいになって永絆は安心感と同時に切なさを感じた。
「永絆、どうした? 体調でも悪いのか?」
 ソファに座ったまま動こうとしない永絆を心配して藍が永絆の隣に腰掛けた。優しく髪を撫でる藍の手は暖かくて、ゴチャゴチャになっていた全ての事がどうでもよくなってしまう。
 だけどそれじゃあダメなのだと口唇を強く結ぶ。
「永絆……? ここどうした? 切れてる」
 不意に噛んで傷付けた口唇に触れられて、肩がビクリと跳ね上がった。その反応に藍も驚いて目を丸くする。
「永絆……何があったか説明しろ」
 優しかった口調が厳しいものに代わり、恐る恐る見た藍の顔は怒っているようだった。
「……この間……実家、行ったんだよね?」
 初めて身体を繋げたあの日、藍は実家から帰宅した後だった。いつものくだらない呼び出しだと言って、それ以上何も言わなかった。
「何の用だったの?」
「何の、って……別にただ顔見せに行っただけで用事があった訳じゃないけど」
 どうしてそんな風に誤魔化すのか。
 婚約の話をしたら不安にさせると思っているのだろうか。
 それはきっと永絆を思って黙っているのだろうけれど、大事に思っているのなら包み隠さず言ってほしいと思うのは我儘なのだろうか。
「……会ったよ、今日」
「誰に?」
「……茉莉花さん」
「え……?」
 その名前に藍の表情が崩れた。顔色が変わって、更に怒りが増したように見えた。
「婚約、するからって」
「オレはするつもりはない! はっきり断ったし、永絆の事もちゃんと言った!」
「うん、聞いた。だから婚約は保留になったって。でも……番にはなれないと思えって言われたよ」
 自分で思うよりも、他人に言われた方が言葉の威力は鋭い。分かっていたことなのに予想以上のダメージを受けている。
「番わずに、子供も作らずに、ただ囲われているだけなら構わないって」
 言って、それがどれほど虚しい事か思い知る。
 藍が自分の元に来るのをただ待つ日々。そんな人生を送るだなんて。
「ねぇ……藍もそのつもりでいるの? オレは、藍の一番にはなれないの?」
「そんなわけっ……」
 永絆を強く抱き寄せて藍は言葉を詰まらせた。
 永絆にどう伝えれば安心させられるのか、頭をフル回転させるが抱き締めた永絆の身体の冷たさに取り戻せない何かを失ったと気が付いた。
「どうして……何も話してくれなかったの……? どうしてあの日、オレの誘いに乗ったの……? どうして……あれから抱いてくれないの?」
 虚ろに疑問を投げかける永絆に藍は何と答えるべきか分からなかった。
 何を言っても今更で、永絆には言い訳にしか聞こえない。感情を失った声が何度も「どうして」と呟くのを抱きしめて聞いているしかなかった。
「……永絆……。永絆が好きなんだ。他には何もいらない。永絆がいれば紫之宮なんて捨ててもいい。だけどオレが捨てたって、連れ戻されたら永絆を一人にしてしまう……。オレは永絆と一緒に居られる方法を探してるんだ」
 全て捨てて何処か遠い場所で誰にも知られずに二人だけで生きていけたならどんなに幸せか。
 けれど紫ノ宮の名前がそれを許さない。何としても捜し出して強引に連れ戻されるのがオチだろう。そうなったら永絆を一人残してしまう事になる。
 菫を亡くして一人になった永絆に、これ以上寂しい思いをさせたくはない。もう一人ぼっちにはしたくない。これからはずっと一緒に生きていきたい。
 その為には紫ノ宮の――両親の許しがなければ。
 婚約の話が急に進んだのも永絆の事が知られたからだろう。絶対に婚約を成立させてはならない。永絆に言えば不安にさせると思って、解決したら話すつもりが裏目に出てしまった。
「頼むから信じてくれ」
 今はそれしか言えない。後は永絆次第だ。
 どうにかして紫ノ宮の一族を説得して永絆を正式に番として認めさせたい。
「……藍……。オレだって分かってるんだ。藍と番になる事が難しい事。だから今、一緒にいられる時間だけでも大切にしたい」
「永絆、そんなこと言うなよっ……」
「番になれなくても構わないんだ。ただ、今だけは……藍に沢山愛されたかった。身体中で藍を感じたかった。でも藍は……抱いてくれない」
 きっと藍には何を言ってるのか理解不能だろう。
 これから先の事を考えて行動している藍と、今だけを考えている永絆と。
 考え方が違う。向かう先が違う。だからお互いの欲しいものが、求めているものが分からない。
「オレはただ、藍に抱かれたいだけなんだよ」
 Ωとしての本能を、αである藍に満たしてほしい。
 心が大事なのは分かっている。そんなのはとっくにここにある。あと足りないのは、満たされたいのは、持て余した身体の疼きを満たしてくれる人。
 囲われて待つなんて嫌だ。常にそこにいて欲しいままに愛してくれないと。
 そんなのは、紫ノ宮の名前を背負う藍には無理な話だから。だから今だけでいいからそうして欲しいのに。
 こんなに欲が強いのは、Ωだからか、それとも運命の番だからか。
「オレ達は……番にはなれない」
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